雨隠れ

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雨隠れ

 龍介と会食した数日後、 「本日はお世話になります」 「どうも、こちらこそ。ささ、どうぞ」  そんな挨拶を交わし、椿たちは店舗兼工房に足を踏み入れていた。  古民家を手入れして使い続けている、その間口には「桑梓商店」と看板掲げられている。秋の街コンで、雨に濡れると文様が浮かび出る傘を提供してもらった例の傘工房だ。  城祭りも終わり、来年のGWに向けた企画を考案していた中で、椿はふと思った。  どうせ雨のイメージが強いのなら、いっそそれを売りに出来はしないだろうか?  雨……といったら傘だよな。街コンのときの傘の評判は上々だった。傘……傘、そうだ! 「あの、どこか外国で街をあげて傘をディスプレイしてるところありますよね? 最近国内の施設も真似してた!」 「ああ、――これですね。アンブレラスカイっていうんだ」  すかさず隣に座っていた晴臣がタブレットを操作し、映像を拾い出す。そこには色とりどりの傘が飾られたリゾート地や、ショッピングモールが映し出されていた。 「これを温泉街でやるのはどうですか? 傘は宿の紋を入れて、それ自体が広告になるようにして」 「なるほど、それならお金を出してくれるかもしれないし、紋ならいかにも宣伝っぽくないし、映え~だね!」  覚えたての言葉を使いたくてたまらない課長は若干鬱陶しいものの、めでたく「じゃあさっそく例の傘屋さんにお話を聞きに行こうか」ということになった。観光課からは椿と女性の同僚、観光協会からは晴臣と上司、それに女性の同僚の総勢五名だ。  こういうとき、やはり女性の目があったほうがいいということでそういうメンツになったのだが、案の定、店に着いたとたん二人の目はきらきらと輝きだした。 「あの傘も素敵でしたけど、和傘もやってらっしゃるんですね」 「もともとそちらが本業でして。洋傘も和傘の技術を応用しています」 「アンブレラスカイ、いっそ和傘にするのも素敵じゃないですか? 婚礼舟のとき早坂さんが持ってたのかっこよかったし!」  たしかに。  雪の舞い散る中、いつもよりフォーマルに髪を撫でつけて、緋色の傘をふたりにさしかける晴臣はとても絵になっていた。いでたちはモーニングだったが、そのミスマッチがまたなんとも言えず良かったな――  などと思い返してはうっかり頷きそうになり、椿ははっと我に返った。  素早く視線を走らせる。幸いにも女性職員は傘の説明に熱心に耳を傾けていて、椿のほうなど見てはいない。危ないところだった。  けじめとして龍介には報告したものの、自分がゲイであり、さらに晴臣と付き合っているということは、職場にはまだ明らかにしていない。  すぐさますべてをオープンにするには、まだまだ心の準備が必要だったし、そもそも男女のカップルなら、わざわざ職場に「私たち、付き合ってます!」などと宣言しないだろう。  だいたい、そのあと、どんな顔をして出勤したらいいのかわからない。そんなことばかり気にして、仕事に支障が出るなんてもってのほかだ。  ……っていうのを免罪符に、隠してるとも言えるけど。  晴臣からは、オープンにしましょうとも、黙っていましょうとも言われてはいない。きっと椿の立場を鑑みて、黙ってくれているのだと思う。  晴臣の端正な横顔を盗み見る。やはり傘の話に熱心に聞き入っている。柔らかい空気を身にまといながらもそのまなざしはまっすぐだった。こういう顔で臨まれれば、説明するほうも身が入る。  ふと、晴臣がこちらの視線に気が付いたように振り返った。  ふわっと目を細められ、椿は――思い切り目をそらしてしまった。 「――、」  笑顔が空振りになり、晴臣が目を瞬いているのが気配でわかる。    椿は平静を装って傘の話に耳を傾ける。が、その実いくらも頭に入っては来ない。メモを取るボールペンを過剰にぎゅっと握りしめた。  だって。  なんにもないのにあんなにやさしく微笑みかけられると、困ってしまう。気づかれたらどうするんだ??   だいたい仕事中だぞ、と憤ってはみるものの、さっきから自分だって話なんて頭に入っていない。  いや、そもそも付き合うことになってからずっと、心はざわざわ落ち着かなかった。  事務所こそ離れているものの、こうして仕事で顔を合わせることも多く、いうなれば今の自分たちの状況は「職場恋愛」だ。  恋愛という極めて私的なものと、仕事という公的なもの、それが同時進行というのが椿の脳にはうまく処理しきれない。  仕事の上では厳しいことだって言わなければならないときもあり、で、ありながら、恋愛のときは己のすべて――それこそあらぬところまですべて――見られているわけで。言ってみれば寝起きのもさっとした顔を知られているのに、よそ行きにばっちりキメた顔も見られているような。  その滑稽さ、気恥ずかしさがどうにも居心地が悪くてたまらない。  田舎だから、役所の職場結婚率は当然高く、椿も何度も式に呼ばれている。彼、彼女たちはどうやってこの居心地の悪さを克服したのだろう?  いつか愛し愛される相手に出会えたらいい。  人なみの恋愛というやつをしてみたい。そんな望みは、心の片隅にずっとあった。  