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城を取り囲んだ堀を巡る遊覧船の船着き場には、すぐ着いた。そもそも公的機関が城を中心に設置されているのだ。だから今でも市職員は朝ぞろぞろと城を目指していくことになる。
武士か。
遊覧船といっても大仰なものではなく、よくある公園のボートを二回りほど大きくした小舟にエンジンを積んだものが、十艘ほど浮かんでいる。堀に隣接した住宅地もあるため、そこはエンジンを切って人力になるのと、解説のため船頭が乗る。城の周りをぐるっと一周約四キロ、一時間ほどのコースだ。
夏に風鈴を下げた風鈴船も出たり、梓城まつり期間中は抹茶が楽しめる船も出る。一応、観光地として頑張ってはいる、その中心。
「椿」
連絡をしてあったからだろう。チケット売り場に着くと、濃紺の船頭の衣装に身を包んだ青年に出迎えられた。丈の短い前合わせの上着、パッチに笠という、ともすれば間抜けな印象になりそうな衣装が長身によく似合っている。長く伸ばした髪をきりっと後ろでひとつに結った青年――岡龍介だ。
「岡さん、今日はお世話になります」
きらきらっと効果音の聞こえそうな笑顔と自然な仕草で晴臣が手を差し出す。
「岡さんと椿さんは同級生なんですよね」
なんでそれを、とは思わない。きっと観光協会の誰かから聞いたのだ。田舎に個人情報保護など存在しない。
「中学まで。俺が野球で忙しくなるまでは毎日のように遊んでた。高校は寮のある男子校へ進学して、椿は城高出たあとは東京で。こっちに戻ってからばったり会って」
城高とは、これまた城の近くにある椿の出身校の通称だった。子供の頃は城の東西に高校があり、通称を使うと「どっちの?」などと訊ねられたりしたものだが、怒涛の少子高齢化で今や片方は廃校になった。
「今はたまにメシ喰いに行ったりしてる。こいつ、ほっとくと乾パンと水だけで済ませたりするからな」
「かん、ぱん?」
晴臣はまるで生まれて初めて遭遇する言葉であるかのようにくり返した。
「嘘ですよね?」
「嘘じゃねーよ」
龍介の切れ長の瞳が不穏な色を発する。
「再会したとき、昼時で、誰か堀のベンチにぽつんと座ってんなと思って……大した深さはないけど、たまに飛び込むバカがいるからな。やばそうなら止めようと思ってたら、乾パン! 缶のままの乾パンをぱかっと開けてもそもそ喰い始めやがって……!」
「この世の終わりみたいな顔で、この世の終わりみたいなものを喰ってんじゃねえよ……!」――「懐かしい」「久しぶり」の言葉もすっ飛ばし、まず定食屋に引きずって行かれたのだった。
「缶のまま? それ一個むき身で持って市役所からここまで歩いてきたの? 椿さんが? そんな涼しい顔して?」
「役所の災害用備蓄が交換の時期で、消費しろって言われたんだよ。税金で買ったもの無駄にしたら市民の皆様からク……ご意見が寄せられるだろうが」
あくまで龍介に向かって言うと、晴臣が不意に体を折る。その肩は間断なく震えていた――笑っているのだ。本当なら大爆笑したいところを、他の観光客に配慮しつつも。
「あー、だめだ。ほんっと俺、椿さんのそういうとこ凄く好き」
泣くほど受けたのか、目じりをぬぐう。その指先まできらきらとイケメンオーラを放っているようで、椿は苦々しく眉をひそめた。
俺はおまえの、誰にでもそういうことすぐ言えちゃうような軽くて胡散臭いところがすげー嫌い。
とは大人として言うわけにはいかないので「そうですか」と軽くかわしておく。
「――」
「龍介?」
たまに奇特な旅行者のSNSに「イケメン船頭さん♡」などと載ったりする龍介の眉間に剣呑な影が走った気がして、椿がその顔を見上げたとき「じゃあそろそろ行きますかね」と課長が一同を促した。
「揺れるので、足元気をつけてくださいねー」
龍介はすぐさま接客用の顔に戻って年寄りたちをうまいこと先導すると、一方で手早く靴を揃える。
