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空が明るくなるように
暗い。狭い。なにも見えない。
椿がそんな感慨にとらわれているのは、人生にまた絶望しているから――ではない。本日の主な勤務地が、着ぐるみの中だからだ。
東京駅の丸の内南口。建設当時の様子に復元された、壮麗なドームのような天井を一歩外に出れば、新旧丸ビルが鎮座する。右手は大手町、左に行けば有楽町から銀座へと続く。そんな大都会の入り口。
大学の頃、このスペースにパネルやのぼりが立てられて、なにかイベントをやっているのを見かけた気はするが、まさか自分がやる側になるとは思ってもみなかった。
「××県梓市でーす。パンフレットお配りしていまーす」
高い天井に響き渡るのは晴臣の声だ。
城祭りの成功に気を良くした市長以下関係者が「久し振りに東京でイベントやっちゃう? 椿君も早坂君もよく知ってるだろうし!」と調子に乗って言い出したおかげで、同僚たちと共に観光と移住をアピールにやってきたのだが、年配の同僚たちに肉体労働はさせられない。
そして晴臣はといえば「同性婚に強いコンサルタント」が売りだ。「開かれた街、梓」を強くアピールするには当然今日も顔出しで、そうなると着ぐるみという「着るタイプの拷問」を受けるのは椿一択だった。
愛想良くパンフレットを配りながら、晴臣が身を寄せて囁く。
「――大丈夫? 〈しっちん〉。あと少しで休憩ですからね」
着ぐるみマニュアルその一によれば、これを着た活動は三十分に一度休憩をとらなければいけないとされている。夏ならば十五分が限界の、過酷なお仕事。
――せめて某有名ゆるキャラくらい、可愛ければまだましだったかな……
梓市のゆるキャラ「しっちん」。
頭は湖で獲れるしじみ。常に片目をつぶるいわゆるウィンクで、出水管を舌のように出している、てへぺろスタイル。
胴体はしじみの殻を表す縞模様。
スズキの奉書焼きをイメージした白いベスト。
首元にはマフラー代わりにうなぎの「うなちゃん」が巻き付いている。
足はモロゲエビ。
左手は白魚、右手はアマサギ。
口癖の「梓に来い来い!」でやはり名産の鯉を表現。
全七種類の名産「七珍」で「しっちん」というわけだ。
完成度からお察しの通り、プロのデザイナーの手による物ではない。先代だか先々代だかの課長の奥様(趣味:絵手紙)作で、こうして引っ張り出してくるまで倉庫の隅で忘れ去られていたものだった。
土曜日の午前中。世界に名だたるターミナル駅の利用者は多い。当然ちびっこもいる。通りすがりに「きもっ」と正直過ぎる感想を投げつけられ、椿は着ぐるみマニュアルその二「ゆるキャラを着ている間は声を出してはいけません」を思い出し堪えた。
「ぱーんち!」と拳をくり出されたときには、マニュアルその三「ゆるキャラのイメージを損なう動きをしてはいけません」を思い出し、魚の形状をした手をぱたぱた動かすだけにとどめた。そもそもしっちんのイメージって?? と思いながら。
さすがにメンタルのアレ的な手当が欲しい、と思いつつ晴臣の隣でぱたぱたやっているときだった。「あれ?」と声がしたのは。
「どうした? 佐久間」
さくま。
その名を耳にした瞬間、言葉の形の刃物が、すっと心臓に差し込まれたような気がした。
しっちんの視界確保は外からは隠れた顎辺りで、椿に見えているのは足元だけだ。
けれどこの声。
狭い視界から見える良く手入れされた革靴は、少し遊びをきかせたデザインだった。このチョイス、いかにも佐久間だと椿は思った。土曜だが、これから出張にでもいくのだろうか。
先輩らしき連れに佐久間は応じる。
「いや俺、ここ行ったことあるんですよ。ほら、大阪の展示会の帰りに特別に接待した」
「あー、あの日本びいきのお客さんな」
「それです。ちょっとワビサビな温泉街がいいって――」
あれ、と佐久間は再び声を上げた。
「あの、あのときお会いしましたよね?」
話しかけている相手は晴臣だ。
「そうでしたか?」
「そうですよ。ほら、建物の中に池がある温泉宿で――へー、あの街の観光協会の方なんですね」
わずかな沈黙。佐久間が面を上げて、自分たちの脇のパネルに目を通しているのが気配でわかった。そこには例の街コンの様子、そして晴臣がオープンゲイのコンサルタントである旨が掲示されてるはずだ。
「ふーん……」
「おい、佐久間、時間」
「はい。いやでも凄くないです? なんにもない地方都市でもこういうアプローチの仕方あるんだなって――なるほど、ゲイを売りにかあ」
「――椿さん」
いちはやく察した晴臣が制するのが聞こえた気もするが、椿はずいっと前に踏み出していた。
「うわっ、なに?」
佐久間の声に怯えが乗って、我に返る。
――そうだ、俺今、「しっちん」なんだった。
しっちんのイメージを損なうような真似はしてはいけない。
しっちんのイメージをーー
知るか。
椿は毅然と面を上げた。(着ぐるみの中で)
元々あるんだかないんだか不明な「しっちん」のパブリックイメージなど、知ったことか。
しっちんこと椿は猛然と詰め寄って胸ぐらを掴んだーーのはイメージの中だけで、魚の形状の手がぱたぱたしただけだった。
ずいと踏み込んだつもりの一歩はモロゲエビ一匹分でしかない。
つかつか歩くことなどできないから、椿はぴょこぴょこ跳ねるようにして前に出た。
そのままぴょこぴょこ跳ねて、佐久間の体を改札のほうへ押していく。
