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午後六時。
弘和が運転する個人タクシーは、長年培った土地勘とテクニックでするすると住宅街の間隙を縫い、最短距離で目的地へと向かっていた。
予約が入ってからわずか十五分ほどしか経っていないが、乗車場所に指定された駅は、もうすぐ目の前だ。
ロータリーすらない小さな駅に着き、出入口付近の小道の脇に停車する。幸い一つしかない出口なので、予約者が駅の中から現れるのならば、すぐに気付いてもらえるはずだ。
二、三分ほど待ったところで小柄な男性が一人、駅出口からこちらに向かって真っすぐに歩いてきた。弘和は車外に出て男性を迎える。
「予約された白石様ですか」
男性はこくりと頷いた。
ふむ。
車内から歩く姿を見ていた時は若々しげな印象だった白石さんだが、こうして間近で見てみると、思ったよりもお歳を召されているのかもしれないなと思った。
というのも、筋肉質に見える体型やシャキッと伸びた背筋とは裏腹に、彼の顔中にはおびただしい数の皺が刻まれていたのだ。
あるいは、顔だけ老け込んでしまうほどの苦労をしてきたのだろうか。
そんな憶測をしてしまうほど、弘和の目には白石さんの顔と身体はアンバランスなものとして映った。
何はともあれ仕事だ。弘和がタクシーのドアを開けて待ち構えると、しっかりとした足取りで乗車した白石さん。
弘和はドアを閉め、自らは運転席に座り、いつものように「どこに行きますか」と丁寧な声色で尋ねた。
しかし、返ってきたのはいつものような地名や建物名などではなかった。
「できるだけ、ここから遠くへ」
なんとも単純で、それでいて曖昧な依頼。この道二十年の弘和にとって、それは初めての経験だった。
困惑した弘和だったが、白石さんはそれっきり口を閉ざしてしまったため、ひとまずはエンジンをかけるほかなかった。
/
沈黙。それが走り出したタクシーの車内を這いずり回ていた。
こういう時、運転手としては何か話すべきだろうかと少し気になってしまう。
バックミラーで白石さんの方を盗み見ると、彼は左側の後部座席に座り、車外の景色を眺めているようだった。が、突然顔を正面に向けてきたため、ミラー越しに目が合ってしまった。
何か言わなければ、という謎の使命感が湧き上がる。
「最近、寒いですね」
「ええ」
会話終了。不味い会話のステレオタイプのような切り出し方をしてしまい、我ながら恥ずかしくなる。弘和は昔から、口下手を自覚していた。
何か、気の利いた話題を。そう思った矢先、左前方のとある建物が視界に入った。
弘和は咄嗟に口を開いた。
「実は私、子供の頃、このあたりに住んでいたんです」
白石さんは面食らったようにぎょっと目を見開いた。
無理もない。突然運転手の生い立ちなんて聞かされ、客にどう反応しろと言うのだ。
だけど話し始めてしまった以上は、きりがいいところまでは話すしかない。
「いや、当時、毎週のように父に連れられて、近所のホームセンターに通っていたらしいんですよ。ほら、ちょうどそこに見えるスーパーの場所にあったみたいなんですけど」
だからなんだ、という話だ。白石さんは道路沿いのスーパーに目をやった後、腕を組んで黙りこくってしまった。
気まずい。変な使命感なんて持つんじゃなかった、と後悔する。
「楽しかったですか」
重苦しい静寂を払い、気付けばこちらに向き直っていた白石さんが、ぽつりと言った。ホームセンターのことを尋ねられたのだと気付くのに、少し時間がかかった。
話を広げてくれたことに驚きつつ、弘和は正直に答える。
「それが、あまり覚えてないんですよ。このあたりに住んでたのは三歳ぐらいまでで、幼稚園に入る前には引っ越してしまったので」
「そうですか」
「でも、別に楽しくはなかったんじゃないですかね。子供ならきっと、おもちゃ屋さんとかの方が好きでしょうし」
白石さんは何も答えず、ただ遠くを見るような目を窓の外に向けていた。
/
午後八時。
運転を始めて二時間近く経ち、二人でいる空気感にも慣れてきた頃。
タクシーは営業区域の端に差し掛かかっていた。規則上、これ以上遠くへは行くことができない。
「あの、白石さん。そろそろエリアの外に出てしまうのですが」
「ではあそこのコンビニに停めていただけますか」
ちょうどすぐそこにあったコンビニの駐車場に駐車すると、白石さんは「待っててください」と言って店内に入っていった。
わざわざこんなに遠くまで来て、どこにだってあるコンビニに入る白石さんの意図がわからず、弘和は首を傾げた。
仕事なので、支払いさえしてもらえれば構わないが、やはり少し気になる。
数分後、ビニール袋を片手にぶら下げた白石さんが戻ってきた。白い息を吐きながら、再びタクシーに乗り込む。
白石さんは袋の中から缶コーヒーを二本取り出した。そしてそのうちの一本を、弘和に向かって差し出した。
「あの、これは」
「今夜は冷えますから」
「ありがとうございます」
断るのも野暮だと思い、素直に受け取ってプルタブを開け、軽く一口啜った。
