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春待つ蕾
「……で、俺は逃げ帰ってきた。おまえと会った頃、死にそうな顔してたのは、つまりそういうことがあったからで……」
椿はそう語り終えると、くつくつ煮える鍋のほのぼのとした情景とは裏腹に、眉間に深くしわを刻んだ。
「そいつ、覚えてるな。外国人客とうちの船に乗ってきた。あのしゅっとした感じ、この辺の人間じゃないとは思ってたけど……あんとき堀に沈めときゃよかったか」
「龍介!」
椿が咎めるように声をあげる。よし。眉間のしわは消えた。椿が穏やかな顔をしていられるのなら、そのくらいのこと本当にできるけどな、とはもちろん言わない。重すぎるから。
「俺もいたら手伝いましたよ」
さらっと入り込んで来るのは、早坂晴臣。春にこの街の観光協会にやってきた、婚活コンサルタントだ。
そもそもなぜ俺、椿、そしてこいつの三人で鍋を囲んでいるかといえば、この料亭の名物鍋の予約が三人からで、仕事柄店を開拓しておきたい二人に俺が頭数合わせで呼ばれたからだ。
元々は一見お断りだった高級料亭も、今ではずいぶんお手頃価格で一般人にも料理を出す。それでいて調度や食器はこの街が一大温泉街として栄えていた頃の贅を尽くしたものときているのだから、もしもまた街コンをやることになったら、ルートの候補として見ておきたいという気持ちはわかる。
元々友だちの少ない椿が、他に誘う奴がいないのも。
正直早坂と鍋をつつくなんて微妙だったけど、椿が困るだろうなと思ってやってきた。
手入れの行き届いた庭を望む個室で、珍しく酒も少し口にした椿は、いつしか俺の知らなかった東京での出来事を語り始めたというわけだった。
東京から戻ったばかりの椿の様子から、相当な出来事があったのは察していたが、今まで俺はそれを無理に聞き出そうとしたことはない。聞かなくたって寄り添うことはできたから。
九割本気、一割冗談で混ぜ返したのは、椿がどうしようもなくしんどいという様子ではなかったからだ。これが苦しいのに無理して語ろうとしていたのなら、すぐさまさえぎっている。
どうせ椿の性格から言って、肝心なことを黙っているのに甘えさせてもらってるーとか、うじうじ考えていたんだろう。話してすっきりしたのならなによりだ。
とふたたび鍋に箸を伸ばしたところで、椿が「そ、それで!」となにか覚悟を決めたように発した。
「い、色々あって、俺、今早坂さんと、付き合ってる……!」
耳まで真っ赤に染まっているのは、鍋のせいではないだろう。椿はただでさえ青年男子としては頼りない薄い肩をがちがちにこわばらせていた。触ったら衝撃で砕けてしまいそうなほど。
俺は鍋からノドグロを取りわけ、口にしながら告げた。
「知ってる」
「えっ!?」
じっと俯いていた椿が、弾かれたように面をあげる。ぱちぱち目をしばたいた後、はっとなにかに思い至ったように早坂の顔を見た。いやいや、違う。別にそいつから聞いてもいない。
「知ってるっていうか、まあそうだろうなと思ってたって話」
エンジントラブルで婚礼船が止まってしまったあのとき、ふたりはなんの迷いもなく堀に入って船を押した。日本海側の、十一月でだ。そして同性カップルの思い出を無事支えた。
俺の知る限り、椿はそんな後先考えないことをする奴ではなかった。そもそも追い返そうとしていた上の連中の反対を押し切ったのも椿だと聞いている。
そんなふうに気持ちを出せるようになったのは、早坂がやってきたから。早坂とつるむようになってから。
お互い支え合うようにして一旦パーティ会場から消え、戻ってきたときの椿の、憑物が落ちたような顔。
以来、椿の表情はいつも明るい。
そりゃ、そもそもが大口を開けて笑うようなタイプでもないから、以前と大きく変わったわけではないけれどーー俺にはわかる。あの日ふたりの間になにかがあって、そして椿は変わったのだと。
「火通り過ぎたら旨くないから、おまえも喰えよ。頭数合わせなのに、さっきから俺ばっかり喰ってる」
郷土料理の鍋には、豪快にぶつ切りにした魚が各種入っている。顎でしゃくると、早坂が「はい、椿さん」と心得たタイミングで具の入ったとんすいを差し出した。その仕草でわかる。きっともう、何度も二人で食事したんだろう。以前なら、椿が一緒に出かける相手は俺しかいなかったのに。
「……別に俺の許可なんていらないだろ」
呟きが尖ってしまったのが、自分でもわかった。わかっていたのに止められなかった。
「ーートイレ」