なにしろ県下随一の強豪野球部出身だ。声は腹から出せるし礼儀正しい。年配者の相手も慣れている。自分とは真逆の龍介もまた、椿にとって眩しい存在には違いない。が、彼の言葉通り子供の頃は家がごく近所だったこともあって、よく遊んでいた。そんな同級生の気安さがあって、晴臣のきらきらしさほど不安にならないので助かっている。今では貴重な気の置けない友人だ。
「私、実は遊覧船初めてかも。私らが子供の頃はまだなかったもんね」
年配の女性職員の言葉に、別の職員の「地元だと逆に乗らないもんだよねー」と声が重なる。
言われてみれば椿も乗船するのは初めてだった。本来なら小学校の遠足に組み込まれていたのだが、前年に龍介のいう「飛び込むバカ」がいて、しばらくの間中止になっていたからだ。
「俺は来たときまず乗ったんですよね。街の真ん中で船に乗れるなんて凄くいいなあと思って」
晴臣の言葉に「ああ、どうせ街の真ん中で船に乗れるような田舎ですよ」と心の中で毒づきながら靴を脱ぎ、船内に潜りこむ。堀の上は意外と冷えるから、秋の始めの今頃からもう炬燵を乗せていた。そのうえ屋根がついているから、まず感じるのは窮屈さだ。樹脂製の屋根はくすんだオレンジで、早くも夕方にでもなったような錯覚に陥る。
「案外狭くて薄暗い……」
思わず漏れ出た言葉を、晴臣が拾い上げた。
「それがいいなと思って。狭くてちょっと薄暗い閉鎖空間は、親密な雰囲気になるにはてっとりばやいでしょ。ちょっとだけ揺れるってのもいいんですよね。水の上ってリラックスできるし。だから街コンの最初に乗ってもらったらいいと思って。なので、今日の打ち合わせも俺から無理言ってここに設定させてもらいました」
おおー、と職員が唸る。さすが、という声も聞こえた。
どいつもこいつもちょろすぎる。
俺はそんな小賢しいテクニックで簡単におまえの評価を上げたりしないぞ――と腹の中で呟いていると、
「全員乗りましたかー? 左右で均等に乗ってくださーい」
前方から龍介の声がした。船頭は船をさばく都合で、一人屋根から出た船首に立つ格好だ。観光協会と観光課で計十人が、船の中央に細長く置かれた炬燵を挟んで座るのだが、左右の比率は四対六になっていた。
「じゃあ、椿くんあっちに移動して」
当然、六人側の一番後ろについた椿が同僚からそう言われ、もそもそ移動する。――晴臣の隣に。
ちっ、と舌打ちが漏れ出なかったのは、我ながらよく堪えたと思う。
こんな狭いところでうっかり隣になってしまわないよう、さりげなく一番後から反対側に乗り込んだのに、策が裏目に出てしまった。
「じゃあ、出します。少し揺れますよ」
龍介の声と共に、船体は桟橋を離れ、ゆっくりと水を割いて動き出す。
「なんかわくわくする。これは楽しい」
「誰の隣になるかっていうどきどき感もあるしね」
「花のシーズンによってまた印象違うだろうしねえ。吹き込んだりしなければ、雪見もいいかも」
堀の城側の斜面には「椿谷」と呼ばれる、椿が密集している個所があり、秋から冬にかけて深紅の花を咲かせる。雪が降れば、冬でも艶を失わない深碧の葉の上にさらに純白の彩りがしっとりと乗る。
誰かの言葉に、それを想像したのだろう。「ああ~、いいね~」と一同温泉につかったかのようなうっとりした声を上げた。
「皆さん早速活発なご意見有難うございます。では、まず早坂のほうから大まかな日程案を説明させていただきます」
観光協会の上司の、笑みを伴った言葉に、みんな身を乗りださんばかりに集中する。
観光課に配属されて早数か月、およそ「会議」「打ち合わせ」と名の付くところで彼らがそんなに溌溂とするのを椿は初めて見た。
だいたいいつもの会議で交わされる言葉なんて「前例がない」と「予算がない」の二種類がいいところで、いっそ議事録用に「ぜ」と「よ」で出るよう単語登録しといたろか、としばしば思わされるのに。
「集合はこの船着き場。まず船に乗っていただき、自己紹介。それから日程の説明をしながらスタンプラリーのカードを配ります。下船したらカードを持って時間までに神社二つと城に寄ってもらう。時間に余裕があれば足湯などに立ち寄る人もいるでしょう。その辺は自由です。指定の場所でスタンプを押して昼すぎまでに指定のカフェに再び集合。ここに来るまでに一緒に道を探したりなんかして、うっすら気になる相手もできてるでしょうから、その辺を勘案しつつ昼食。カードは午後のパワーストーンの恋守り製作体験と引き換えます」
