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1章 第1話 ここは俺の家であって君の家ではないと何度言えば分かるのか
十月に入って、朝晩は冷え込むようになった。とはいえ冬にはまだ少し遠い。冷房が切られた地下鉄の車両は人いきれで熱がこもっていた。
時刻は二十二時を回ったところだ。車両の中の人影は少ない。少しやんちゃな雰囲気の若者ばかりで、アレックスのようなサラリーマンは少数派だった。
地下鉄が地上に出た。
外はすでに夜の闇の中だ。ところどころ電灯が燈っているが閑静な住宅街に派手なネオンはない。
窓に自分の顔が映った。二重まぶたの目に光はなく、朝には撫でつけていた髪は今は乱れている。
くたびれている。老けて見える。一応まだ二十七歳だが、三十代に入っていると言っても分からなさそうだった。
早く帰って寝たい。今日はさすがに疲れた。
自宅の最寄り駅につく。車両のドアが開く。何人かがぱらぱらと降りた。
改札を抜けると、駅前はすでに眠りについていた。こんな時間ではスーパーも開いていない。缶ビールの一本でもあればと思ったが諦め、まっすぐ自宅に向かった。
駅から徒歩十五分、街灯と住宅の窓の中の灯りしかない道を歩く。暗い。平和な住宅街だが、この時間は用心した方がいいだろう。普段は体力に自信のあるアレックスだったが、朝九時から十二時間近く働いた今暴漢に襲われたら何もできないと思う。
やがて自宅、五階建ての賃貸マンションが見えてきた。心休まる1LDKの我が家だ。
一刻も早く寝たい。
エレベーターを降りた。
点々と灯りのつく廊下を進んだ。
403号室、特に角部屋というわけでもない、何の変哲もない一室の前に立った。
鍵穴にディンプルキーを挿す。回す。金属の音がする。
ドアを開けた。
タイムラグは一秒もなかったと思う。
「おかえり!」
抱きつかれた。まるで突き飛ばすかのような勢いで飛びつかれて、アレックスは一瞬よろめいた。とっさに足の裏に力を込めなかったら後ろに倒れていたはずだ。
疲労がどっと、噴き出した。
大きな、大きな、溜息をついた。
「まだいたのかよ」
自分の胸元を見下ろす。
紫色の瞳が、嬉しそうな目でアレックスの顔を見上げていた。
「当然だ!」
明るい、ともすれば華やかにも聞こえる軽やかで朗らかな声だった。
「わたしはお前の妻になるのだ。お前の子を孕むまでは帰らないぞ」
彼女の首根っこ、革で作られた民族衣装の首の後ろをつかむ。そして、胸からむりやり引き剥がす。彼女の体がアレックスの体から離れて起き上がった。むりやり離されたのが気に食わないのかうめくような潰れた声を上げた。
「あのさ」
彼女の姿を見下ろした。
浅黒い肌は滑らかだ。大きな二重まぶた、厚い唇はまだ少しあどけなさも残っており、それなりに可愛らしくはある。
だが――尻の下ほどまで伸ばされた銀髪はところどころ細かく編み込まれていて、民族衣装の短いベストからは臍が見えており、この季節なのに足元は裸足だ。
教科書に出てくるくらいの典型的で古典的な先住民パガタの女性なのだ。
これが野外博物館のような観光地であればアレックスはむしろ喜んだことだろう。パガタの古き良き生活を垣間見るのは楽しいことではあった。
しかしここはアレックスの自宅だ。家の中である。
ましてアレックスは第三四半期の決算期でコーヒーを飲む時間すら惜しむくらいの繁忙期だ。
「俺、忙しいんだよ。ナヴァの冗談に付き合ってる場合じゃないから」
彼女――ナヴァが口を尖らせる。
「冗談などではない。わたしは真剣にお前の子を産みたいと思っている」
「それ自然のパガタではよく言うフレーズ?」
「パガタの男にとってはより多くの女に子供を産ませることほど名誉なことはないだろう。それに、何度でも言うが、わたしは山のパガタの族長の娘だ。お前は山のパガタの族長の一族になれるぞ」
「巻き込むのやめてくれる? 本当に、本当の本当に、そういう、パガタの伝統文化? 俺、関わっていられないので。あと二日で役員会議の資料の下書きを完成させて上司に提出しなきゃいけないんだ、地理歴史の勉強をしている場合じゃないんだよ」
「よく分からないが、仕事が忙しいのだな? しようのない奴だ、床入りの日取りは改めてやろう」
ナヴァが部屋の中に入っていく。
中に入られてしまった。
入れ違いで出ていってほしかった。
しかしアレックスにはこれ以上は強く言えそうになかった。時刻は深夜だ。さすがにこの時間の何もない街中に若い女性を一人で出歩かせるわけにはいかない。アレックスはそこまで非情にはなれないのだ。
「ナヴァ」
名前を呼ぶと、彼女は嬉しそうな顔で振り返った。
「名前を呼んだな? 結婚だ!」
「俺の話を聞いて」
リビングに入り、スーツのジャケットを脱ぐ。
「昼間のうちに区役所の先住民生活支援課に行くって話だったでしょ。なんで行かなかったの?」
ナヴァはまた面白くなさそうに唇をつんと上向かせた。
「夫の留守を守らねばならぬと思ったのだ」
「鍵は郵便受けに入れておいてくれればいいって言ったよね」
「なぜそのような冷たいことを言う? わたしはお前の子を産んでやると言っているのに」
彼女の声が少し寂しそうであるように聞こえた。アレックスは少しだけ胸が痛んだ。
だがここで同情してはいけない。必要以上に関わってはいけない。野良猫に餌をやってはいけないのだ。これ以上なつかれても責任は持てない。
シャワールームの洗面台に向かう。
彼女は悲しそうな声を出しながらアレックスの後ろをついてきた。
「街のパガタは冷たいな。普通のパガタの男だったら喜ぶのに……」
洗面台の鏡に自分の顔が映った。
浅黒い肌、彫りの深い二重まぶたに厚い唇、銀の髪に紫の瞳――彼女の目には、普通のパガタの男に見えるのだ。
「いや、俺はもう街のパガタ三世で、自然のパガタのそういう文化には馴染めませんので……」
アレックスは、溜息をついた。
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