水無川

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水無川

蛇尾川は普段は水無川と呼ばれるほど、川の水が見当たらない。川の対岸まで車で走って渡れるほどで、本当に静かな川だ。 その水の無い川が好きで僕は時々オフロードバイクで蛇尾川に来る。栃木県は車社会で、僕のように自転車で移動している人間は珍しがられる。 18歳になったら免許を取って車に乗って当たり前。そんな空気がある。都会の人は信じられないかもしれないけれど、栃木県の北部は公共交通機関があっても、バスや電車の本数が少なくてとても不便だ。 だから、一家に一台ではなく、一人一台自分の車があるのが当たり前。都会と違ってお給料はそれほど良くない。その分土地は都会よりかなり安いから持ち家の人は助かってるんじゃないかな? 土地が安いから別荘なんかも結構あって日帰りで都心から行けるリゾート地として那須は人気がある。 地元の人はみんな自分の車で移動する。だけど僕は免許は持っているけれど車は運転しない。自分の車もない。 僕は心臓に持病がある。小さな頃から診てくれている主治医には、免許を取ることは賛成してもらえたし、生活上自動車の必要性がある地域に住んでいるから、車を運転することをむやみに反対出来ないと言われた。 ただ、僕は心配性で神経質な性格だ。もし運転中に発作を起こしたらどうしよう、ハンドルを握る者として責任を持てるのだろうかと考えてしまい、運転免許は更新しているが、車の運転はしていない。 両親も姉も、僕が運転しないことを咎めるどころか、人様に迷惑を掛ける可能性がある以上、運転しないという僕の選択を尊重してくれている。 だから、僕が遠出をするときは、いつも両親か姉の車に乗せてもらう。 23歳にもなって家族の車を頼りにしている僕は、はっきり言って女の子にモテない。 車社会の都道府県はどこでも同じような感じだろうが、車の運転が出来ないというだけで女の子に敬遠される。 モテない理由を全て車のせいにするのもどうかと思うけれど、田舎はどこに遊びに行くのも車がないと不便だ。都会のように電車でデートというのは非現実的。 高校時代の友達がみんなで遊ぶときに、僕を車で拾ってくれるけれど、女の子たちとはいつも友達止まり。車を運転出来ないと、二人で遊びに行くことも好きな女の子を向かえに行くことも出来ないから。 みんなでワイワイ遊ぶときには僕にも声がかかるけれど、僕の友達二人は今日、それぞれ彼女とデートらしい。だから、空気を読んでLINEも鳴らさないようにしている。 こんな独りぼっちの休日は、無理をしない範囲でゆっくりとオフロードバイクを漕いで、蛇尾川に行く。オフロードバイクなのに、やけにゆっくり自転車を漕いでいる青年を那須で見掛けたら、声を掛けてくれよ。それ、たぶん僕だからさ。 蛇尾川に来ても特別やることがない僕は、こうして自分のやるせない思いを小説にして書いてるんだ。激しい運動は出来ない、車にも乗れない、彼女もいない。 こういうのを虚無感って言うんじゃなかったっけ? 僕は水無川の砂利と石でぼこぼことした所を、川の対岸まで渡り切って、オフロードバイクのサドルに跨がったまま、スマホで小説を書く。 物語の内容は、持病の心臓病のせいで引っ込み思案でモテない青年が、都会から来た洗練された女性と出逢って恋に落ちる話。 都会から来た女性は、ジープにオフロードバイクを積んでいて蛇尾川のほとりに停める。オフロードバイクで蛇尾川を走っていると、同じようにオフロードバイクに乗っている青年とすれ違い、どちらともなく「こんにちは」と挨拶をする。 すれ違った後、女性の自転車の前輪がパンクする。青年はそれに気がついてパンク修理を手伝う。 いつもは引っ込み思案な青年が、那須では自転車の有名なレースが行われることを饒舌に語ると、女性は那須の自転車チームのファンだと話が盛り上がる。 そして二人は意気投合して、また会う約束をして女性は東京に帰る。 その後の二人は那須の自転車レースを観に行ったり、青年が東京に遊びに行ったりと順調に仲を深めていく。 しかし、東京と栃木という遠距離恋愛に疲れて、彼女の方が青年に将来の覚悟があるかどうかを問う。結婚する気があるのかどうか詰め寄るシーン。 青年は持病の心臓病のことがあるので彼女に一生負担を掛けてしまうと思い、「最初から結婚なんて考えていない」とわざと嫌われるように仕向ける。 青年の本心に気がつかない彼女は「将来を考えられない人とはもう付き合えない」、悲しそうに別れを告げる。 まあ、ざっと説明すると、こんなありふれたストリーの恋愛小説なんだ。あまり面白くないし、バッドエンドでごめんね。 そんな誰も興味を示さないような小説を僕はチマチマとスマホで書いてる。家で書くよりも、外に出て書く方が集中出来るんだ。 もしかしたら、本当にこの蛇尾川で都会から来た女性と知り合えるかもしれない。そんな、奇跡のような出来事をほんの少しだけ期待しているのもある。 馬鹿らしい夢想だけどさ、普通の人が当たり前に出来ることが出来ない僕にとっては、普通の青年になって恋が出来る小説の世界は救いなんだ。 持病のせいで、車の運転も控えなきゃいけないし、仕事も短時間しか出来ない。短時間しか働けないからお給料が普通の人より少なくて、一人暮らしも出来ない。ないない尽くしの僕は小説にのめり込むことで自分を励ましてる。 水無川と呼ばれるこの蛇尾川のように、僕の心も乾ききっている。小さな石をひとつ、思い切り蹴飛ばした。水の無い川じゃ、石切りも出来やしない。 石を川の水面に手で投げて、川の上を何回ジャンプさせられるか競う遊びも出来ないから足で石を蹴る。 蹴飛ばした石が砂利に落ちた瞬間、どこかで声がした。 「痛い!誰よ、石投げたのは!」 川の真ん中の砂利の間から、砂煙を上げて何かが現れた。 砂煙が地面に落ちて静まると、そこにはもんぺを履き着物のような上着を着た女性が立っていた。 幽霊…?僕は足がすくんで動けない。心臓がバクバクする。発作を起こすかもしれない。 頓服薬をポケットから取り出さなきゃいけないのに、指一本動かせない。 その女性は僕の方にズカズカと歩いてきて、 「あなたね、石なんか投げたのは?サボってないで手伝いなさいよ!」 いきなり訳のわからない因縁をつけられた。 一体これはどういうことだ? 目の前の女性は何者なんだ? どうしてもんぺに着物姿なんて古臭い格好をしているんだ? 思考がフリーズして言葉が出てこない。
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