「製作体験?」
椿は声を上げた。
神社の多い土地柄か、勾玉ふうに作った水晶や石を扱う店は多い。だが。
「そういう店にも利益を落とそうってことなのはわかりますが、誘導があからさますぎませんか? 参加者の方々の目的は恋人探しですよね。石に糸を通している暇があるならもっと話をしたいと思われないですか」
時代はSNS全盛期。少しでもお客様のご機嫌を損ねたら、なにを書き込まれるか。失言ひとつで企業の責任者が進退を危うくするのも珍しくない時代に――ここぞとばかりに重ねると、船上という特殊空間で浮かれていた年配上司たちも、やっと熱病から覚めたようだった。
にわかに難しい顔になってじっとこちらを見ている。晴臣は隣に座っているから、自然とその視線を椿も受けることになった。
この、年寄りたちの「損するようなこと、名前に傷がつくようなことはしてくれるな。それをする奴はみんな敵だ」みたいな、顔。「早く結婚して家庭を持ってこそ一人前」と言い放つときと同じ顔。
ほら、これがこの田舎なんだよ。わかったらさっさと東京に帰れシチーボーイ。
まずは軽く先制。なのに晴臣は、年寄りたちの「新しい発想は欲しい。だが俺たちの理解できる範囲のやつで頼む」という身勝手な思惑など、微塵も感じていない様子でにこっと微笑んだ。
「なにかを作るときって、段取りの取り方とか協力の仕方って人によってそれぞれだから、ここでまた気になる相手のいろんな面を知ることができます」
東京では料理教室コンなんてのもあって、一緒になにか作るのが人気なんですよ――と晴臣が続けると、狭い船内に圧縮されていた悪意があっけなくほどけていくのを感じた。
「なるほど。いや、さすがだなあ」
課長がそう口にする頃にはすっかり霧散してしまう。中央集権を苦々しく思いながら「東京で流行っている」と言われるとほいほい丸め込まれてしまう。それもまた哀しい地方民のさがとはいえ、ちょろい。ちょろすぎる。
晴臣はそんな一同を見渡すと、にこっと眩しい笑顔を振りまいて、何事もなかったかのように説明を再開した。
「体験教室が終わったらご縁巡りタクシーに分乗していただいて、移動。好きな人と一緒に見ると結ばれるという湖の夕日を一緒に見て、温泉に移動します。夕食を取りながらまた歓談して、あとは自由時間。安全上の観点から翌朝点呼だけ取らせてもらって、解散といった流れですね」
「宿のプランは組合にお願いして特別価格にしてもらいました。あと、翌日使える立ち寄り湯の割引券もつきます」
観光課の上司が続きを引き取ってまとめると、座は再びわっと沸いた。
「いいじゃない。あたしも参加したいくらい」
「宿もついてこの価格はかなりお得だなあ。仮にカップル成立しなくても、満足度高いよ。また来たいって思ってもらえたらいいな」
「はい。まさにそこが狙いなので、途中立ち寄るお店もお宿も、他のお客様が映り込まない限りは写真撮影OK、SNS投稿OKで許可をお願いしたいと思っています。お城も大丈夫ですよね?」
「写真に夢中になって天守閣の窓から身を乗り出したりしない限りOKだけど、階段も暗くて急だからなあ」
なにしろバリアフリーなどまだ概念さえ存在しない頃の建造物なので、そこは致し方ない。
「じゃあ、リーフレットで特に強調して、当日口頭でもくり返しアナウンスすることにしますね。こういうのはやってやりすぎってことはないですから」
晴臣はタブレットに手早くメモを入力していく。呑気に炬燵にあたりながらそれを見守る一同のまなざしが如実に物語ってしまっていた。「さすが、東京もんは違う」と。
このままでは、晴臣の独壇場だ。それは面白くない。
俺はこの街でなんだかめんどくさい家にゲイとして生まれついて息苦しく生きてるのに、ふらりとやってきたオープンゲイのよそ者のことはあっさり受け容れられるなんて。
「そううまいこといきますかね」
またしても水を差してしまった。和やかだった雰囲気に、緊張が走る。相変わらず、炬燵にあたりながらではあったが。
しまった。感情的すぎたか?
