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いとしのびすこ 六月
いとしのびすこ 六月
ぱたぱたと雨が降っている。
毎日雨ばかりが続くので、和臣さんは、
「洗濯物が乾かないなあ」
と困った顔をしている。
俺は、ほんの少しだけど、実は人間には無い珍しい力があって、この小さな、和臣さんの部屋の中の水分を自分に取り込む事ができるのだ。
自分の養分というか、育つために必要な水分を空気の中から得る事ができる。だから、俺が取り込んだ分、この部屋の湿気は少しましになっているのだけれど、俺が得た分では、全然からっとなどせず、部屋の中は常にじめじめしている季節である。
じめじめしているのは、仲間である家電の皆にも良くないようで、普段は陽気な冷蔵庫君や、おしとやかなパソコン嬢も、心なしか沈みがちで、ちょっとしたことで苛々と言い合いになった。
「俺に、なにかできることはあるかな」
「除湿だ!除湿」
皆に口々に叫ばれ、俺はちょっとの間だけ、和臣さんに無断でエアコン女史のスイッチを入れた。
ここは和臣さんの部屋であって、この部屋の暮らしで発生する全ての料金は、和臣さんによって支払われる。なので、勝手にエアコン女史を起こして、お金をかけてしまうのはものすごく気が引けたけど、「除湿」なるスイッチを押して、そよそよと風が吹き出してくると、家電の皆は生き返ったように盛り上がった声を上げた。
「暑いのも嫌だけど、俺はやっぱり、梅雨が一番嫌だなあ」
「わしもじゃ」
「除湿は世界を救うな」
「そうだそうだ」
皆は、そのスイッチを押した俺ではなく、エアコン女史を褒め称え、有頂天まで持ち上げまくった。俺はある事を思い付き、
「そうだ。洗濯物を乾かせないかな。ちょっとでも、和臣さんの手間を減らしてあげたいんだ」
と高みに備え付けられているエアコン女史を仰ぎ見た。
「手間?」
「雨の間は、洗っても何日も生乾きだと、そのうち変な匂いがするからって、和臣さんは仕事から帰ってきてから、わざわざコインランドリーに行くんだ」
「そう」
「あそこには、乾燥機のおかみさんも居るから、楽だからって。でも、彼らにはお金を入れなくちゃ動かないし、俺の分も一緒に洗うから、その分のお金もかかるし……。それに、仕事の後にまた出掛けるのなんて、大変じゃないか」
彼女の運転ボタンが、切れ長の瞳のようにきらんと光った。俺は彼女にそう言ってから、
「本当は、俺が昼間のうちに一人で行ってあげられたら良いんだけど」
と小さく付け加えた。
俺は合鍵は渡してもらったけれど、お金はまだ貰った事がない。何か自分でも、お金を稼ぐ事ができたら良いのだけど、俺が「アルバイトなるものがしたい」と言ったところ、和臣さんは不思議そうな顔をしただけだった。
エアコン女史はしばし、ぶーんと唸ってから、
「それは私の仕事じゃない」
と呟いた。そしてこう言い足した。
「それに、そういうのは、手間とはいわない」
今日も、御飯を食べてから二人でコインランドリーまで出掛けた。コインランドリーは、夜中でも煌々と明かりが点いていて、ずらっと洗濯機の職人旦那と乾燥機のおかみさんがホストのように並んで俺達を出迎えてくれる。
自動販売機や雑誌などがはじっこに置かれていて、少し、俺のいたコンビニを彷彿とさせたけれど、その待合室には小さな椅子やテーブルもあったので、俺達はいつも、待っている間、そこで雑誌を見たり、今日あった事を話したりした。
「あの、昼間、暑い時、ちょっとだけエアコンをつけてるんだけど、良いかな。除湿なんだ、除湿」
魔法の言葉「除湿」を強調すると、和臣さんは、
「え?そんなの、いちいち訊かなくたって、使ってて良いんだぞ。もしかして、我慢してたのか?」
とびっくりした表情になった。
「ううん。湿気には強いから、大丈夫だけど」
「びすこは、毎日家にしかいないから、ちょっとでも快適にしてろよ……でも、俺は、最近は家に帰ると、びすこが居てくれるから、毎日とても嬉しいんだ」
「えっ」
俺が驚くと、丁度俺の鼓動を示すかのように、洗濯機の職人旦那が荒々しく、ぴーぴーと鳴った。
和臣さんは椅子を立ち、上の段の乾燥機のおかみさんに、俺達の洗濯物を移して、再びお金を入れた。
「晴れ晴れとした日にも、じめじめとした寒い日にも、部屋で誰かが待っていてくれるってのは、こんなにうきうきするんだな。夜には一緒に飯食って、コインランドリーに出掛けて、ひまつぶしだけど、ひまつぶしじゃない。例え、それが男の子とでも」
笑いながら和臣さんは戻って来て、俺の正面にまた座った。でも俺は、顔が熱くって、嬉しくって、和臣さんの顔が見られなかった。
「びすこには、退屈かもしんないけど」
「う、ううん」
必死で首を振る。
「手間じゃない?」
「手間なんかじゃないよ」
やっとの事で囁いた。
言葉は優しく打ち消された。
乾燥機のおかみさんが、ふんわりと撫でて乾かしてくれた温かい洗濯物を詰めて帰る。
夜半にもまだ雨は降り続いていたけど、ぼっとして浮ついた身体には、心地よい冷たさで、俺達は一個のビニール傘に入って歩き出した。
和臣さんには秘密だけど、俺が和臣さんのとこに来る前から、本当は和臣さんの部屋には皆がいて、ずっと、和臣さんを見守っていたので、俺ばっかり、こんなに良くしてもらって、皆は悔しがるかもしれないな。
でも、今なら皆の言葉も和臣さんに伝えてあげられる。
和臣さんは皆に護られて、愛されて暮らしてるという事。
コインランドリーを離れると、ぐっと暗闇が増す。けれど、夜空を見上げるふりをして和臣さんの顔を覗き見ると、ふと、光が目に入った。
ビニール傘を打つ小雨の雫が、遠くの電信柱の灯りに反射して、無数の星の輝きのようだった。
狭い裏路地は、深海のようにとめどない黒で、雲も厚く月も無いのっぺりとした世界だった。でも、その中で電信柱の灯りは、航海を支える灯台みたいに力強い。
二人の間にだけ瞬く、ビニール傘の星屑があんまり綺麗で、ずっと見上げていると、和臣さんもじっとこっちを見詰めているのに気付いた。
互いの顔がとても近い。
「わ。ご、ごめんなさい。雨粒を見てたんだ……星みたいだなって」
「星?」
俺の言葉を繰り返しつつ、和臣さんは自分の持っていた傘を仰いで、少し目を見開いた。
「本当だ、星みたいだ。綺麗だな」
歩きながら、傘をくるくると回し、和臣さんはいくらか雫を飛ばした。光を纏ったままの大きな雫達は、流れ星のように一瞬の輝きを残すと、儚く消えていった。
「びすこは詩人なんだな」
「そ、そんな事ないよ」
俺は、自分の言葉が詩人めいているかどうかは、良く判らない。でも、この俺の拙い言葉を、俺も和臣さんに伝えたい。
それを受け取ってくれた和臣さんに、そんな風に、美しく伝わるなら、何より嬉しいと感じた。
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