けれどいざそうなってみると、与えられるのはやすらぎばかりではなかった。こんなふうにどぎまぎするし、うまく振舞えなくてへこみもする。  振り回されて仕事にまで影響が出そうな自分が不甲斐なくて、だからこそ今回の企画は頭を捻ったというのに、こうして集中できずにいる。  恋愛って、なんだか大変だ。  心の中のため息と呟きが聞こえるわけもなく、工房の社長は「作業風景もご覧になりますか?」と一同に声をかけた。 「わあ、いいんですか?」 「もちろんです」  女性陣がはしゃぎ、奥まった工房へと足を進める。椿も慌てて後を追い、敷居につまづいた。 「……っ、と」  つんのめる。危ういところで転ばずに済んで、照れ笑いを浮かべる。が、みんな工房に夢中で、誰一人こっちを見てなどいなかった。――晴臣さえも。  ……いい、けど。  プライベートのときのように、すぐさま走り寄ってこられたりなどしたら、それこそ同僚たちに勘づかれてしまう。だから今はあの反応で正解で――と思うのに、なんだかもやもやする。   っていってもさっき先に無視したのは俺だけど。……けど。  つま先にじんじん痛みを感じながらあとを追う。工房は店舗から中庭を挟んだ反対側だ。 「洋傘は別の場所に工場もあるんですが、和傘はここで作ってます。幸い、若い職人見習さんが入ってくれて、彼女たちのセンスで新しい色味のものもどんどん試しています」 「へえ、素晴らしいですね」  素晴らしいなんて日常生活で使うと大仰な言葉も、晴臣の口から紡がれると嫌味に聞こえないから不思議だ。  案の定、言われた若い女性の職人の顔がさっと明るくなる。それこそ、雲間から久しぶりに顔を出した太陽を目にしたときのように眩しい顔に。  高齢化の進む梓で、彼女たちのような存在は貴重だ。本当なら自分も市の人間としてなにかひとことふたこと声をかけるべきなのに、とっさに言葉が出なかった。  なにやってんだ俺。    晴臣の人当たりがいいこと、初めて会った相手でも簡単に笑顔にしてしまえるところ、それは彼の財産だ。自分だってそれにずいぶん助けられているくせに、嫉妬するなんて。  嫉妬。死んだように生きていた頃には無縁だった感情は、体の中からじわじわと椿を苛む。熾火のように。  ――せめてはじっこにいよ……  万が一にも感情が顔に出てしまわないよう、椿はさりげなく工房の隅に身を寄せた。幸い他のメンバーが積極的に話を聞いてくれているから、不自然にも思われないだろう。  もっともらしくメモを取るふりをしていた手元の手帳に、影が差した。――晴臣だ。 「今聞いたんですけど、番傘と蛇の目傘って違うんですって。椿さん、知ってました?」 「いえ? ――」  どうやら彼女たちから聞いた知識を披露してくれるつもりらしい。なんのつもりだ。仲良しアピールか。  せっかく物理的な距離をおいて強引に黙らせた嫉妬の虫が、むくむくと顔を出す。自分で自分の体を焼いてしまう、その不快さに眉根を寄せたとき、晴臣が手にしていた傘をおもむろに開いた。ぽん、とぼん、の中間のような音がして、紙の生地に塗られた油が香る。 「ほらここ。飾り糸が中にあって、持ち手が木なのが蛇の目傘なんですって」  開いた瞬間、傘の根元から放射状に広がる糸が目に入った。  閉じているときは昔ながらの緋色の傘にしか見えなかったのに、鮮やかなターコイズブルーが目に飛び込んでくる。 「すごい……! おしゃれですね。開かないと見えないっていうのもいい!」  これが「新しい色味」なんだろう。  つまらない嫉妬を忘れて思わず声を上げると、晴臣が微笑んだ。さっきは振り返りもしなかったくせに、慈しむようなまなざし。その笑みに包まれるだけで体温が上がったような気がする。と、晴臣の顔が不意に近づいた。    唇に触れる、やわらかな感触。  ほんの一瞬、けれどたしかに重なり合う。    あまつさえちょっと甘噛みされたようなーー  しばらくは目の前が真っ白だった。やがて現実が戻ってくる。 「な……、ちょ……しご……っ」  仕事中にいきなりなにを、と言いたくても言葉にならない。けれど晴臣は悪びれる様子もなく言うのだ。 「すみません。なんだかわかんないけど拗ねてる椿さんも可愛いなと思ったら、つい。……傘に隠れて見えてませんよ」  囁きは耳元で。  瞬間、頬が沸騰したように熱を持つ。晴臣の言葉通り、他のメンバーは職人さんの手元をのぞき込んだり、社長に話を聞いたり、誰もこちらに気が付いた様子はない。――だがその距離、わずか数メートル。    こんなところで……っ!  こみ上げるこの気持ち。ざわざわ落ち着かないこの気持ち。  憤ってる。呆れてもいる。そしてとんでもなく恥ずかしい。  無視したくせになんで、とも思うのに、嬉しいとも思っている自分に自分で呆れてしまう。  傘を閉じ「温泉街のあの通りいっぱいにするとしたら、何本必要ですかね?」などと何事もなかったかのよう晴臣は仕事に戻っていく。  今後傘を見るたびこの日のことを思い出すことになるなんて、今はまだ思いもよらない椿を残して。                               〈了〉           200730
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