いくつもの目にじっと見つめられて、黙っているわけにもいかなくなった。
「雨が降ったらどうします? 雨の中ひたすら歩くなんて、荷物もあるし、疲れる。夕日だって、雨が降ったら当然見られないでしょう」
最初からそれを言っちゃおしまいだよ椿くん――課長の顔にそう書いてあるのが見て取れた。だがSNS全面OKにするというのならなおさら、参加者は「疲れた」「汚れた」「最悪」などと、好き勝手に発信することだろう。
「ああいうのは、マイナスイメージが好んで拡散されるものですから」
マイナス、という言葉にまた上司の顔がこわばる。だが肝心の晴臣の声は、相変わらず能天気なものだ。
「俺晴れ男なんですよね。開催日は晴れの特異日にしてあるし、大丈夫じゃないですか?」
晴れ男って。そんな非科学的な。
「早坂さんは来たばかりでご存じないかもしれないですが、梓は雨が多いんです。昔から弁当忘れても傘忘れるなっていうくらい」
その言葉には、さすがの同僚たちも無意識のうちに頷いている。まさに子供たちに言い聞かせてきた世代なのだから当然だ。事実今日だって空はどんよりと垂れ込める雲で重たそうにしていた。
たたみかけたにもかかわらず、晴臣はまったく動じる様子もなく、むしろ椿のほうにあらためて向きなおった。
「それなんですけど」
やめろ。ただでさえ狭くて距離が近いのに。炬燵の中で脚が触れるだろ。きらきらと擬音を放つような笑顔が眩しい。
「梓市の平均年間降水量は一八〇〇ミリで、平均が二三九八ミリの金沢よりずっと少ないんですよ。東京だって一六〇〇ミリだから、実は梓市が極端に飛びぬけて雨が多いってわけじゃないんです」
「え? だって昔から」
いつかこの街を出るんだ、出てやると城の公園から見下ろすとき、空はいつも曇っていた。それが椿の青春の色だ。黒にも白にもなれず、どんよりと空にも気持ちにも蓋をする、重い灰色。
「うん。そういう言葉があるのは昔実際に水害が多かったからだと思うんですけど、今はインフラもちゃんと整って、そんなことないわけじゃないですか。だから〈また雨だ、昔からこうだ〉って思うし口にするからより強く印象に残ってるというだけで、データ上は実はそんなに変わらないんですよ」
へえ、と一同声を漏らす。面白くない。またこいつの株が上がってしまう。
「数字上問題なかったとしたって、人間なんて印象ですべて決めてるものでしょう。長く染みついたイメージはそう簡単には覆せない」
結婚してなきゃ一人前じゃない、とか。
眼鏡を押し上げながら辺りを見渡して、しまったと思った。
――やりすぎた。
同僚たちは皆「なんで月森君はわざわざそんなことを言い出すんだ。月森の人間なのに」という顔をしている。言葉にされなくてもわかるのだ。古くからの家の人間は、地元を悪く言ったりしてはいけないと思われているのが。
やばい。
リカバリできるか、これ――炬燵の中で密かにぎゅっと手を握りしめたとき、
「さすが椿さん」
晴臣がぱあっと顔を輝かせた。
それこそ、雲間から除く日差しみたいに。
やめろ、うざ眩しい。
っていうか、褒める要素なかっただろ、今。
戸惑う椿をよそに、晴臣は言い放つ。
「つまり、雨なら雨でより強く印象に残せるってことなんですよ!」
「……は?」
「だから、雨でむしろよかったってサービスを考えればいい。たとえば、そう……あ、女性参加者には可愛い傘プレゼントとか」
「そんな簡単に――」
斬り捨てかけて思い出した。
