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「……そうすけのばかっ……」
メモを睨んで呟いた千都香は、唇を噛んでそこに立ち尽くした。
しばらくそうしていた後、少し濡れてしまった目を拭いながら納戸に取って返した。乱雑に落ちている着物を、てきぱきと片付ける。どうせクリーニングに出さなくてはいけないし、もう、一生着ないかもしれないのだ。きちんと畳まなくても、袖畳みで良い。
それから忘れ物の服を出して、着物の代わりに身に付けた。幸い、昨日着てきたコートは、純和風ではない。服の上に着てしまえば、色んな事を誤魔化せる。足元が下駄なのはどうしようもないが、帰るまでの間だけだ。長い距離ではない。
服を入れていたビニール袋と紙袋に、着物を詰めて、立ち上がる。布団はざっと直しておいた。あとのことは、壮介がなんとかすれば良い。
最後に一度、台所に戻った。
壮介の雑なメモがそこに有る。雑で自分勝手でどうしようもない、どんな目に遭っても嫌いになれない、千都香の大好きな師匠のメモが。
昨日ここに来た時は、こんなことになるとは思わなかった。ただ、最後の挨拶がしたかっただけだ。
思いがけず望みが叶って、壮介に抱かれて、千都香の何もかもが変わってしまった。
理性も何も無く駄々をこねる子どもの様に求めて、与えられて、刻み付けられた。何度も強請って、その度に甘やかす様に応えてくれた。
もう、師弟には戻れない。壮介との間に築いた物を、自分の我が儘で壊してしまった。
ここに留まる事は出来ないが、毅の元に行く事は、それ以上に絶対に出来ない。
毅は素晴らしい男性だ。優しく寛容で、懐も深い。もし千都香が壮介と一晩過ごした事を打ち明けたとしても、許して受け入れてくれるかもしれない。
けれど、もう、壮介以外に、女としての自分を委ねる事が出来るとは思えない。どんな人とでも、どんなに時間が経っても無理だ。千都香はもう、壮介以外の鍵では開かない扉になってしまった。別の誰かと無理に添っても、きっと壊れてしまうだろう。
戻れない。壮介の元にも、毅の元にも。
「待っててなんてあげませんよーだ」
千都香の頬を涙が滑って、メモに落ちた。
一度だけ、一瞬だけ手に入れた望みと引き替えに、居場所を永遠に失ったのだ。
だが、後悔は無かった。壮介の居た一瞬の幸福と、壮介の居ない永遠の幸福と、どちらかを選ばねばならないのなら、千都香は何度聞かれたとしても、壮介との一瞬を選ぶ。
そのくらい、昨日一晩は、幸せだった。
壮介のメモに、ありがとうございました、さようなら、と付け加えて。
千都香は、壮介の元から消えた。
【終・そして「仮)ちぃちゃんはどこ?」https://estar.jp/novels/25564995 に続く】
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