第四章 その二

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 何事にも不器用な由貴に、琢馬の相手ができるはずもない。一人稽古する琢馬を眺め、日に何度か湯に浸かる、ただそれだけの日々。それが由貴をこんなふうにしたのなら、自分も貴之とただともに在る日々の中で、そうなっていけるのだろうか。  源次郎はかすかに苦笑した。羨望、嫉妬、反発と対抗に似た思い。絡まった糸のようだ。 「楽しみといえば、花見も楽しみだ。数日に分けて、殿は家中の者全員と時をともにされる。他家ではそんなことはないだろう?」  誇らしげな由貴の横顔。ゆったりした笑みを含んで遠くを見る瞳。光を帯びた長いまつげのまたたきが美しい。  貴之は由貴に一目惚れし、すべてが自分のものにならないことにいらだち、もがき、それでもあきらめられなかった、と言う。そういうものが自分にはない、と源次郎は思う。いったい貴之が自分のどこを気に入ったのか、分かっているつもりだが時々不安になる。  貴之が由貴の心を求め続けたように、強く長く続くのだろうかと。ずっとともに時を重ねていくことが、本当に可能なのだろうかと。  比べてはならないと自分に言い聞かせても、つい比べてしまう。十年もの間想いを注がれ続けた身を前にすれば、なおさらだ。 「ご一同、そろそろ始まりますぞ!」  結果、琢馬は今年もあざやかに勝った。初戦では相手を圧倒して手も足も出させず、二戦目でも相手に一本取られたが、切れのある動きであとの二本をあっという間に取った。決勝戦ではさすがに相手も強く、息もつかせぬ攻防に場は人などいないかのような静寂に覆われたほどだった。  源次郎の隣で、ただ静かに試合を見ていた由貴。目だけがせわしなく動きを追い、口もとには笑みを浮かべたまま、澄んだ湖のようなたたずまいだった。  由貴は、変わった。 「なにを考えておるのだ?」  いえ、とだけ応えて、源次郎は貴之の肩に頭を預ける。由貴が帰ってきてからも、貴之が源次郎の所に来るのは変わらない。  変わらず来てくれるのはうれしいが、本当は貴之は由貴のところに行きたいのではないか、という思いが、炎のように揺らめいて消えない。 「これからどうなさるおつもりですか」  ぴくりと反応する貴之。言葉にしたことを後悔してももう遅い。  しかし貴之はなにも言わず、しばらくただ静かに源次郎の背中をなでた。 「こうするに決まっておる」  片手が源次郎の襟をなぞり、胸まで下りたところですっと懐に入りこむ。一方の手は裾を割って脚をゆっくりなで上げる。 「殿……」  耳を食み、貴之は低い声を吹きこむ。 「決めてはいる」  顔を見ようとしたが、それは貴之の腕が許さなかった。 「だが、お前だけに言うわけにはいかん」  源次郎はそっとため息をついた。それ以上聞くべきではない。今はただ求めに応えよう。 「それにしても、暖かくなったものだ。もうこうして肌を出しても寒くない」  楽しげに笑う貴之。その胸中が分からないからといって、いちいち不安になっていては身がもたない。お互い分からないことばかりだからこそ、言葉を重ね肌を重ね、ともに歩む中でなじみあい分かりあっていくのだ。今はまだ、ようやくなじみ始めたばかりではないか。  信じるのだ。
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