「……市内に、雨に濡れると模様が浮かび出る傘を作ってるところがある」
実のところ椿はいつもラブラブアッチッチ課、もといご縁巡り課の仕事だけをしているわけではない。ご縁巡り課はあくまで開城四〇〇年記念事業の一環として臨時に設置されただけなので、メインは商工観光課だ。その「商工」の部分で市内の企業の資料を作っていたとき、目にした記憶がよみがえってきた。
「え、なんですかそれ。――あった。ああ、これは可愛い」
なんですかと言いながら、自分で手元のタブレットを早くも検索したのだろう。可愛い、なんて言葉を抵抗なく発して、一同に見えるようにタブレットを炬燵の上で滑らせる。
「ああほんとだ。無地に見えるけど、濡れると桜の花びらが……藤や紅葉もある。萩も大人っぽくていいね。秋口ならこっちかね」
「こんなの、城前の土産物屋にあったか?」
「ないと思いますよ。だって、旅先で大きい傘買う人いないでしょ。荷物になるのに」
「いやでもビニール傘買ってその辺に捨てて帰られるよりは……ほら、よく見たらちゃんと折り畳みもあるよ。なんだ、今度提案してみよう――ああ、ごめんごめん、商工課の話になっちゃった」
「いいえ。もし話題になったら、それに合わせて都内の県アンテナショップで展開とかもありですよね。これ、梓のこちらのメーカーでしか作れないみたいですし」
そんな晴臣の言葉に、また一同が「おおー」と唸る。今の時点で完全なる皮算用でしかないのだが、いつも「前例がない」「予算がない」しか言わない上司の顔が、久しぶりの晴れ間に見せるような笑顔になっている。
少し困らせてやろうと思ったのに、結局晴臣の株を上げてしまった。
いやそもそも、気に入らない奴をちょっと困らせてやろうとか、子供か俺は――ひとり恥ずかしいやらいたたまれないやらで青くなったり赤くなったりしていると、
「雨降ったらむしろ気になるお相手と相合傘で移動とか出来ますしね。さすが椿さん」
と晴臣がまたくそ眩しい笑顔を向けてくる。
「え?」
いや俺はただそういう商品があったって思い出しただけで、最初に傘って言い出したのはおまえ――と告げる前に、他のメンバーが
「いやほんと、よく資料見てるなあ、椿くん」「椿くんの資料いつもよくまとまってるもんね」
「地元にいい商品があるってなかなか気がつかないもんなんだよな」
「やっぱり一度外に出ると新しい角度で物が見られるっていうか」
「東京帰りは違う」
と絶賛し始めてしまった。
なんだこれ。
心証を悪くするよりはよかったのかもしれないが、持ち上げられるのも居心地が悪いものだった。
興の乗ってきた他のメンバーたちは、次々に意見を出し始めた。
曰く、
「この際だから神社さんにもお願いして、期間中特別な御朱印を出してもらおうか」
「それだったらオリジナル御朱印帳も作ったら」
「市内の縁結びの神社網羅した冊子ありましたよね。あれも帰りに配ったら、リピーターになってくれるかも。数ならうちの市のほうが本当は多いんだから。ご利益だって本当は――」
本当によく喋る。普段の会議でもこれくらい活発に発言して欲しいものだ。
わかってる。これもこの特別な空間の力なのだと。そしてそれをセッティングしたのはにっくきオープンゲイ、早坂なのだ。
「あの!」
怒涛のような川の流れを堰き止める勢いで、椿は声をあげた。
「夕日! 夕日はどうするんですか。傘が可愛かったって、暗い空に荒れた湖観に行ったってしょうがないでしょう」
