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波と、一回性の夜
「これが欲しいのか? ならくれてやるよ、それがお前にとって何かの証明になるならな」
死刑宣告のように女は言った。
労働許可証の申請に行った移民局の事務所で、貰った整理券の受付番号は二時間前に過ぎていた。左端にせめて呼ばれるグループのカテゴリーでもアルファベットで書かれていれば良かったが、電光掲示板と照らし合わせても八桁の数字の羅列のどこに自分の順番が書かれているのか分からなかった。仕方なくWi-Fiがなくとも使えるゲームアプリに興じていると正午になっていて、流石に遅いと思ってベンチから腰を上げて受付に赴くと整理券を受け取った係の女は眼鏡越しの眼球をギョロリと上目遣いに俺を睨み、流暢とは言えない英語で凡そこのようなことを言った。お前の受付時間はとっくに過ぎている、この整理券は無効だ。そのアクセントには権力を司る者にしか醸せない、しかし自分に権力があると信じた人間一般が備える驚く程凡庸な傲慢さが醸し出されていて、俺はこれから互いが交わす言葉の一切が無意味であると悟った。けれどこのまま手ぶらで帰るのもつまらないと思い、女が受け取るなりすぐに整理券を捨てたゴミ箱を指差した。Please, show me the ticket. I wanna know which is my number.
Thank youの代わりにFuck youと言ってその場を立ち去りたかった俺はけれど、何も言わずにゴミ箱から取り出されたチケットを受け取って事務所を出た。歩道のブロック塀に腰を下ろし、スマホを取り出してさっきまでやっていたゲームの続きをやる。四角い面に幾つもの直線やL字やコの字やH字形の表示があり、それらをタップして字形の通りに拡げて行き、組み合わせた字形で最終的に面を隈なく塗り潰せればクリアだ。最後のH字を嵌め込んでステージをクリアした時には十五分近く経っていた。スマホをジーパンの右ポケットに仕舞い、掌に汗で張り付いた整理券に目を落とす。見返しても、やはり数字の羅列のどの部分が自分の順番を表しているのかは判然としない。そのまま掌で丸め、歩道に放り投げて立ち上がる。前日の夕方に訪れた際、電話で予約を取るかさもなくば当日の朝六時から並んで整理券を貰えと言われ、ドミでツイッターを見ながら夜を明かしてまで足を運んだのにこのザマかよ。役所はどこもクソだなとささくれ立った気持ちでリスボンの街を歩きながら、天皇制はやはり必要だよ、と言った教授の顔が脳裡を過った。その顔。お前らのその顔だよ、俺が唾を吐き掛けてやりたいのは。お前らはいいよな、そっち側で生きれたんだからさ。自分が誰かを支配することに疑問を抱かず、そのことについて疑問を抱かないでいられる程度には事実として誰かを支配しながら生きてこれたんだから。その生き様が顔に出てるぜ。この世に偶然現れた一回性。あの夜の彼女の横顔を、夜から切り抜いた頬のカーブ。その曲線の美しさと真逆の、怠惰に固まった平面だ。生きてんのか死んでんのかも分かりゃしねえよ。
そんな奴らに囲まれてこれからも生きていくことに耐えられず、かと言って走る電車のドアを抉じ開けてまで飛び降りる勇気も持たず、とりあえず駅に着くまでは乗っていようと中退も就活もせずに大学を卒業した俺はポルトガルに来た。別に何をしに来た訳でもない。とりあえずどこか遠くへ行こうと思って、どうせだったらヨーロッパ辺りまで足を伸ばそう、そう言えば昔観た映画の舞台はリスボンで、物語の内容は忘れたけれど景色がいやに綺麗だったことを覚えている、ということを思い出した。それだけだ。それだけのことで、日本で生れ育った人間がリスボンまで来ることができるのだ。出鱈目でいいじゃないか。生きてるって感じがする。