これ以上余計なことを言ってしまわないよう、俺は席を立った。
油石で敷かれた、屋内なのに路地みたいな廊下を抜けてトイレに至る。他に人がいないことを確かめると、洗面台で顔をじゃぶじゃぶ洗った。高校で野球をやってた頃、頭に血が上ってチームの奴と冷静に話せなくなると、一旦その場を離れて水飲み場で頭から水を被ったものだけど、さすがに今はそうはいかない。
備え付けのペーパータオルで乱暴に顔を拭って、鏡の中の自分を睨みつけた。
「……情けない顔すんな」
断るという選択肢だってあったのに、誘われてのこのこ出てきたのは自分だろう。出てきたら、椿と早坂が付き合ってるという事実を突きつけられることだって、想像できたことだ。
よりによって振った相手を誘うか? とも思うが、椿の傷に触れようとせず、寄りかからせるだけ寄りかからせて他に友だちを作らせなかったのも俺だという自覚はある。つまり今の情けない状況は俺自信が招いたことでーー
無言で鏡にこぶしをぶつけたとき、トイレのドアが開いた。
早坂だ。
「お鍋の汁飛ばしちゃって」
奴はそう言ってきまり悪そうに笑うと、シャツの前立てを水で濡らしたペーパータオルでとんとん叩き始めた。
「魚をすき焼きふうに食べるって、珍しいですよね」
なんて話しかけてくる。こいつのこういう如才ないところ、癇に障る。だけど無視するのも大人げない話で、俺も「ああ、街コンのコースに入れたら、お客さん喜ぶんじゃないか」と差し障りのないことを口にした。
早坂は鏡に映ったシャツの胸元を確認してしながら、さも、ついでのように呟く。
「ーー街コンの下見っていうのは口実で、本当は岡さんにいろんなことちゃんと話しておきたいっていうのがメインですよ」
「頭数合わせは俺のほう」なんて嘯いて、早坂は鏡を覗き込んでいた体を起こした。
「椿さんそういう人だから。ーーなんて、岡さんのほうがよく知ってますよね」
「……ああ」
そうだ。あいつは、椿は、そういう奴だ。
振った男のことなんて黙って疎遠にしたっていいのに、くそ真面目にわざわざ報告してくる。それだけ俺を大事にしてくれていてーーでも俺のものにはならない。それを突きつけられるのは苦しいのに、黙って遠ざけられたら俺はきっともっと苦しんだだろう。
諦めのため息が俺の口から漏れた。
「ここの支払い、お前持ちだからな」
せめて意地悪くこのくらいのことは言ってやる。「そんな」って言ったらさらに「経費で落とすなよ」でとどめだ。
けれど早坂は「そんな程度でいいです?」と、またしても如才ない笑みで言うのだ。
「顔変わるくらい殴られるの覚悟してたんで、写真撮影ありの取材は向こう二週間入れないんできたんですけど」
「はッ」
俺は思わず噴き出した。いくらなんでもそこまでしない。
けれど早坂は、ーー笑っていなかった。
よそから来たくせに、老若男女すぐに懐に入り込んでしまう優男の顔が、今は険しい。
鋭い眼差しが語るそのままが、形のいい唇からも紡がれた。
「俺、本気ですから」
誰にでも当たりのいい、爽やかな顔ではない。けれどなにより真剣だと伝わる目をしていた。
「……泣かしたら、堀に沈めるからな」
俺がそう言うと、早坂は一転険しい表情を解いて、にっこり微笑んだ。
「はい」
「いい顔しやがって、くそ。ムカつくな」
「褒めてくれながらムカつくとか、岡さん器用ですね」
「そういうとこだよ。ーーほら、先に戻れ」
「?」
「そろって戻ったら、いかにもなんか話し合いましたって感じになるだろ」
あいつが気にする、まで言わないうちに、早坂はふっと微笑んだ。
「俺、岡さんのこと好きです」
だから、どうしてさらりとそういうことを言えるんだ。
ムカつくなと口にするのももう億劫で、俺はしっしとぞんざいに手を振り奴を追い払った。
ゆっくり間合いをとってから部屋に戻ると、椿の笑い声が聞こえた。早坂がなにか調子のいいことでも言って、笑わせているんだろう。
俺は椿が傷つかないように、変わらずずっとそばにいるつもりだった。
早坂はそんな停滞をぶっ壊して、椿をもっと広々とした場所へ連れて行こうとしている。
それでいいのだと思う。
ふと窓の外を見ると、昨夜降った雪がまだ庭木の上にも残っていた。冬の侘しい景色の中で咲こうとする椿の花は、一層鮮やかで力強い。
いつか俺も、この痛みを忘れられるだろうか。
冷たい雪に降られても、まだ咲こうとする花のように。
〈了〉
200723
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