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いとしのびすこ 四月
いとしのびすこ 四月
「おかえりなさい」
奥から俺が声をかけると、お兄さんは顔を上げた。
本来なら、この部屋はお兄さんの一人暮らしで、奥から声をかけられるなんて事態は、尋常ではなく、驚いて叫び声の一つでもあげるか、さもなくば即座に部屋を飛び出し
て、警察を呼ぶくらいのアクションはあって当然だった。
けれどお兄さんは窓の桟に座りこんでいる俺を「どちら様?」と気軽に眺めつつ、革靴を脱いだ。そして少し、流れをつけたその髪の毛を揺らして思案し、やがて、
「もしかして、びすこか?」
と俺に声をかけた。俺が頷くと、
「ええ?本当に?お前人間になれるんだ?」
お兄さんはそこでやっと驚いたように目を丸くした。奥の部屋へ入って来ると、
「へえ、すごい。育つとびすこは人間になるのか。しかも男の子に」
座っている俺を色んな方向から、まじまじと見回した。
俺は人間になった時、何も着る物がなくって、勝手に箪笥からお兄さんの服を出して着ていた。でも俺は、どうもお兄さんよりずっと若い人間の姿になったらしいので、お兄さんの服は、上も下もだぼだぼとした。なので、俺は裾を捲ってそのまま着ていた。
「いくつ位なんだろうな、高校生くらいかな?……俺ら、兄弟には見えないかなあ」
お兄さんは、慌ててはいたけど、突然自分の部屋に人間となって現れた俺を、どことなく歓迎してくれてる風で、背広の上着をハンガーにかけた。
そんな余裕があるくらい、お兄さんは泰然としたものだった。そのまま部屋着に着替えながら、
「びすこは腹が減ってるか?カレーでも食うか?」
俺の心配をし始めた。
俺の名前はびすこだ。
自分の名前の由来は知っている。やたらリアルな少年の描かれた、赤い箱のビスケットの名前を、俺が何故つけられたのかといえば、元々は、そのびすこという菓子を買おうとして入ったコンビニで、お兄さんが俺を見付けたからだ。
その日、びすこが買いたかったお兄さんは、そのびすこ代で俺を代わりに買って、自分の部屋へ連れて来てくれた。だから、俺はびすこという名をつけてもらい、以来ずっとお兄さんの部屋で暮らしている。
この小さな一部屋が俺の宇宙なのである。
この部屋はとても日当たりが良く、昼夜もずっと静かで、大変過ごし易い。コンビニは、埃っぽい、乾き過ぎた空気で肌がかさかさするようだったし、夜でもぴっかぴかに眩しく、音楽が流れ続けていたので、あまり良く眠れなかった。
自由に動けないのはここでも同じだったけれど、お兄さんは、自分が仕事の間は俺を窓辺に置いてくれ、本当は不用心なのだろうけど、細く窓を開けておいてくれた。
だから俺は、一人でも窓辺にそよぐ、暖かい春の風を感じる事ができたし、短い間、部屋の外に咲いて、散っていった桜の花を、あな儚き、と愛でる事もできた。
今やその枝には若葉が芽生え、黄緑色の花が咲いたようである。
つまり俺は、この部屋がとても気に入っているのである。
「ほら、遠慮せずに食え。いただきます」
お兄さんは、昔俺のいたコンビニで買ってきたらしいレトルトのカレーを俺に出し、自身も同じ物を食べ始めた。
良く見れば、それは確かに昔一緒に棚に並んでいたカレー君であり、熱湯に入れられ、中身がぶちまけられた今となっては、もはや会話は交わせなかったので、しかと自分の胃袋に収めてやるのが、せめてもの友情であると思われた。
なので、俺は黙々とスプーンを口に運び、カレーを食べる。
ずっと昔から居た居候を見詰めるように、お兄さんはしばらく俺を見ていたが、そのうちテレビのスイッチを入れた。いつものバラエティが始まったのだ。
電源を入れられたテレビ翁が、目を光らせて俺を見る。どうしてお前のような若造が、突然人間に!?と言いたげな形相であったが、それは要するにガッツの問題だろう。
俺は、一体何にか判らないが、懸命に願ったのだ。お兄さんの名前が知りたいと。
自分にこの宇宙を与えてくれ、自分にびすこという名をつけ、呼び掛けてくれた彼の名前を自分も知りたい。そして胸の中で感謝の気持ちを込めて、日々の挨拶のように、明るい唄の歌詞みたいに、愛の告白のように、呼び掛け続けたい。
届かなくてもいい。
この胸で、毎日響かせていたいだけなのだ。
そう願っていたら、今日、人間になっていた。しかも喋れた。ちょっとうまくいき過ぎだろう。
「なあびすこ」
テレビに目をやったまま、お兄さんが話し掛けてきた。お兄さんの、スプーンを握っている、手首の骨ばったところが、とてもおいしそうで俺はじっと見詰めた。
「なに」
「びすこって名前、ちょっと変だったかな。お前がもし話せるなら、訊いてみたいと思ってたんだよな」
「べつに変じゃないよ。大好きだよ」
「そうか」
バラエティの笑いドコロにかぶせて、お兄さんが笑うので俺も笑った。
突如部屋に存在を始めた俺に対し、質問すべきなのは、そういう所ではないようにも思ったが、お兄さんはちょっと、ほっとした風な笑い声をあげた。そのために細い瞳がますます細くなった。
「あの、お兄さん」
「お兄さん?」
俺の言葉にお兄さんは、そこできょとんとして俺を向いた。
「お兄さんの名前、知らないので、教えてください」
「え?ええ?そうか、知らないのか」
俺が頷くと、お兄さんはさっき、俺がびすこだと判った時以上にびっくりした顔になった。途端に幼くなり、大人なのに可愛らしいな、と俺はどきどきとした。
コンビニで俺を買って、この部屋までお兄さんが連れて来てくれた時、扉に表札くらいあったのだろうけど、夜だったし、そこまで確認できなかった。携帯で話しても、お兄さんはまず自分の名を名乗る事などしない。
当たり前と言えば当たり前だったけれど、一人暮らしの家で、自分で自分の名を口にする機会もなく、お兄さんの名を知っていそうな、携帯君やパソコン嬢らは、皆俺をからかって教えてくれなかった。
また、俺もいつか、自力で訊いてみせると思っていた。今、そのチャンスは訪れた。
「それにしてもお兄さんって……もうそんな若くないって。俺くらいのは、もうおっさんなんだよ」
身にそぐわない褒めちぎり方をされた時のように、お兄さんは顔を赤くして照れた。でも不愉快になった様子ではなかったので、
「俺、お兄さんの名前が知りたくて、人間になったんで」
と付け加えると、
「え?じゃあ、名前が判ったら、元に戻っちゃうのか?」
お兄さんは、俺にも判らない事を訊いてきた。首を傾げると、
「せっかく、二人になれたんだから、すぐに戻るなよ?明日もそのままでいろよ。そのままでいたら、どこかへ行こう」
そんな夢みたいな素晴らしい言葉をお兄さんはくれた。
俺はこの部屋宇宙で充分、満ち足りていたのに、お兄さんにそう言われた途端、まだ見ぬどこかをお兄さんと歩いていく、楽しげな自分が脳裏に浮かんだ。それだけで、にまにまとしてしまう。
「名前も、明日になったら教えてやるからさ。だから、明日もびすこは、びすこでいろ」
俺は、お兄さんの名前を春風に乗って口ずさむ明日を想像してみた。そして約束の証のように頷いた。
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