いとしのびすこ 十月

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いとしのびすこ 十月

いとしのびすこ 十月 「そうかあ、びすこは冬眠するのかあ」  和臣さんは、仕事帰りに買ってきた飼育の本を眺めながら、感嘆の混じった声で呟いた。 「冬眠っていうか、休眠するっていうか……活動を、今までみたいにしなくなる季節があるんだ」 俺達は、基本的には特別難しい扱いなどもなく、簡単に育てる事が可能だ。だからコンビニなんかに時たま置かれていたくらいなのだけど、元々は生き物なので、長生きさせようと、快適に過ごさせてやろうと思うと、それなりに揃えるべき物もあるし、いくらかの注意すべきポイントもある。 「本当だ。冬になると活動が鈍くなるって書いてあるや。……コンビニの袋についてた『かんたん育て方』にはそんな事ちっとも書いてなかったぞ。いい加減だなあ」  和臣さんは、俺に話し掛ける風に大きな声で笑いながら言ったけど、俺は部屋の隅っこで俯いていた。 「ごめんなさい」 「ああ、いや、別にびすこが謝る事じゃないよ」  和臣さんを見詰めると、俺はまた泣いてしまいそうだったので、和臣さんを見ないままそれだけ絞り出した。涙混じりの情けない声だ。  もしかしたら、和臣さんは俺の居た棚の横に、本当は「もっと育て方が難しい」とあったら、俺を買ってはくれなかったかもしれないな。そんなに面倒のかかる生き物じゃ、男の人の一人暮らしじゃ持て余してしまうもの。  ……それは人間に変化できたって同じ事だ。 「俺、このままじゃ、きっと和臣さんに迷惑かけちゃうよ」 「でも、部屋で暖かくしていたら、もしかしたら越冬できちゃうかも。びすこは今や、人間なんだから」  和臣さんは悠長に本のページをぱらぱらと踊らせた。テーブルにはパソコン嬢も、電源を入れられスタンバッている。 「それに、どうやら熊みたいに穴に潜ったり、亀みたいに土に埋まったりもしなくて良いみたいだ」  長くてしなやかな指が時折キーボードを叩き、現れたページに和臣さんは見入り、納得した風に頷いたりした。 「だったらここで、この部屋で眠っていられるだろう?……どこかへ行ったりしないでくれよ」 「……」  その言葉に、俺はびくりと肩を揺らした。畳から目を上げられない。  やっぱり和臣さんは判っていたみたいだ。俺がここを出ようとしていた事。和臣さんとは居られないと思った事。  和臣さんが、パソコン嬢から目を外し、身体ごとこちらを向いた。俺を見たのが判る。  いつもは、和臣さんに見詰められている、と自覚するだけで胸の中が熱くなって、手足がむずむずと踊り出したい気持ちになった。  でも今は、息苦しい。 「びすこ」  自分の両膝に掌を置いて、和臣さんが俺の正面で顔を覗き込んでくる。 「俺の事、置いていかないでくれ」  ついさっきまで、いつも通り飄々としていた和臣さんの声の、あまりに弱々しい様子に、驚いて視線を上げた。  いつもどっしりと、落ち着いていて、俺が人間になってても、和臣さんを好きだと言っても、黙って受け入れてくれた優しい和臣さん。穏やかで、のんびり屋で、傍に居るだけで俺もあったかい気持ちになれた。  その和臣さんの掌が、ぐっと力を込めて自分の膝を握り締めている。なにかに耐えるように。 「俺、びすこが人間になって、家に居てくれるようになって、すごく嬉しかった。毎日家に帰ると、びすこが待っていてくれて、毎日がとっても楽しくなった。誰かと居ると、こんなに幸せな気持ちになれるんだって知って……あ、そ、それは、誰かと言っても、びすこじゃなきゃ、俺は駄目なんだけど」  そっと顔を上げると、和臣さんはとても真剣な表情だった。こんなに思い詰めた、真面目な顔をした和臣さんは初めてで、俺はどきりとした。でも、すごくかっこいい。 「なあ、頼むから、どこかへ行ったりしないでくれよ。びすこが居なくなったら、俺、とても辛い」  和臣さんはその真剣な顔のまま、俺に頭を下げた。 「で、でも俺、冬眠するんだよ」 「だから良いよ。ここでしたら良いよ」 「でも、ずっと居場所をくうよ。迷惑かけちゃうよ」  俺はこの言葉を繰り返してばかりいた。  本当はずっと離れたくなんかない。冬眠なんてしたくない。  でもそれは図々しいから、俺は和臣さんには、きっと迷惑だから、と自分に言い聞かせようとしていた。  ここを出る時、俺に与えられた携帯君を連れて行ったら、彼のジーピーエスという機能があるから、もしかしたら和臣さんは追いかけてきて、連れ戻してくれるかもしれない、なんて甘ったれた事を考えもした。  やっと気持ちが通じて、和臣さんも俺の事を好きだと思ってくれるようになったのに、離れたくなんかない。  俺は欲深くそう、人間みたいに考えていた。 「迷惑なもんか、だって、俺達、恋人同士じゃないか」  下げられた頭のまま、和臣さんはそう言った。 「恋人同士?」  俺は目をぱちくりとさせた。和臣さんの口から飛び出したその言葉に、俺は胸が跳ね上がり思わず居住まいを正す。  そんな素晴らしいものに、和臣さんと俺がなれているだなんて。ただ、俺は和臣さんの役に立ちたかっただけで、傍に居られれば良かったのに、和臣さんは、俺の事、そんな風に思ってくれてたなんて……。 「あったかくなったら、また元気になるんだろ?だったら心配するな。俺に任せとけ」  顔を上げた和臣さんは、照れくさそうに笑ってみせた。その笑顔は、いつものとぼけた調子の和臣さんで、彼は言葉の通り、自分に任せろというように強く頷いた。  視界の隅っこにあった、パソコン嬢がきらきらと画面を光らせた。  彼女は、今まで見た事もない美しいスクリーンセーバーを踊らせて、俺にエールを送ってくれている。俺の胸の震えを表すように、シャツのポケットに入れていた携帯君も、ぶるぶる震えている。無口な彼も、踏み出せと応援してくれている。 「………」 「………な?びすこ」 「………、良いの?」  小さく尋ねた。和臣さんは嬉しそうに、何度も頷いてくれた。 「ああ、ああ。もちろん」  俺は、姿は人間になれたけど、これから先ずっと冬がくればこんな騒ぎをするんだろう。和臣さんが俺を恋人としてくれている間、ずっとこんな迷惑をかけ続けるんだ。  それでも。 「………よろしくお願いします」  畳に手をついて頭を下げた。この部屋で、この小さな世界で和臣さんと暮らしたい。ここはどこよりも暖かい。
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