いとしのびすこ 九月

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いとしのびすこ 九月

いとしのびすこ 九月  晴れていても、広い面積を占める雲は高く、爽やかな風にすうっと流されて、すぐに形を変えてしまう。今のは人魂型の幽霊に見えたのに、瞬間後には和臣さんが食パンに塗ってくれるバターのしみのようだ、と俺は考えながら歩いている。  俺は珍しく、和臣さんが仕事の日に一人、外へ出掛けていた。それも、和臣さんのための食材の買い置きとか、コインランドリーへ向かうのではなく、自分の用事でである。  和臣さんは、俺が一人で出掛けるのを喜ばしいとは思いつつも、心配してくれるようで、俺用に携帯電話を持たせてくれている。  確かにアパートの家電の皆はでかいので、外へ出る俺に付いて来れる人々は居なかったので、俺は新参者同士、ケイタイ君とつるんで出掛けた。かと言って、俺はこの携帯電話の使い方を良く知らなかったので、互いにほとんど無口である。  時々、和臣さんが電話をくれる事がある。俺が通話ボタンを押せず、まごついている間に、勝手に通話モードになってくれたりする、根は良い奴なのだ。  俺は今日探し物をしていた。  アパートの近くに、公園とか田んぼとか、そういうものがないかどうか、寒くなる前に見付けておきたいと考えていた。  できるだけアパートの近く、できるなら、アパートの二階、和臣さんの部屋か、その屋根の端っこでも見える所。あのアパートはおんぼろだけど、背だけは高かったので、二階の窓からお稲荷さんまで見る事ができる位だ。  俺は初めから、和臣さんに優しくして貰って、部屋に入れて貰えたので、外から和臣さんの部屋を眺めるという事があまりない。まれに和臣さんと買い物へ出掛けて、二人してアパートを見上げると、そこはちっぽけな、なんの変哲もない窓だけど、とても特別な、温かい景色に見えた。とても幸せだった。  もし、その窓をこれからも眺め続ける事ができたら、俺は多分、ずっと幸せでいられるだろう。  たとえ傍には居られなくなっても。  通りに、低い生け垣のあるお家の庭を見た。  そこは芝生が綺麗に整えられていて、小さな蓮の鉢と花壇があった。土も柔らかそうで手入れがされていたし、蓮の鉢には、澄んだ水がなみなみと湛えられている。中にはすいすい泳ぐ、光る身体がいくつも見えた。  俺がじっと見詰めていると、中の魚達や花壇の植物達が、俺を見返して話し掛けてきた。  この小さな庭での暮らしは快適だとか、屋敷の主人は見かけと違って、面倒見が良いだとか、何故俺が人間なのかとか、人懐こく、育ちの良さそうな感じで皆は優しかった。  俺が、自分のアパートの近くに、こういった場所を探していたんだと言うと、皆は、じゃあまたおいで、寒くなったらずっとここに居たら良い、と親切に言ってくれた。  振り返ると、高い時計塔の向こうにちょっとだけ、和臣さんのアパートの端っこが見えた。窓は見えないから、あっちからもこの庭が今まで見えなかったのだ。  でも、屋根の下に僅かに突き出ているあの部屋の、銀色の物干し竿が輝いていた。  俺はそれだけで、泣きそうになった。  寒くなる前に、和臣さんにお別れをしなくてはならない。  この頃、正確には、あの日から和臣さんは、一層俺に優しくしてくれる。和臣さんの仕事の終わる時間に合わせて、駅で待ち合わせをして、一緒に食事へ行ったり買い物をしたり。  そんなにたくさんの自分の持ち物は必要ない、と話すのに、和臣さんは細々とした、冬用の俺の持ち物を揃えてくれようとしたりもして、時々暇になると、狭い部屋で互いに見詰め合ったり身体に触ったりした。  アパートの皆は、何かあったんだろう、と俺をせっついて白状させようとしたけど、俺は曖昧にごまかした。俺は女の子ではないし、人間ですらない。和臣さんは俺の正体を知っているし、それでも良いと言ってくれたけど、俺達の暮らしが変なのは判り切っている。  でも、たとえ変でも、ずっと和臣さんの傍にいて、身の回りの事をできるのなら、役に立てるのなら、それでも良いと思っていた。自分の事を思い出すまでは。 「俺、もう少し寒くなったら冬眠するんだ。だから、皆、和臣さんをよろしくね」  俺の言葉に、家電の皆はしんとなった。ぴかぴかと、互いを窺うようにボタンを点滅させやりとりをしてから、 「冬眠と言ったって、あんたは野山で暮らしてる訳じゃなし、完全に動けなくなる事はないと思う」  一番高い所に居るエアコン女史が話し掛けてきた。 「きっと、うまい越冬方法があるから、調べてみたら?」  いつもは俺にいじられるのを嫌がるパソコン嬢も、控え目に問い掛けてきたが、俺は首を振った。 「多分、飼われていても冬の間眠るのは、避けられないと思う。こんな大きな姿で、何もしてあげられずに部屋で冬眠しちゃうなんて、迷惑かけられないし」 「……じゃあどうするんだ?行くあてはあるのか?」  壁掛け時計氏の質問に、俺は時計塔の方角を指差した。 「あっちの方に手ごろな庭があって、そこに来ても良いって言ってもらったから、そこに行くよ。そこから、この部屋の物干しが見えるんだよ」  言いながら、俺はどんどん息苦しくなってきた。胸の奥から、なにかが込み上げてきて、喉を詰まらせるような気がして、俺は怖くなった。 「でもびすこ」 「でもびすこ」 「でもびすこ」 「本当にお別れできるの?人間になってしまえる位に、和臣が大好きなのに」 「びすこ、ただいま」  振り返ると、和臣さんが玄関にビニール袋をいっぱい置いて、靴を脱いでいた。いつからそこに居たんだろう、と俺はどきりとしたけれど、 「今日はお土産あるぞー。なんて、おれも一緒に使うもんだけど」  なんて、楽しげに和臣さんは、抱えてきた荷物を俺の目の前に広げてみせた。 「今までは一人用のでちまちま食ってたんだけどさ、今年はびすこと食えるなあ、と思って。ガスコンロも買っちゃった。早速、なんか作ろうや」  和臣さんは、箱からでかい土鍋やガスコンロなどを、とっても大事そうに俺に見せてくれる。俺は、俺達のために、俺達のこれから先のために和臣さんが用意してくれた物の前に立ち竦んだ。 「……、う」  いや、それは単なるでかい土鍋なのだけれど、俺はそれを見ているうちに、みるみる涙が溢れてきた。  こんなに優しい人と、離れられる訳がない。  こんなに大好きなのに。好きで好きで、一緒に居たくて、話がしてみたくて、役に立ちたくて、人間にまでなったのに。  俺がわあわあと泣き出すと、家電の皆はまた密かにぴかぴかと点滅しあったが、 「どうしたびすこ。感激したか、そうか」  和臣さんは呑気なもので、そう言って俺の頭を撫でてくれた。そうして俺が泣き止むまで、隣で黙々とお鍋の仕度をしていた。
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