生きてるってことがどういうことなのかもう二十二年以上生きているのに未だに俺には皆目見当が付かないけれど、それはつまり生きるってことが元来それだけ出鱈目で、こういうものだと決め付けることができないものだからで、だとすれば出鱈目をすればする程、その捉えどころのない生の匂いだけが濃厚に感じられる気がした。多分、俺は今、生きている。生きている俺は腹ごなしをしよう。目に付いた食堂に入って、7€で魚―尾に連なる硬い突起や解した身の感じから恐らく鯵―の炭火焼きを頼む。付け合わせのスパニッシュソース? 刻んだパプリカやパセリをオリーブオイルとビネガーで混ぜ合わせたソースが旨い。鯵とオリーブオイルがこんなに合うだなんて、日本に居たら一生気付かなかったかも知れない。しかも二尾も付いてくる。なんてこった、日本よりも安いくらいじゃないか。
ドミトリーに戻ると、ドアを開けるなり鼻腔を異様な臭気が駆け抜けた。鼻をつまむと同時に視界が捉えたのは、計四台の二段ベッドの縁という縁に洗濯物の干された部屋の惨状だった。中にはブラジャーまである。それら洗濯物の生乾きの臭いと、何よりそれを誤魔化す為か洗剤に予め添加してあったのであろう芳香剤の臭いが、人間同士がいくら訓練を積んでも獲得し得ない絶妙なコンビネーションで俺の嗅覚を挑発し、蹂躙した。俺はドアを閉めてすべてをなかったことにする。そして深呼吸をしたつもりが、気付けば叫んでいた。What's the hell!!!!!!! 俺が万国共通の役人の横柄さに鼻をつまんでいる間に、仮初の我が家はもっと鼻をつままなくちゃいけない有様に変貌していた。こりゃあ一体、どういうことだい? 俺が部屋を出た時にはアジア系の爺さんが一人寝ていただけだから、この惨状は新たなる闖入者の仕業に違いない。ベランダに干せ! 空いてねえならコインランドリー行って乾燥機使え!! 金を払え、ここはてめえの部屋じゃねえ!!! 異国の地でも容赦なく襲い来る人生の無常に、為す術なく俺はコモンルームへと退散した。大柄な白人男が32インチくらいのデカいテレビ画面を観ながらゲラゲラ笑ってる。その声をデシベルに換算するとどれくらいか、なんてことすら俺には見当も付かない。自分から何を知ろうともせずのうのうと生きてきた。そのツケとして、お前は今ドミトリーという公共空間をまるで自分の部屋のように使う頭のイカレた女と相部屋になっちまったって訳さ。どこかから聴こえるそんな声を掻き消そうとしてiPhone付属のイヤフォンを耳に挿して部屋の隅っこに蹲ったけれど、サンクラから流れる名も知らぬアーティストの歌声によってはその目論見が果たされることはなかった。そう言えば俺の胃袋に収まった魚は結局何だったのか。後で調べようと写真を撮っていたメニューの文字をグーグルの検索窓に打ち込む。Carapauはやはり鯵で合っていたらしい。俺の舌もそんなに捨てたもんじゃない。
と、女が一人廊下を俺の泊まる部屋の方へと歩いて行くのが見えた。やや、と思ってイヤフォンを外して立ち上がると、案の定女は俺と、そして彼女が泊まっているのであろう部屋のドアノブ上部にカードキーを翳してドアを開けた。
「Excuse, me?」
「Hi, how are you?」
振り向いた彼女の顔を一目見た瞬間、俺の魂は一体何の為に声を掛けたのかを忘れてしまった。そしてボカロのように不安定な、メロディ―なんて会話にはそもそもないのだけれど―に合わないアクセントで
「I'm fine because it's sunny day today, and you?」
と捲し立てた。
「Yeah, I'm fine too. My name is Christina, please call me Chris. Nice to meet you」
「My name is Yukio, call me Yuckie. Nice to meet you too」
そう言って俺は彼女、クリスと握手を交わし、そしてそのままドアを閉めた。
何だか肩の荷が軽くなった気がする。花畑に居るように心が晴れやかだ。不思議と芳醇な花の香りが鼻腔を擽っている気さえする。
ああクリス!
