いとしのびすこ 一月

1/1

52人が本棚に入れています
本棚に追加
/18ページ

いとしのびすこ 一月

いとしのびすこ 一月  年が明けると、晴れて暖かい日には鼻がむずむずするようになった。目もなんだか涙っぽくて、一旦こすると止まらなくなる。くしゃみを連続七回したところ、その場に居た同僚全員に笑われた。  そんな風に、段々と冬がしまいに向かっているのを感じると、今までの春以上に、俺は一段と嬉しさがこみあげた。  びすこが眠ってしまう前、俺はネットでびすこの目覚める兆候についても、ちゃんと調べておいた。 人間のうちでも、敏感なのが年明けすぐに、早くも春の訪れを察知するのと同じに、生き物の多くは、年を明けて暖かくなれば、おのずと目覚めに向かうもので、それは人間が思うよりずっと正確で、早い時期のことであるという。  通常の人間だと、三月、四月辺りが春のシーズンであるが、もしかすると、びすこはもっと早く目覚めてくれるのかもしれない。  日なたの温かいところへベッドを寄せて、俺が休みの間は日に当ててやれば、びすこは目を開けて、またにっこりしてくれるかも。  俺は街なかでくしゃみを連発したり、目の赤い人々を眺めながら、そんな風に思った。 「びすこ、俺はどうやら花粉症みたいだ」  薬を飲み、こたつでうとうとしつつ、俺はベッドに話しかけた。市販の薬は良く効くのだが、強過ぎて、飲んでいると猛烈に眠くなる。  しかし飲まない訳にはいかず、休みの日にはびすこと一緒に眠っていられれば良いや、と思うので俺はこたつで横になった。  こんな日がなのんびりしていたら、 「こんなに毎日だらだらして!」  とびすこに怒られるな。  顔だけ動かして、びすこの居るベッドを見上げると、今日もびすこは気持ち良さそうにベッドに横たわっている。寝相がとても良くて、静かに胸が上下し、息をしている。  たらりと腹の辺りに乗せた両手の指のどれもがなめらかで美しい。髪に光の輪が反射してでき、輝いているのを見詰めると、俺も瞼を閉じた。  陽が傾いて陰ってきたので、はたと目が覚めた。床には光の斜線が引かれ、温度差ができていたが、ベッドの上はまだ明るかったので、俺は起き上がって洗濯物を取り込んだ。  少し風が出てきた。また花粉がぼうぼうとこの街を飛んでいるんだろう。それを多くの人が恨めしく見送っているんだと思うと、俺は面白かった。  取り込んだ洗濯物を畳み終え、適当に箪笥に入れると、カーテンを引こうと再び窓辺へ向かう。  俺は、アパートの小さい窓から、いつもの風景が少しづつ色を失い、暮れてゆくさまが好きで、太陽が沈んで薄暗くなるまでカーテンを引くのが惜しく思ったものだけれど、今は、びすこが窓辺のベッドに寝ているので、そんな事をしていたらびすこの身体が冷えてしまう。  早めにカーテンを引いてやって、保温をするのが常となっていた。  びすこの許へ行くと、俺ははたとびすこを見詰めた。  びすこの異変に俺はすぐに気が付き、しばらく俺は目の前で安心して眠りについている姿を眺めた。  びすこは布団から出した腕の先、正確にはその人差し指の、爪の先に花を咲かせていた。 「花だ」  思わず口に出して呟き、そろそろとベッド脇に正座をする。指先にまじまじと見入ると、びすこは爪の先から、細っこい茎というか、がくがひょろっと生えてきていて、そのつやつやした黄緑の先から、薄いピンクの小さな花が顔を覗かせていた。  その茎を、ちょっとつまんで力を入れる。確かに、びすこの身体から生えてきているようだった。 「綺麗だなあ」  俺は呑気にそんな言葉を零し、夕陽の染め上げる部屋の中、小さな花を咲かせてみせてくれたびすこの姿に感動を覚える。  薔薇みたいな派手派手しいものではなく、ちびっこくて平凡な花だったけれど、それは、一人取り残された俺のために、眠っていてもなんとか俺に何かを伝えようと、俺と気持ちを交わそうと、びすこが懸命に咲かせてくれた花で、それを見詰めていると、俺は胸がじんわりと熱くなり、鼻の奥がつんとした。  拍子に、くしゃみをまたする。 「びすこ、とっても綺麗だぞ。ありがとうな」  きっと、びすこの体内でも、春が刻々と近付いていて、目覚めの時はあと少しなんだ。厳しい冬は、そう長くないのだ、とびすこは俺に、必死に伝えようとしてくれているのだ。  俺はそっと、人差し指で花弁を撫でた。淡く色付いた、柔らかい花弁は、びすこの唇のようで、俺は、びすこと互いに唇を触れ合わせた日のことを甘く思い出した。  不思議なことに、びすこの指の花は、それから長く長く咲いている。  養分を取って咲いているのでは、と始めは不安だったが、びすこが眠っている今は、まるでこの花だけが、外の世界、俺へと開け放たれたびすこの世界の窓のようだった。 「じゃあ、行ってくるな、びすこ」  靴を履いて振り返ると、その小さな花は微かに揺れた。  昔、こういう音に反応するおもちゃがあったけど、びすこは俺の言葉でしか、反応しないのかもしれないな。  そう思うと、びすこが愛しくてならない。  俺は微笑んで、今日も仕事へ出掛ける。
/18ページ

最初のコメントを投稿しよう!

52人が本棚に入れています
本棚に追加