それいったいなんの修行? という話だ。
「というか、カフェから湖まではタクシーって、その間運転手さんのスケジュールを押さえてるってことですよね? 当日ドタキャンになったら、タクシー会社さんには損失が出る。そんなんで協力してくれるとこありますか?」
怒涛の流れは、ぴたりとなりをひそめた。やはり「損失」の二文字の威力は絶大だ。
「このコース設定だと、夕日はメインイベントでしょう。メインが天候頼みっていうのはいかがなものかと」
かと言って、同じだけのインパクト、ボリューム感のあるものを市街地だけで賄うのは無理がある。ほかにできる梓らしい催しといえば和菓子作り体験くらいだが、それこそ恋人作り来てるのに、なにをどんだけ作らせんだ、という話だ。
「だいたい、市街地で賄ってしまったらどっちにしろタクシー会社にはうま味がない」
ダメ押しで言うと、船内はそれこそ水を打ったように静まり返った。
ちら、と晴臣を伺えば、さしもの笑顔も引っ込んで、なにか思案している様子だ。
いいぞ。こいつを困らせてやった――密かな快感を覚えていると、視線がぶつかった。
晴臣だ。
晴臣は――ふっと笑みの気配を乗せて、目を細めた。
は?
てっきり「反対意見ばっかり出しやがって」と敵意満々の眼差しでも向けられるかと思っていたのに、笑うって――それも不敵な感じでもなく、こんなにやわらかく。
一瞬見とれてしまい気がつく。
いや待て、それって、侮られてるってことか?
かっと顔が熱くなるのを感じる。そりゃ、こんな重箱の隅つつくみたいなやり方いいとは俺も思ってないけど――なにか言わなければと思いながらなにも言えずにいるうち、船首の龍介がひょいっと中を覗き込んだ。
「一番低い橋の下通るんで、頭下げてくださーい。こう、炬燵にぺたっとほっぺたつける感じで」
「え、え?」
「屋根下げまーす」
掛け声とともに、屋根を支えていた支柱が折れて、樹脂の屋根が下りてくる。こんな小さな船にそんな機構が組み込まれていることに驚いていると「椿さん、頭下げないと危ないですよ」と晴臣が忠告してくる。わかってるよ、と胸の内で毒づく間もなく、樹脂の屋根はどんどん下がって来きて、龍介の言葉通り、少し頭を下げる程度では駄目で、椿は炬燵の上にぺったりと頬をつけた。
「なにこれ。なんだかおもしろーい」
同僚がきゃっきゃとはしゃぐ声が後頭部に当たる。
しまった。
うっかり前方でなく、後方を向いて伏せてしまった。
後方、つまり晴臣のほうをだ。
晴臣も後ろを向いていてくれれば良かったのだが、当然こちらを向いていたから――がっつり見つめあうことになってしまった。
「――」
同僚たちはちゃんと全員前を向いているらしく、気まずい雰囲気は伝わってこない。
とっさのことと気まずいのとで目をそらせずにいると、晴臣も同じく目を見開いていた。まさか向き合うことになってしまうとは思っていなかったのだろう。ぱちぱちっと、男らしい顔つきの割に意外と睫の長いまぶたが瞬いて、それからぷっとふき出した。
「椿さん……」
くつくつと、伏せた肩が震えている。
「これは、たまたまこっちを向いてたからで……ッ」
「うん。椿さんて俺の顔よく見てますよね」
「は!? ――そんなことは、ない!」
前方の同僚たちに気づかれないよう慌てて声を潜め、しかし、はっきりと言ってやる。晴臣は意に介するふうもなく「そっか。俺が見てるからか」などとさらりと呟いた。
……ッ! そういう、そういうとこだぞ……!
