かわいいひと

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「俺が、」  椿はスマホを取り出し、電子決済アプリの画面を開いた。レジのかたわらに設置されたバーコードを読み取って金額を入力すると「ペイペイ」と声がする。  支払い完了の画面をレジの店員に見せ、確認してもらうと、けだるげに「ありがとうございましたー」と返ってきた。  最近覚えたこの支払い方法を、椿はいたく気に入っていた。  小銭の有無を気にしなくていいし、あったとしてももたもた出しながら後ろを気にしなくていいのは、椿にとって実に気が楽なのだった。初めこそなんだか気恥ずかしかった音声も、今ではすっかりお気に入りで、心の中で一緒に「ぺいぺいっ」と呟いているくらいだ。  なにより、現金を何度も下ろしにいかなくていいのがいい。  だから最近は観光課の仕事でちょっと外に出たときや、こうして晴臣とドライブに出た先のコンビニなどで、積極的に使ってしまうのだった。  今日もなんとなく一仕事終えたような気持ちで二人分の飲み物を手にレジを離れると、晴臣がなにかもの言いたげにしているのに気がついた。 「なんだ?」 「いえ。椿さん最近それほんとお気に入りだなーって」 「何度も現金下ろしにいかなくていいから、楽でいいんだよ。カードより少額でもお店に申し訳なくないし。スマホを活用出来てる感もなんかよくて」 「椿さん、あんまりアプリ入れてないですもんね」 「あんまりどころか、最初からついてるのとLINE以外入れてない」  そのLINEも、職場や龍介との連絡用くらいにしか使ってなかったし、と付け足すと、晴臣は目を細めた。 「可哀想な子を見るような目やめろ」  さっきもの言いたげだったのも、電子決済ごときではしゃいでいるのがおかしかったのだろうか。若干むっとしたところで、小雨がぱらりと降ってきたから、小走りで車に乗り込む。 「……可哀想っていうか、可愛いなって思ってたんですけどね」  という晴臣の呟きは、拾い損ねた。      役所の仕事は、市民の皆様のため。市民の皆様あってこそ成り立つ仕事である。  と、いうわけで、今日も椿は市民の皆様のお宅を訪問していた。  梓市内には数カ所紅葉の名所がある。シーズンには近隣の小学校のグラウンドを駐車場として使用するのだが、こういうとき、小学校にだけ話を通せばいいというものではない。沿道の一般家庭にも「少し騒がしくなるかもしれませんが、もしかしたらゴミも出るかもしれませんが、そこはひとつ」とご挨拶をして回るのだ。一応、当該の町内会向けに文書は出しているのだが、そこはそれ。田舎のことで、直接頭を下げておくのとおかないのとでは、‪後日‬ 入るクレームの量が違ってくる。(註:ゼロになるとは言ってない) 「さすがに十軒一気に行くと喉涸れるね。ちょっとひと息入れてから帰ろ?」  ついてきてもらったベテラン女性が、カットソーの胸元を摘まんでふうっと息をつく。挨拶回りは、椿ひとりではへそを曲げる年配の方もいる。彼女がいなければ今日の仕事は出来なかっただろう。言われるまま喫茶店に入ってお茶を飲み「僕が」といつもの電子決済で支払いを済ませると、女性はなぜかくすくすと笑っていた。 「……なにか?」 「だって、椿くん、口から出てるよ」 「え」  とっさに手の甲で口の周りを拭うと、女性は「違う違う」とさらに愉快そうに告げる。 「口から一緒に出ちゃってるよ、『ぺいぺいっ』て!」      午前中の会議を終え、昼食の買い物に行こうと階段をおりたところで、晴臣は椿と出くわした。 「あ」  思わず漏れ出た呟きにも、じとっとした視線を一瞬向けただけで、椿は淡々と階段を下りていく。  