「うわっ、なに? ちょっとーー」
うるさい。
さっさとあっちへ行け。
ぴょこぴょこ。
しじみの頭を押しつけるようにぐいぐい押していく。
中の人椿の思惑とは裏腹に、終始テヘペロ顔のしっちんが、ぱりっとしたサラリーマンに頭突きをくらわせぴょこぴょこぐいぐい押していくというさまは、傍目にはコミカルに写るのだろう。周囲から「なにあれ」という笑みを含んだ声が聞こえ始めた。
晴臣以外の同僚たちも「しっちんが急にアクティブに!?」と動揺した声を上げる。
それでも構わず、椿はぴょこぴょこと跳ね、短い手をぱたぱたさせ、佐久間をぐいぐい腹で改札のほうへ押しやった。
なんだよ、売りにって。
それはおまえだろう。
いつだって好き勝手な言葉で傷つけるのは、当事者じゃない人間だーー
「ちょ、なんだよマジで。やめろってーー」
「おまえがもたもたしてるからケツ叩いてくれてんだろ。いくぞ、ほら」
先輩に急かされて、佐久間は改札の中へと吸い込まれていった。
それから五分後。
「はい。水分ちゃんととってくださいね」
着ぐるみマニュアルその四に従って確保された休憩室で、晴臣が渡してくれた飲み物を手に、椿はうなだれていた。
やってしまった。
仕事に私情を挟んでしまった。ぐいぐいぴょこぴょこしてしまった。
いやでもあれは人として言ってはいけないことだろう。
いくらこっちは仕事で来てるからって、看過していいかというとーーしかし自分は今日「しっちん」なわけで、そのイメージを損なうわけにはーーそもそもしっちんに損なわれるほどのイメージがあったかどうかは疑問だが、でも。
とめどなく思考をぐるぐるさせていると、晴臣が隣に腰をおろし、ふっと微笑んだ。
「椿さんは男前ですね」
「は? なにが」
あの失態、そして頭の被り物だけを外した、この情けない姿が目に入らないわけはないだろうに。
「人のことになると一生懸命怒っちゃって。男前でしょ」
晴臣は自分用の缶コーヒーのプルトップを片手で開け、口をつける。いつもと変わらない余裕のあるそんな態度に急速に頭が冷めていく。
「俺なんか、全然……しっちん被ってたからってのも、あるし」
それを言うなら晴臣のほうがよっぽど男前だ。あんなに人のいるところで、動じずPR活動していた。
「本人が受け流しているのに、俺が怒るのは……お門違いだった」
そもそも、晴臣がオープンゲイであることを「売り」に利用させてもらっているのは事実だ。今は数ある取材も、担当者が晴臣でなければ、半分もあるかどうか。
だから、市役所の人間である自分が、佐久間の発言に腹を立てる権利なんて、本当はないのだ。
といったことをしどろもどろに語る椿に、晴臣は改めて微笑む。
「俺は、嬉しかったですよ」
「え……」
「観光協会に入るのにゲイだってこと利用したのは事実なんで流してましたけど、ああ言うの言われて大丈夫っていうのと、全然こたえないっていうのはまた別なんで。……だから、嬉しかった」
嬉しかった、とくり返し呟く声は、いつもの晴臣より幼く感じられた。
そのくせ、チラシを配りながら声を張り上げ続けてやや乱れた髪が、なんだか妙に艶かしく思える。
控室にいるのは、椿と晴臣ふたりだけだ。
そんなことは初めからわかっていたのだが、意識してしまった瞬間、晴臣の目がふっと細められた。
ゆっくりと気配が近づいてくる。
これは。
ええと。
「……早坂さん?」
だまって、
と唇が動くのだけが見えた。
ーーそして。
「ーーん?」
晴臣が怪訝そうに呟くのを椿は聞いた。
とっさに被ってしまったしじみの頭の中で。
「椿さ〜ん……」
「し、仕事中、だし!」
いつだったか、傘に隠れて口づけされた日のことを思い出す。
あのあと、まったく仕事にならなかった。
今日は交代要員もいないし、まだまだ長丁場なのだ。ここで腑抜けになってしまうわけにはいかない。
あの日のことを思い出すと、しじみの中で頬が熱を持つ。反射で手で覆いそうになったが、しっちんの短い手は上方向にはぴくっとしか動かない。
あわわーー
せめて気休めにぱたぱた動かしていると、不満げな気配を発していた晴臣がふと黙りこくった。
しっちんの狭い視界では、座った足元しか見えない。
もしや本気で怒ってしまったのかと案ずる耳に晴臣の「どうしよう」という呟きが聞こえた。
「中身が椿さんだと思うと、なんかだんだん可愛く思えてきました、しっちん」
「いくらなんでもそれは美的感覚の崩壊だと思う」
「どちらかというと新しい性癖の扉が開いた的な」
「なお悪い!」
思わずぴしゃりと斬り捨てる。
それから、どちらからともなく噴き出して、ひとしきり笑った。
笑えることに驚いた。あんなに引きずっていた佐久間に、また出会ってしまったというのに。
それはきっと、もう一人じゃないからだ。
出会ったからだ。
空を覆う雨雲を吹き払う、こいつと。
「今気がついたんですけど、しっちんにだったら公衆の面前で抱きついても問題なくないですか?」
あとで写真撮影しましょうね、などとこりもせず楽しそうに告げる晴臣に、椿は着ぐるみの中でだけこっそり頷いた。
ーーその夜、くだんの現場に居合わせた誰かが「ぐいぐいくる謎のゆるキャラ」と題した動画をSNSに投稿し、しっちんに妙な人気が出てしまうことになるとは、梓市関係者一同、まだ知る由もない。
〈了〉
200810
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