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雨間 ーあまあいー
初めて独身寮の椿の部屋で一日過ごしたあと、晴臣はひとつ上の階の自分の部屋へと帰っていった。朝食を食べたあとは、なにをするというわけでもなくうとうとしたり、TVを観たりしていただけなのに、一日はあっという間に過ぎ、もう太陽は湖の向こう、遠い山の端に隠れている。
こんなに自堕落な休日を過ごしたのは初めてだ。
食器が出しっぱなしだったり、クッションが定位置から微妙にずれていたり。もうここにはいないのに、晴臣の気配、一緒に過ごした感触がまだ部屋の中に満ちている。それをまだ味わっていたいような、すぐにでも消してしまいたいような落ち着かなさ。
取り敢えず一度窓を開けて。シーツを取り替えて……
なにしろ一日だらだらしていたから、眠くはないのだが、無理にでも片付けて早く寝ないと明日に差し支えるだろう。
いつもなら休日の朝一番にやるルーティンにとりかかろうとし、椿はベッドに向かった。シーツは常に洗ったものがストックしてあるから、替えるだけですむ話なのに、波を描くそれを剥ぎ取ってしまうのがなんだか惜しくなる。
――ちょっとだけ、
言い訳するように胸の内で呟いて、ころんと横たわった。ただでさえ至る所に残る晴臣の気配がいっそう濃く体を包む。
いつもと違うリズムで一日を過ごしたせいか、まだ夢の中にいるような気がした。
この田舎で、男である自分を好いてくれる男が現れて、あんなふうに――愛されて、甘やかされて。
はしたない声を上げても、求めても、食べこぼしても、昼も夜もわからないくらいごろごろして過ごしても、許してくれる相手がいるなんて。
目を閉じる。このまま寝てしまってもいいかとも思ったが、胸のうちは風に撫でられた湖面のようにわずかに漣立っていて、眠れそうになかった。
眠れないのには理由がある。
帰り際、晴臣は『じゃあ、また』と微笑んだ。『今度は俺の部屋にも来てください』と。
――とっさに返事できなかった。
未来の話はまだ少し怖い。
心のどこかで、こんなのは夢だと思っている。許されないと思っている。だから、ひたすらに明るい方だけを目指してはいけない。
長い間、自分を偽って生きてきた。祖父が生きている間は、月森の人間として恥ずかしくないように。東京から逃げ帰ってからは、ゲイだとばれないように。自分はそうやって、こそこそ生きなければいけない人間だ。
知らず知らずのうちに積み重なった自分への呪いは、今たしかにここにあるはずの幸福を曇らせる。どんより、一年の大半がそうである梓の空みたいに。
結局曖昧に微笑むことしか出来ないうちに、晴臣は帰って行ったけれど、あのとき椿の中にあった逡巡に、気がついたのかどうか。愛情を受け取りながら、完全には信じ切れていない自分の弱さ。
……あんなに甘えさせてもらってるのに、まだ、俺はなにかもやもやしてる。
そのとき、ベッドの上に投げ出したままだった携帯が、ぶるぶる震えた。晴臣だ。
なんてタイミングだ。まるで神様が自分の心の弱さを責めているようにも感じながら、椿は応答ボタンをタップする。
『寝てました?』
やさしく、うっすら笑みを孕んだ声が耳朶をくすぐる。
寝てたと言うのがいいのか、眠れないと素直に言うのがいいのか。それさえわからずに口ごもっていると、晴臣は一方的に話し始めた。
『俺の部屋、椿さんの部屋の真上じゃないですか。それで気がついたんですけど』
「うん?」
『ベッドの位置一緒だなって』
たいして広くもない、役所からあてがわれた単身者用宿舎だ。独自のインテリアセンスを発揮する余地はない。あたりまえといえばあたりまえ、なのだが。
『それだけなんですけど、俺、今までも椿さんと一緒に寝てたみたいなもんだなって思ったら、わーってなって』
横たえたままだった体に、妙な緊張が走った。見えはしないのに感じる。たぶん今、晴臣も自分と同じようにベッドに寝ている。数メートルしか離れていない、真上で。
「……日本語でお願いします」
かっと体が火照ったのを知られたくはなく、かろうじてそう告げる。幸い、聞こえてくる晴臣の声には邪気がない。素直に首をひねっているようだ。
『うーん……くすぐったい? あと、ちょっと照れる。それからこう、なんかもやもやっと不思議な感じ……』
そうして一呼吸置いたあと、晴臣は閃いたように告げる。
『あー、これ、やっぱり、〈嬉しい〉かなあ』
電話越しでも、はっきりと、その顔がぱっと明るくなったのがわかるような声だった。仕事をしているとき、LGBT関係で取材を受けるとき、奴はいつも年上の自分よりよっぽど大人の顔をしているのに、こんなときは少年のように無防備なのだ。
ひとつひとつ丁寧に、胸をふさぐ雲を取り除いて、その向こうの晴れ間を見せてくる。
もやもやするのは、怖いから。未来の約束に即答できないのは差し出される光があんまり眩しくて、受け取っていいのか戸惑うから。
手に入れたらまた失うような気がして、だったら、自分の心が喜んでるなんてこと、無視したほうが都合がいいから。
だけど。
「……も」
『ん?』
「俺も、おなじこと、考えてた」
思い切って心のままに吐き出すと、顔を合せているわけでもないのに死ぬほど恥ずかしかった。けれど、伝わってくる笑みの気配が嬉しくて、それはびっくりするくらいあっさりと不安な気持ちを凌駕していく。一度雨が止んだら、何事もなく広がっていく青空みたいに。
電話越し、お互いの寝息を聞きながら、いつしかやさしい眠りに落ちた。
200703〈了〉
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