この、別に他意はありませんーみたいな。それでいてするりと人の懐に入り込んで来るみたいな。
うわっと叫んで逃げだしたい衝動にかられるのに、船の上、それもこんなふうにぺしゃんこの姿勢で動きが封じられている中ではどうすることも出来ない。
橋の下をくぐるのに一分とかからないはずなのに、苦手な相手とじっと見つめ合わなければいけない時間は、おそろしく長く思えた。
「ずっと思ってたんですけど」
ただでさえ居心地が悪いのに、さらに晴臣が邪気のない様子で話しかけてくる。
「椿さんて、凄くいいお名前ですよね。椿さんに合ってる。俺、好きだな」
またしても「好き」だ。
特別な意味などないとわかっているが――ないからこそ、そんな言葉をそれこそ犬猫にでも言うみたいに簡単に連発する男を、椿はどうあっても信用できない。
「それはどうも。潔く死ねって意味でつけられた名前ですけど」
え、と晴臣が瞬いたとき、船がちょうど橋の下を抜けたらしい。頭を上げられるほど屋根が上がった瞬間、椿は起き上がって素早く前方を向いた。背後で晴臣が「花……椿」と呟いているのが聞こえる。大方、椿が放った言葉の意味を検索でもしているのだろう。
「椿は梓市の市の花でもあるんですね。花ごとぽろっと落ちるから、昔は庭木には敬遠された……なるほど、それで――」
タブレットをスライドさせているのだろう。少しの間空白があって、晴臣が改めて「花か」と呟いた。
「フラワーパーク。あそこはどうでしょう」
「あ、そうか、フラワーパーク!」
女性職員がなにか気がついたように叫ぶ。
「なにかあったっけ?」
「ハートの形にお花が植えられてるところがあって、最近カップルに人気なんですよ」
彼女の言葉を受けて、晴臣がまた素早く検索する。
「これ、ほら、ハート。鉢のお花を使ってワイヤーで立体的にして、記念撮影スポットにしてるんですよね。秋口はミニ薔薇だそうです」
検索画面の中では、赤いベゴニアの前でポーズを取るカップル(という設定のモデル)がにっこり笑ってる。勿論仕事で市内の観光地のサイトを見ることもあるのだが、どうやらうかれっ調子のその写真を、自分は記憶の中から消し去っていたらしい。
フラワーパークは、田舎で土地が余っている利点を最大に生かして作られた三十ヘクタールもあるテーマパークで、大きな温室に様々な花と、南国の鳥、そして蝶が放されている。ペンギンのお散歩ショーなどもあったはずだ。
「あらー薔薇なの。ますますいいじゃない。ここなら広いから、前日当日の変更で二十人くらい押し掛けたってどうってことないし」
「なにしろ東京ドーム六個分だからねえ」
「ドーム行ったことないけどねえ」
上司の鉄板地方都市ギャグに皆笑う。ちなみに椿も行ったことはない。
「それに、ここなら市街地から離れててタクシーも使うことになりますから、ちゃんとタクシー会社さんにもいくらか落ちますよ」
「じゃあ、雨の場合はフラワーパークの縁結びハートの前で写真撮影ということでよろしいですか?」
「映え~だねえ」
またしてもいつもの会議とは比べ物にならないスピードで、どんどん問題が解決していく。なんだこれ、と呆然としていると、晴臣はまたにっこりとほほ笑んだ。
「俺はついなんでも楽天的に進めがちだから、椿さんが問題点をしっかり指摘してくれてほんと、助かります」
なんだこれ。いやほんとなんだこれ。
こんなはずじゃない。俺はこいつをちょっと陥れてやろうと――
「ほんとにいいコンビだな、ふたりは」
課長までそんなことを言い出して、椿は堀に飛び込みたい衝動にかられた。
そのあとも、
