1人が本棚に入れています
本棚に追加
/1ページ
夜明けに消えるリグレット
ユウは後悔していた。
「マイ…!」
ホテルのエントランスを出る。辺りは真っ暗で誰もいない。
駆け出そうとするのだが、左右に分かれた道どちらを選べばいいのかがわからない。
「どっちに…どっちに行けば……!」
選んだ道がどこへ続くのかは、スマートフォンで調べることができる。しかし、マイがどこへ行ったのかを知ることはできない。
連絡を取ろうにも、彼女はホテルの部屋に端末を置いたまま出ていってしまったのだ。
「くそっ…」
ユウは悔しげに足踏みを繰り返す。
3分ほどそうしていると、靴底とアスファルトがこすれる音に別のものが混じった。
”おぉ…? なんだニンゲンじゃねーか”
「!?」
突然の声にユウは驚く。
あわてて周囲を見回していると、同じ声を再び聞いた。
”こっちだこっち、よく見ろバーカ”
「え…?」
声がした方に顔を向ける。言われた通りよく見ると、そこには小さなコウモリの翼を持つネズミが浮いていた。
「な…なんだ?」
”オレは悪魔だ”
「悪魔…?」
ユウは、空飛ぶネズミをまじまじと見つめる。
その姿は悪魔というにはあまりに小さく、迫力がない。しかし自ら悪魔と名乗るだけの度胸はあるようで、好奇の目を間近に受けても物怖じするということがなかった。
それどころか、逆にユウを物珍しそうに眺めながら尋ねてくる。
”こんな時間に何やってんだ? そこらにコンビニもねえ田舎でよ”
「コンビニ…あ」
現実的な名詞がユウを我に返らせた。
彼はすぐに、わらにもすがる思いで悪魔に尋ねる。
「人を探してるんだ。ちょっと前にここから女の子が出てったんだけど、どこ行ったか知らないか?」
”知らねえ”
「そ、そうか…」
”だが見つけ出すことはできるぜ。ついてこい!”
言うが早いか、悪魔は夜道に消えていく。
「ええっ!? ちょ、ちょっと待ってくれ!」
見失うわけにはいかないと、ユウもあわてて駆け出した。
それから10分後。
「はあっ、はあっ、はあっ」
住宅街の端にある、つぶれたタバコ屋の前で止まる。
しかしそこには誰もいない。
悪魔は、サビだらけの自販機を示しながらユウに尋ねた。
”タバコ買ってくか?”
「はあ…い、いらない……はあ、はあっ」
”じゃあ次行くぜ!”
「つ、次?」
何がどう『次』なのか、ユウにはさっぱりわからない。わからないが、悪魔が飛んでいくのでついていくしかなかった。
さらに10分近く走ると、今度は旧国道沿いのガソリンスタンド前で止まる。
タバコ屋とちがってつぶれているわけではないが、営業時間外の店には誰もいない。
”ハイオク入れてくか?”
「ぜえ、ぜえ……どこに、だよ……」
”それもそうだな。んじゃ次だ!”
「ぜえっ、はあっ」
ユウは悪魔のスピードに食らいつこうと懸命に走る。しかし体はふらつき、息の荒さも隠せない。度重なる全力疾走が、彼を限界に追いやりつつあった。
それから20分後、悪魔が土手の前で止まる。
小さな手を頂上に向けながらこう言った。
”あの向こうにオマエの女が”
「!」
ユウは疲れも忘れて顔を上げる。思わず叫んだ。
「いるのか!?」
”いや、いねーな”
それはあまりに無慈悲な一言だった。
「…そう……か…がはっ、ぜえっ、ぜえぇ……」
ユウはがっくりとその場に座り込んでしまう。走るどころか、もはや一歩も動けなくなってしまった。
彼の息が整うころ、悪魔が不思議そうに尋ねてきた。
”おいオマエ…なんで文句ひとつ言わねえ?”
「え?」
”見つけ出すことができるっつっときながら、いつまでも見つけ出さねーで引きずり回してんだぜ。普通ならブチ切れてもおかしくねーはずだろ”
「……もしかして、今までのは…」
”退屈しのぎだよ。それ以外の何でもねえ”
「…そうか」
”そうか、じゃねーんだよ。なんでそこでブチ切れねーんだって話をしてんだ”
「おれさ……」
ユウはゆっくりと立ち上がる。
「マイを怒らせたんだ」
”あァ?”
