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所轄の刑事課に籍をおく窪田(くぼた)陽一(よういち)は熱せられたアスファルトの上に横たわったまま、どんよりと重く圧し掛かる雲から注がれる強烈な雨に打たれていた。先程まで動いていたはずの両足は麻痺したかのように動かない。かろうじて動く手で鋭い熱を帯びた脇腹に触れ、思い切り顔を顰めた。 「――っ痛! この様子じゃ、そう長くはないな」  皮肉気に笑みを浮かべ、雨粒から逃げるように顔を背けると、狭い路地沿いに並ぶ住宅の庭先に咲いた紫陽花の花を見つめた。鮮やかな緑の葉に滴を湛え、それが重みで跳ね返るのをぼんやりと眺めていた。  乗用車一台がかろうじて通れるくらいの幅しかない道路の末端には高いブロック塀があり、窪田を見下ろす様に影を伸ばしていた。  息苦しいほどの蒸気と熱せられたアスファルトを叩く雨の音、そして微かに広がっていく血の匂い。  つい十数分前、所轄管内で指名手配されていた強盗殺人の容疑者をこの袋小路に追い詰めた窪田は、自身が長年刑事として培ったはずの慎重さを欠いた。彼が凶器を所持していることは分かっていた。それなのに無線で応援を呼ぶことなく彼と対峙し、呆気なく所持していたナイフで脇腹を刺されたのだ。不思議と痛みはなかった。感じたのは腹の奥を抉る灼熱だけ。その鋭い刃先が引き抜かれた瞬間、視界が大きく揺れた。  すぐそばに迫ったアスファルトに咄嗟に手をついて受け身の体勢を取るが、容疑者の姿を視線の端に捉えながらも立ち上がることは出来なかった。  水溜りを跳ねる汚れたスニーカー。何かを叫びながら血に染まったナイフを手に走り去る彼の気配が消えた時、窪田は空を見上げたままだった。 「俺、多分……死ぬな」  体が鉛のように重い。脇腹から溢れ出る血は横たわる彼を雨と共に濡らしていく。外気に触れた赤はその温度を失いながら雨に打たれ滲むように広がる。  目に入る滴を煩そうに瞬きで弾き、ぼんやりと最期の時を待つ。  窪田には同じ刑事課の後輩である松崎(まつざき)弘美(ひろみ)という年下の恋人がいた。一見女性のように思える名だが立派な男であり、しかも窪田と同じセクシャリティを持つゲイだ。 「明日……記念日だな」  酔った勢いで繋げた体の関係から、梅雨の長雨に打たれながら将来を見据える恋人の関係になって今年で三年目。明日はその三回目の記念日だ。捜査本部が立ち上がった強盗殺人事件の容疑者が絞られ、所在も明確になり、あとは確保するだけ。それが片付けば、捜査本部は解散し、明日はのんびりとした週末を過ごす予定だった。  久しぶりの逢瀬――それを楽しみにしていたのは松崎だけではなかった。窪田もまた、最愛の男が与えてくれる快楽に期待し、三十二歳にもなって年甲斐もなく心を弾ませていた。  それが仇となった……とは思いたくない。仕事は仕事と割り切ってきたはずの窪田のミスだった。 「俺が死んだら、アイツ……泣いてくれるかな」  徐々に掠れていく声で呟くと、窪田の顔に大きな影が覆いかぶさった。  薄く目を開けて顎を上向けると、彼の傍らに黒いスーツに身を包んだ男性が立っていた。英国紳士風のデザインの黒衣と帽子、その手には同じく黒い傘が握られていた。窪田を覆ったのはその傘の影で、それまで激しく打ち付けていた雨の滴がピタリと遮断された。 『――窪田陽一さん?』  実に穏やかな低い声でそう問うた紳士に、窪田は上着の内ポケットから取り出した煙草を唇に挟んだまま応えた。 「ああ……。アンタは? 聞くだけ野暮か……。こんな状況の俺のもとに現れるって、どう考えても死神としか思えないな」 『煙草、吸われますか? 火を……』 「いや、いい……。実は煙を吸い込む余裕もないんだ。息苦しくて……。こうしているだけでいい」  窪田の頭上でトトッと水を弾きながら歩み寄る足音が聞こえる。見上げると、赤い舌を出して窪田を見下ろす真っ黒な大型犬がそこにいた。彼の濡れた髪に鼻を近づけクーンと小さく鳴くと、その場に座り込んだ。 「――なあ、死神が迎えに来たってことは、俺はもう長くないんだろ?」 『残念ながら……。もってあと数十分というところでしょうか』 「いっそのこと楽にしてくれないか?」 『それは規定違反になります。私は生者を殺めることは出来ませんから。最期に――『記録』をご覧になられますか?』  長身を屈め、窪田を覗き込んだ紳士の顔はハッキリ見ることは出来ない。しかし、その声は間違いなく窪田の耳に届いていた。 「――記録?」 『ええ……貴方の人生の記録です。御希望によって出生からつい数分前までお見せすることが出来ますが……』  紳士は上着の内ポケットから見るからに年代物の懐中時計を取り出すと小さなため息をついた。 『どうやら全てを見られる時間はないようですね……。心残りかと思いますが、どうしても忘れたくない事や今すぐ会いたいと思う方がいらっしゃれば、その記録だけをピックアップしてお見せすることは可能です。如何なされますか?』  窪田に迷いはなかった。両親はもう他界してこの世にいない。独り身の自分がいなくなって嘆く者、そして……もしも生まれ変われることが出来たらもう一度出逢って恋に落ちたいと願う者。  ゆっくりと目を閉じて、彼の柔らかな笑みを思い出しながら言った。 「――松崎弘美に、あいたい」  紳士は懐中時計を仕舞い、今度は年季の入った黒革の手帳を取り出すと、細く白い指先で黄ばんだページを数枚めくった。一瞬だが、紳士が息を呑んだように感じたのだが、おそらく気のせいだろう。 『現在お付き合いをされている方ですね。えっと……同じ刑事さんなんですね。この資料によると、貴方の御遺体を最初に発見されるのはこの方のようです。恋人に最期の姿を見てもらえるなんて、これ以上素晴らしいことはありませんよ』 「見せたくない……。こんな無様な格好、恥ずかしいだけだ」 『そうですか? 想いが通じていなければ彼をここに呼ぶことは出来ません。貴方は……松崎弘美を心から愛している』  紳士の言葉に、いつもなら断固として認めない松崎への感情を素直に表すかのように小さく頷いた。 「この期に及んでつまらない意地張っても仕方ないだろ。そう――俺は、弘美を愛している。生まれ変わって、もう一度恋をしたい、セック|スしたいって……思ってる」  窪田の声に大きな犬が紳士を見上げて再びクーンと鳴いた。それはまるで、カウントダウンを知らせる合図のように聞こえた。 『――分かりました。来世でその方と再会出来る事を願って『記録』を解放いたします。それでは……よき旅路を』  不意に傘が退き、窪田の顔を雨が濡らした。自力では開くことが出来ないほど瞼が重い。手足が痺れ、声も出せない。しかし、唇に咥えたままの煙草だけは真っ直ぐに曇った空に向かって立っていた。 (弘美……。じゃあな)  混沌と闇に支配される意識。それが底の見えない水底に沈んだ時、窪田の目尻から雨粒とは違う熱い滴が一粒だけ流れ落ちた。
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