「タクシーには「開城四百年」のほかに「ご縁巡り課」のステッカーも大きく貼ってもらおうよ。あ、それかいっそ駅でずらっと勢ぞろいして、お出迎えとかしちゃう?」などと言い出す課長を必死で押しとどめたり「女性に渡す傘はやっぱりピンクだろうな」と言い出す同僚の意見に「それはダサピンクといって……選んで頂けるよう数種類委託してもらって、残りを返す形にできるか業者さんに交渉します」と、うっかり自分の仕事を増やしてしまうなどしているうちに船は堀を一周して、元の船着き場に戻ってきた。
「いやー、充実した打ち合わせだった。たまにはこういう変則的なのもいいね」
いつもなら前例のないことを好まないはずの課長は、すっかり上機嫌だ。
「ほんと、早坂君と椿君のおかげではかどったわ。これコースに入れるのは絶対成功だね」
「今後もこの調子で頼むよ、おふたりさん」
ニコイチ扱いがここへ来てより強固なものになってしまった。
おかしい、こんなはずじゃなかった。椿はすっかり憔悴しているというのに、晴臣は呑気な様子で「あ、見たことない鳥がいる。なんて鳥かな」などと堀を見渡している。
応じたのは龍介だった。
「渡り鳥だ。あいつらは在来種の餌を横取りする、卑怯者だ」
思いの他棘のある言葉につられて椿も堀に目をやると、渡り鳥はよく見る鴨の隣に待機していた。
横取りって、堀の広さに対して鳥の数が増えるとわけまえが減るってことか?
ぼんやり考えていると、在来の鴨が餌となる藻を加えて戻った途端、渡り鳥は鴨のくちばしを直接突いた。
「え、」
あまりに大胆なやり口に呆気に取られるが、もちろん鳥は人間の思惑など関知しない。まんまと餌を奪って飲み込むと、再び鴨が餌をとって来るのを待悠然と待っている。
ほぼ毎日通勤で堀端を通るのに、こんな生存競争に今まで気がついたこともなかった。思わず身を乗り出して攻防を見守っていると、龍介が釘を刺す。
「あんまり身を乗り出すと、落っこちるぞ」
「大丈夫だよ」
「昼飯を乾パンで済まそうとする奴の〈大丈夫〉があてになるか」
「その話はもうやめてくれ」
あれは梓に戻ってきたばかりの頃の話だ。
「おふたり、仲いいんですね」
晴臣の言葉に、やめろ、と思う。おまえが「仲がいい」なんて言うと、意味が生じすぎるだろう――同僚たちはもう桟橋の中ほどに移動しているが、どんな誤解が生じるかわからない。椿の声は無意識のうちに大きいものになった。
「龍介は一年の時から先輩の身の回りのこと全部やるっていう野球部の出だから、人の世話を焼くのが身についてるんですよ」
な、と長身の龍介を見上げると、なぜか笑ってはいない目で晴臣を凝視していた。一方の晴臣はそれに気がついていながら、まったく動じる様子もない。
なんだこの微妙な空気。どうしてくれるんだ。龍介は貴重な友だちなのに。
「じゃ、じゃあな、龍介。また打ち合わせかなんかのときに!」
そう告げて桟橋から観光船の待合所に移動する。さっさと切り上げて役所に戻ろうと思ったとき、晴臣が言った。
「じゃあ僕と椿さんは、城に回ってから戻りますね」
「は?」
「危険個所の確認、ちゃんとしとこうと思って。僕実はまだ一回しか行けてなくて」
「おお、そうだったそうだった。現場百回て言うしね」
それは刑事ドラマの科白だろう。東京の二週遅れの土曜の昼に再放送される。
「いや、早坂さんひとりでよくないですか」
「でも、椿さんのほうが細かいところによく気がついてくれるから」
嫌味か。
「でもこのあとの仕事が」という言葉は「おお、行ってこい行ってこい。傘屋さんへの折衝はこっちでやっとくから」と先回りされてしまった。
こんなはずでは。
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