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いとしのびすこ 五月
いとしのびすこ 五月
人間になって良かった、と思う事がいくつかあった。
まず、人の言葉を話せるようになった事。
俺の声は、お兄さんみたいに低く落ち着いてはいず、残念だったけど、俺が呼び掛けると、お兄さんは振り向いて、
「なんだ、びすこ?」
と楽しげな声でいつも返してくれた。
それに、手足も長く伸びて身体も大きくなった。
元の姿のままで、時々お兄さんの掌に乗せてもらったり、指で撫でてもらえるのはとてもどきどきしたし、嬉しかったけど、人間になれば、お兄さんが仕事に出ているうちに、散らかった部屋を綺麗にしたり、洗濯物を畳んだり、お兄さんを色々と助けてあげられる。
覚えれば料理だって作ってあげられるだろうし、留守番にもなる。そう、身体が大きくなって居場所をくってしまうのは申し訳ないな、と思ったけど、
「俺が出掛けている間は、好きなように過ごしてて良いからな。近くなら、散歩とかしても、面白いんじゃないか?」
お兄さんは俺をはじっこに追いやる事もせず、自由にしろ、と言って合鍵もくれた。俺は貰った小さな巾着袋にそれを入れて、首に下げた。
お兄さんは、仕事の帰りに俺の洋服や、お菓子を買ってきてくれるようになった。俺はお兄さんより、ちびで細っこいので、お兄さんの服では不格好なのだ。
それらはどれも、テレビ翁に映る若者達が着ているような、おしゃれなもので、
「あ、ありがとう。でも、お兄さんのお金をわざわざ俺に使うことないよ」
と俺はあわあわとした。
人間の社会で、暮らすために必要な色々な物を買う「お金」というものはその辺に落ちているものでも、山に生えているのを取ってくるのでもなく、働く事で稼ぐ。大変な思いをして貰う物を、なにも俺のために使う事なんてないのに、というつもりで言っても、
「え?だって俺、自分のために使うより、びすこの事あれこれ考えて、使う方が、稼ぎ甲斐もあるから、別に良いよ」
お兄さんは、かつ丼を食べながら、にこにこと言うばかりだった。
「やっぱ、若い子の格好すると、見栄えが違うな。びすこ、かっこいいよ」
「そ、そんな」
お兄さんの方がとってもかっこいい。
「あ、そうだ」
そこでお兄さんは、思い出した風に顔を上げた。
「俺の名前だけど、和臣(かずおみ)っていうんだ。こういう字ね」
「かっ」
突然の告白に、俺は息を飲んだ。
「かずおみ、さん……」
お兄さん、いや、和臣さんは新聞の空いている所に、ボールペンで自分の名前を書いた。
「そんで、びすこってのは、こういう字だぞ」
そして続けて隣に俺のびすこって名前を並べてくれる。俺は胸を高鳴らせながら、何度もその名前を心で呟き、素敵な魔法のような文字を見詰めた。
この時、俺は間違いなく和臣さんの呪文にかかってしまった。その言葉ひとつで、俺は身体を震わせるほど、高揚した。
今日も、和臣さんがいない間、部屋の掃除をした。使わない間に固形化してしまった調味料を捨てたり、お風呂場の水あかを根気良くこすって綺麗にして、窓から布団を干した。
こんなに天気が良いのに、昼間は家に居る事ができないので、びすこが居てくれるようになってからは、毎日布団がふかふかで嬉しいな、と和臣さんは言ってくれる。
でも、その布団を使うのは俺で、和臣さんはベッドのある寝室ではなく、テレビ翁やパソコン嬢達のいる、この部屋でソファに寝るようになった。俺が人間になって、一番申し訳ないな、と思う時はこの夜の時間だ。
俺がもしかして女の子だったりしたら、もうちょっと小さかっただろうから、一緒に寝られたかもしれないけど。
でもそう相談したら、家電である皆は、俺を少し変な目で見た。良いんだ、変なのは判っている。
青空の中、窓を大きく開け放つと、からっとした心地よい風が部屋を駆け抜けていく。アパートの下には、離れた所に小さな公園が見え、のどかな景色が広がっている。この時間、電源を入れられているのは、通常勤務の掛け時計氏くらいであるので、
「ねえ、これ、上手に書けてるかな」
「そこの丸は、左右が逆じゃないか?」
俺は彼と話しながら字の練習をした。
俺は、昨夜和臣さんが書いてくれた、新聞の二人の名前の所を破いて、大事に合鍵と一緒に巾着袋の中に入れていた。
それを取り出して、広げると、和臣さんが使ったボールペンで、折り込み広告の裏紙に、俺は和臣さんの名前と、自分のびすこという名前をいっぱい書いた。まるで自分達が寄り添っているみたいだ、と考えて、俺は勝手に赤くなったりした。
和臣さんの持ち物であるボールペンに触れると、その大きな掌にまで触ったみたいで、嬉しくて笑顔になった。
「びすこ、ただいま」
夕暮れ過ぎて、和臣さんは帰って来て、二人で夕御飯の支度をした。テーブルに散らばっていた俺の字を見て、へたくそなのに、
「びすこ、字の練習してたのか。すごいな」
と目を細めて褒めてくれた。俺が恥ずかしくて、テレビを見ながらごはんを食べている間じゅう、和臣さんは広告の裏を眺めていて、
「ここ、切ってもいいかな」
と割とうまく書けた所を指さした。
俺が頷くと、丼を空にしてから、和臣さんはそこを四角く鋏で切り、おもむろに立ち上がった。玄関へ向かって、そのまま部屋を出て行ってしまうので、俺も慌てて追いかける。
「なにしてるの?」
「これ、うまく書けてるから表札に掛け替えようと思って」
「え?」
言いながら、ドアの横っちょにある表札に、俺の書いた、広告の裏紙のたどたどしい字を、和臣さんは表札に差し替えてしまった。
「い、一緒に住んでるのが、周りの人にばれちゃうよ」
俺が恐縮し、縮こまって言うと、
「きっともうばれてるよ」
和臣さんは、俺の顔を覗き込んで笑った。束の間、薄暗いアパートの廊下で、星が瞬いたくらい、俺達の周りが輝いた。
「天気の良い日に、毎日布団が干してあったら、きっと良い人が一緒に暮らすようになったんだ、って」
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