白石さんが不意に言った。
「次は、最初の駅までお願いできますか」
思わずコーヒーを吹き出しそうになった。白石さんは素知らぬ顔で、自身のコーヒーを飲んでいる。
一体全体、白石さんは何を考えているのだ。これでは無意味に時間とお金をかけて、缶コーヒーを買いに来ただけではないか。
「あの、白石様はどうして今日、タクシーを利用されたんですか。差し支えなければ、教えていただけませんか」
「気になりますか」
「ええ、とても」
白石さんはしばし考えるように俯いた後、顔を上げ、気恥ずかしそうに笑った。目尻の皺が一層深くなる。
「ドライブがしたかったんです。だけど、免許を返納しちゃったので」
その言葉に、弘和は今度こそ吹き出してしまった。白石さんなりの冗談なのかもしれないが、自分よりはるかに年上の男性が、照れながらおかしなことを言う姿が、なんだか無性に可愛らしく思えた。
「そういうことでしたら、帰り道も送らせていただきます」
弘和は思わず吊り上がる口角を抑えながら、再びアクセルを踏んだ。
/
帰り道も無言は続いた。ただ、白石さんの意外な一面を知ったせいか、行きの時間ほど息苦しくはないような気がした。
そして思わず口をついたのは、またまた幼少期の思い出だった。
「ホームセンターに行った帰り道、父はいつも、缶コーヒーを買ってくれたんです」
相変わらず窓の外ばかり見ていた白石さんが、弘和の言葉に反応するように、パッと前方に顔を向けた。先を促されているのだと勝手に解釈し、話を続ける。
「と言っても、父のことは、顔すらほとんど覚えていないんですけどね。両親は私が三歳の頃に離婚して、私は母に引き取られることになったので。それ以来、父とは一度も会ったことがないんです」
「そうですか」
白石さんは気まずそうに目を逸らした。離婚だなんてさすがに話題が暗すぎて、気を遣わせてしまっただろうか。
そう思いながらも弘和は、つい二の句を探してしまう。
最初は気まずかったはずなのに、今では白石さんに対して、何でも話したくなるような不思議な安心感を覚えていた。
「だけどなぜか、父の匂いだけはよく覚えているんです。ホームセンター帰りに飲んだコーヒーの匂い。それから、手の匂い」
「手の匂い?」
「父は家具職人だったそうなんですが、そのせいか、いつも手から杉や檜の匂いがしたんです。きっと職場で染み付いてしまったんでしょうね」
「そう、なんですか」
「ええ。だけどおかしな父ですよね。自分が好きだからって、子供を毎週ホームセンターに連れて行ったり、コーヒーを飲ませたり。小さい子供が、ホームセンターや苦いコーヒーで、喜ぶわけないのに」
弘和がそう言って笑うと、白石さんは困ったような顔で「ダメなお父さんですね」と言った。弘和は「そうかもしれませんね」と返した後、だけど、と続けた。
「嫌いじゃなかったような気がします、たぶん」
/
午後十時。
ようやく出発地点の駅まで戻ってきた。料金はなんと五万円近くにまで達していた。
「ご自宅までじゃなくてよろしいんですか」
「ええ、ここで結構です」
白石さんはいそいそと財布を取り出す。
結局のところ、五万円もかけて赤の他人である弘和とドライブしただけという状況。果たして本当に白石さんは満足していただけたのだろうかと、少し不安になる。
が、そんな弘和の心配をよそに、白石さんは穏やかな表情で言った。
「とても幸せな時間でした」
白石さんがゆっくりとドアを開ける。四時間も一緒にいたせいだろうか、なんだか少し寂しいような、不思議な気持ちになる。
ドアの外に片足を踏み出し立ち上がりかけた白石さんが、最後にもう一度、こちらに向き直った。そして、しばらくためらうように口をもごもごとした後、「会いたいですか」と弱々しい小声で呟いた。
それが父のことを指しているのだと気付くのに、今度はかなりの時間を要した。
どうやら、白石さんも、大変口下手なお人らしい。
「いえ、やめておいた方がいい気がします。今更会ったところで何を話していいのかわからなくて、お互い無口になっちゃいそうな気がしますし」
「そうですか」と言った白石さんの声は少し切なく響いた。それがなんとなく悲しくて、弘和はもう一言付け加えた。
「どこかで元気に生きていてくれれば、それで十分ですよ」
白石さんは憑き物が取れたような表情でもう一度「そうですか」と言った。そして、出会った時と同じ真っすぐな足取りで、駅に向かって歩き始めた。
/
白石さんを見送りながら、弘和はどこからか懐かしい匂いがすることに気が付いた。
発信源を探して辿り着いたのは、左手。
たった今白石さんから受け取った現金から、あの頃と全く変わらない、柔らかな木の香りがすることを認めた弘和は、慌てて顔を上げ、白石さんを探した。が、彼の背中はすでに駅の中へと消えてしまっていた。
ダメなお父さんだな、と心の中で呟き、弘和は手の中のそれを、ぎゅっと握りしめた。
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