一体君の何が俺をこうまで狂わせるのか。
振り向いた彼女の笑顔のその屈託のなさに、昼下がりのドミトリーの薄暗い廊下は一瞬にしてあの夜に重なった。一目で狂えない恋なんて、全部贋物なのだ。
オブリガーダ、と言っている内に一ヶ月が過ぎた。ワーホリビザは申請しなかったから、俺がポルトガルに居られるのは残り六〇日だ。やばい。いや別にやばくない。何がやばいのかも、何がやばくないのかも分からない。ともかく俺は今サグレスに居て、溺れている。それは別に比喩ではなく、字面通りに即物的な意味で、溺れている。『深夜特急』の終着地点なのだとツイッターの相互フォロワーが教えてくれた。俺は『深夜特急』を読んだことはなかったけれど、何のイメージもなく知らない場所に行くのは気分が良い。クリスの姿は、大量の生乾きの洗濯物とともに翌朝には消えていた。彼女の残り香の満ちる部屋で、この匂いをいつか嗅いだことを思い出した。物語が始まりそうな予感だけが立ち上らせることのできるあの濃厚な匂いだ。俺はベッドに寝そべって二度と失うことはないと思ったあの夜の、死骸の、レプリカを抱いていた。
生れて初めてのサーフィンで、波になんか乗れる訳がなかった。夏はとっくに過ぎ去っていたのに、さよならの声を聞かなかったものだからひょっとしてまだ海には隠れているんじゃないかなんて思って、けれどそれは脈のない恋に臨むのと同じくらい無謀な勘違いだと俺を呑み込んだ十月の波が教えた。恋との違いは、精々自分が溺れ死ぬか風邪を引くかで、ともかく誰かを巻き込むことなく自分一人で完結できる点だ。恋をしそうになったら海に行け。そして波に吞まれろ。そうやって母なる地球に抱かれている内に文字通りその前後不覚が身体に染みてくる。
「How do you like surfing?」
「It's too difficult for me, but fun」
ドミでサーフィンに誘ってくれたバルセロナ出身のアベルやブラウリオに手を振って、俺は一足先に浜に上がった。十月だろうが一月だろうが、きっと彼らは波に乗るのだろう。でもそれは、当たり前だけど彼らが波に乗れるからだ。五月だろうが七月だろうが俺は波に乗れない。けれど、波に乗れない俺がサーファーの聖地であるこの町に来て、そして波に乗れないまま溺れてしまうというのは悪くない気がした。この町はつまり、俺にとっては何の意味も持たないし、この町にとっても俺は全く無意味な存在だ。お互いがただ、互いが発する意味を一つも受け取らないまま、しかしそこに何の裁きもない。
こう言って良ければそれこそが自由ということで、そしてそれは二度と返らぬあの夜の一回性において俺が味わったものだった。二十歳になったばかりの頃、友達に誘われて行った友達の友達のラッパーの自主企画イベントで、フードで出店していた地下アイドルの手作りお好み焼きを食べた。ライブに誰が出て何を叫んでいたかなんて一言も覚えていないけれど、でもあのお好み焼きの味は今も喉の奥の方に残っている、気がする。彼女は如何にも芸達者な雰囲気で、俺とは住む世界が違うように思われた。だから別に、何をどうするつもりもなかった。ただライブを楽しんで、帰ろうと思っていた。そしたら初めて観たバンドが意想外に好みで、俺はフロアの誰より踊ってしまった。演奏が終わって、次のラッパーの曲はチル目なシティポップ調。俺はフロアの隅にへたり込んで身体を休めた。
「見てたよ、凄かったね。疲れたでしょ、お腹減らない?」