出し抜けな彼の言葉に、悪魔は首をかしげた。小さなネズミが首をかしげる姿はとてもコミカルで、ユウは思わず苦笑してしまう。
やがて彼は笑みを消すと、どういうことなのかを説明し始めた。
「おれたち遠距離恋愛しててさ。会うの、すごい久しぶりだったんだ」
壁のようにそびえる土手を見上げた。
「でも明日…日付的にはもう今日なんだけど、帰らなきゃいけない。今夜は大事な大事な最後の夜だった。なのに、おれたちケンカしちゃってさ」
”そりゃまたバカなことしたもんだな”
「ああ、本当にバカだったよ……」
言いながらうつむく。草のにおいが濃くなったような気がした。
「何時に帰るのかって話になって、それがいつの間にかどうして帰るんだって話になってた。なんで帰るのってマイが怒って、しょうがないじゃないかっておれも怒った…」
どちらかが折れることはなかった。
ふたりは意地を張り合った。
そのうちマイが部屋から出て行き、ユウはそれを背中で見送った。
「すぐに追いかけようとは思わなかった。おれだってつらいのに、好き勝手言われてイラついてた。スマホ置いてったし、すぐに帰ってくるだろうって思ってた…んだけど……」
つけっぱなしのテレビが知らせた、誰かの事故。
これが彼を動かした。
「怖くなったんだ」
ユウは後悔していた。
すぐにマイを追うべきだった。
彼は急いで部屋を出て、ホテルのエントランスからも出た。しかし彼女の姿はなく、あったのは左右に分かれた道だけだった。
「もし、万が一…マイがこのまま帰ってこなかったら…そう思うといてもたってもいられなくなった。その時にやっと、ケンカしたのはふたりとも寂しいからなんだって気づけた。怒るんじゃなくて抱きしめればよかったのに、おれにはそれができなかった」
ユウは悪魔へと向き直る。ただ顔を上げるのではなく、体の正面を相手に向けた。
「マイには本当に悪いことをしたと思ってる。だから何としても、今すぐにでも見つけ出したい」
”だったら余計に、オレにキレなきゃおかしいだろ。もう一度言ってやるが、オレはオマエを退屈しのぎで引きずり回したんだぜ”
「うーん…なんかもうキレる余裕もないっていうか、マイに悪いことをしたおれが大変な目に遭うのは当たり前、っていうか……」
”おい待てこの野郎”
聞き捨てならないと、悪魔が話を遮った。
ユウの鼻先に小さな手を突きつける。
”オマエまさか……オレの退屈しのぎに付き合うことで、女に悪いことをしたって気持ちを…罪悪感を消そうとしてんじゃねーだろうな?”
「はっきりそう思ってるわけじゃないけど、そういう部分が…もしかしたらあったかもしれない」
”ふざけんなよ…!”
悪魔は手を下ろすと、ネズミが持つ特徴的な前歯をむき出しにしてみせた。どうやら怒りを表現しているらしい。
”こちとら悪魔なんだぜ。イタズラを贖罪の材料にされちゃたまったもんじゃねえ。退屈しのぎはやめだ、マジでマイとかいうヤツの居場所を教えてやる”
「! 本当か!?」
”だが、タダってわけにはいかねえ”
小気味よい破裂音とともに、悪魔の姿がネズミから醜悪な小男へと変わる。翼も体に合わせて大きくなった。
”オマエの中にある一番大事な記憶、それを差し出すと約束しろ”
「えっ…?」
”オレは悪魔だ。イタズラの罪滅ぼしなんかしねえ。オレの力を借りるなら、それなりの代償を払ってもらうぜ”
「代償……」
”さあ、どうする?”
「わかった」
考えるまでもなかった。ユウはすぐに答えを出した。
「おれの記憶を渡すと約束する。だからマイを見つけてくれ」
”いいんだな”
「ああ」
悪魔の念押しに、ユウは迷いなくうなずく。
「おれが記憶をなくしても、マイが憶えてくれてればそれでいい。だから頼む!」
”…これは契約だぜ。もう決まっちまった。後からナシにしたいなんて言ってもおせェからな!”
悪魔はそう言うと、ネズミの姿に戻って小さな翼を羽ばたかせる。ユウはあわてて後を追った。
土手を登り、その上を走ること3分。
川にかかる橋の上に、ひとりたたずむマイを見つけた。
「マイ!」
ユウが叫ぶ。その声に、彼女は体を震わせて驚いた。
振り向いて彼の姿を見つけると、思わず両手で口元を覆う。
「ユウ……! ほんとに来てくれた…!」
ふたりは互いに駆け寄り、抱き合おうとする。
その時だった。
”ストォーップ!”
悪魔が、醜悪な小男の姿でふたりの前に現れた。
”契約、忘れたとは言わせねーぜ? オマエら『ふたり』が持つ、一番大事な記憶をもらう!”
「…え、『ふたり』?」
ユウとマイは不思議そうに見つめ合う。
そんな彼らに、悪魔はしてやったりとばかりにこう言い放った。
”バカなオマエらはふたりして『一番大事な記憶を差し出すから助けてくれ』と、悪魔のオレを頼った!”
悪魔に出会い、その力を頼りにしたのはユウだけではない。
マイもそうだったのだ。
”まったくいい気分だぜ! 感動の再会をするってトコで、オマエらはふたりそろって記憶を失う! その瞬間を、オレだけが特等席で見られる…悪魔やっててよかったぜェ、ホントによォ!”
「ま、待ってくれ! マイにも同じこと言ってたなんて、そんなの聞いてない!」
”知ったことかバァアアアアアアアカ!”
悪魔はせせら笑う。
”これは契約だ! オマエらが望んで結んだ契約! 神のクソ野郎だってナシにはできねえ! さあ、絶望にまみれた顔をオレにさらしやがれェッ!”
「くっ!」
ユウは走り出す。せめてマイだけでも守ろうと、彼女を抱きしめた。
直後、悪魔が指を鳴らす。
ためらいも容赦もなく、ふたりから記憶を奪った。
「……」
「………」
一瞬の空白。
風は止まり、まるで時までもが止まってしまったかのようだった。
しかし世界は進む。はるか向こうの山から太陽が顔をのぞかせ、あたたかな光が空と大地に漏れ出た。
足下を流れる川のせせらぎが、ユウの鼓膜を優しく震わせる。
その音の中に、彼はマイの声を聞いた。
「…苦しい、よ」
「あ」
彼女を目一杯抱きしめていたことに気づき、ユウはあわてて力を抜く。
「…ごめん」
「ううん…わたしも、ごめんなさい」
マイは左手で、彼のズボンをそっとつかんだ。
ふたりは一番大事な記憶を失ったにも関わらず、誰なのかと尋ね合うことをしない。互いの近さに驚いて飛びのくということもなかった。
”ケッ、陳腐ったらねーな”
悪魔が、誰にも聞こえない声でつぶやく。
重なるふたりの影からひょこっと出した顔は、ネズミのそれに戻っていた。
”好き合う男と女の記憶なんざ、ありふれすぎて何の価値もねえ”
価値のない記憶を奪うほど、悪魔も暇ではない。
では、彼は一体何の記憶を奪ったのか?
”『ニンゲンが悪魔と契約して願いを叶えた』…これ以上に大事な記憶なんざ、この世には存在しねーんだよ”
悪魔は前歯をむいて笑う。
この時、まるで彼を叱るように陽光の勢いが強まった。
”やっべ”
悪魔はあわてた様子でふたりの影から飛び出す。逆側の手すりに向かって全速力で逃げた。
だがその近くまで行くとピタリと止まり、何を思ったのか振り返る。
「今日帰るのはおれもつらい。だから…できるだけ早く一緒になれるように、がんばる」
「うん。わたし、ちゃんと待ってるね」
やわらかな光の中で、ユウとマイが素直な思いを伝え合っていた。
”…ケッ!”
吐き捨てる悪魔の前歯が、陽光を受けてキラリと輝く。
幸せそうなふたりに背を向けると、彼はひとり橋の下へ逃げ込むのだった。
>Fin.
最初のコメントを投稿しよう!