見上げるとミラーボールに照らされた彼女の顔が闇に浮かんでいて、それで俺はお好み焼きを買ったのだった。掌に収まる小振りなお好み焼きを二つ紙皿に盛り、それぞれに丸くソースを掛けると、やだ、おっぱいみたいになっちゃった、ふふと言って彼女はそれを俺に差し出した。俺は何と言ったら良いか分からず、あ、はは、とか何だか要領を得ない返事をして、百円玉を三枚手渡すとすぐにテーブルの端に移動して無心で青のりを掛けた。そう、だから、俺の喉奥には未だに青のりがこびり付いていて、そのお蔭でまともに呼吸もできない。それ以外何も覚えていないあの夜に、俺は死ねれば良かった。死にたい程惨めな気分になると同時に、あれ程誇らしげな気持ちになったこともなかった。だから、この夜に死にたい。
そんなことを二十歳の俺は思っていて、そしてあの夜に死ねなかった俺は死にぞこないとして、今もあの一回性に縋りながらその先を生きている。彼女はどうしてあんな風に屈託なく人に話し掛けられるんだろうか。商売柄、と言ってしまえばそれまでだけれど、ということはつまりあれは技術なのだろうか。それはそうかも知れない。サーファーだって、波に乗る為には練習をするのだ。人からサーフボードを借りて初めて海に入って、それでいきなり波に乗れるなんてことは有り得ない。だけど、そうだとしても、わざわざおっぱいだなんて彼女は俺に言う必要はなかった訳で、それは口が滑ったというか、別にそれによって俺を篭絡しようだなんていう戦略も意図も何もない、ごく自然な彼女の生き様だったのだろう。それが、この世界を生きるにあたってそうしたオプションが存在するような生き様が、俺にはこの上なく眩しかった。
タオルで髪を拭き、服を着て、ドライヤー代わりに散歩した。歩いて行ける距離に殆ど唯一の観光スポットである要塞跡があり、3€の入場料を払って中に入った。世界の果てと言われてもピンと来ない、ただの海が広がっていた。さっき俺が溺れた海だ。
俺は遥々ポルトガルくんだりまで来て一体、何をやっているのか。それまで押し殺していた疑問が不意に湧き上がり、俺はポシェットからパスポートを取り出した。開くとそこには二年前の、そして今も大して変わらないであろう俺の間抜け面がプリントされていた。結局、どこに来ようがそれだけで何かが変わるなんてことはない筈なのに。それでも俺は変化を期待してここに来たのだろう。それとも……
と考えていると不意に突風が靡き、気付けば二つ折りのパスポートは蝶のように俺の指先から離れ、そして空を飛ぶことなく奈落へと墜落していった。
なるほど、そういうことか。と、水面を泳ぐパスポートを見下ろしながら俺は妙に得心していた。つまりここが、人生の分かれ目な訳だ。俺には今二つの選択肢がある。今すぐこの崖を下り、上着と靴を脱いで海に飛び込むか、それとも何も見なかったことにして踵を返すか。さて、果たしてどちらを選べば俺は人生から逃げなかったことになるだろうか。つまり、あの夜の外に出られるだろう。
しかしこれまで俺の脳裡を過ったすべてのことと同じく、この思案もまた杞憂に終わった。気付けばパスポートの深紅は波に溶けてどこにも見当たらなくなっていた。まあ、そんなもんだよな。躊躇っている内に選択肢そのものが失効する。よくある話だ。特に俺の人生にはそういうことがよく起こる。
俺は踵を返して入って来た建物に戻り、出口のバーを押して外に出た。これで俺の念願は叶っただろうか。だけど、パスポートを失くした程度で何者でもなくなることができたら、俺はわざわざこんな所まで来なくても済んだのにな。海に沈む夕陽は多分、地球のどこで見たって綺麗だ。
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