一度も色を入れたことなどないのだろう黒髪に覆われた、形のいい後頭部を「むっとしてるのも可愛いんだよな」と呑気に追いながら、晴臣は数日前の出来事を思い出していた。    珍しく寮の部屋を前触れもなく訊ねてきて、椿は言った。 「知ってて黙ってたんですか」 「……なにをです?」  そんなこの世の終わりみたいな顔で詰め寄られるような、国家転覆にでも関わるような重大な機密など、もちろん一介の観光協会職員は掴んでいない。そう混ぜ返そうとも思ったが、椿の握ったこぶしがぷるぷると震えているのに気がついてやめた。 「お、俺が、『ぺいぺいっ』って口に出しちゃってるの……!」 「――あー」  気づいちゃいましたか。 「誰かに言われたんですか」 「今日、仕事先で――なんで言ってくれなかったんですか!!」 「なんでって……可愛いなあって思って」  コンビニでぺいぺいっ、ランチでぺいぺいっ――満足げに支払いしている可愛い小動物の姿を目の当たりにして、声出ちゃってますよなんて無粋なことはとても言えなかった。  仕事のときはいつも真面目に引き結んでいる薄い唇が、間抜けな音を紡ぐのも可愛ければ、なにごとか成し遂げたかのような、ちょっと誇らしげな顔もたまらなく可愛かったのだ。  いずれ気がついてしまうにしても、可能な限りこの可愛さを味わっていたい。せっかくアリーナ最前列にいることを許されたのだから。  そう思っていたのだが、どうやら無粋な輩がいたらしい。 「可愛い」という、晴臣の正直過ぎる言葉を聞いた椿の顔は、先日の東京出張の新幹線の中で食べたアイスより固く強ばっていた。 「まあ、立ち話もなんですから、上がって――」 「帰る!!」    直接顔を合せるのはそれ以来になるのだが、どうやらまだご機嫌が斜め気味らしい。  黙ってによによ楽しんでいたのは、そりゃあ若干人が悪いと言われればそうなのだが、そんなに怒るようなことだろうか。照れからくる怒りだとしても。  椿さん、そういうとこあるよなあ。  高校大学とエリートだったせいだろうか。あるいは、田舎の名家に生れて、市内の人間に一方的に知られているせいだろうか。椿は人の目を極端に恐れている。  自分と知り合って、婚礼舟を成功させてから、少しは緩和されたと思っていたのだが『ぺいぺいっ』は椿的にアウトだったようだ。  本当に可愛いだけだから、気にしなくていいのに。  現に、コンビニのアルバイトくんは、顔色ひとつ変えていなかった。仕事柄もっと面倒な客にも出会うだろうから、椿の所業程度をいちいち気になどとめていられないのだろう。  珍しく昼休みも重なったことだし、今日のところはなにか一緒に食べて仲直りしよう。  そう決めて後を追うと、椿は、役所の一角に吸い込まれていくところだった。役所内に併設の、銀行の出張所だ。  昼休みのことで、昔ながらの地銀のATMは混み合っていた。これでは貴重な昼休みが減ってしまう。あとにしたらいいのに、と考えて気がついた。  ――そうか、電子決済使いたくないから。  アプリを使うことでこの煩わしさから解放されたことをあんなに喜んでいたのに、また現金派に戻るのか。  椿がぺいぺいっと口にしていることを教えてしまった同僚に悪気はなかったのだろうが、なんとも罪作りなことをしてくれた。  晴臣はそっと列に近寄った。 「椿さん、今日は俺奢りますから、お金ならあとでまたおろしに来ません?」  逃げられないように、そしてまた後ろの人たちに「横入りするつもりじゃありませんよアピール」も兼ねて、ややオン気味の声で。 「早坂さん? いえ、私はーー」  椿は一瞬驚いたような顔をしたが、すぐに仕事モードに戻り、断ってくる。  逃られたくない一心で、晴臣は耳元に唇を寄せた。 「……『ぺいぺいっ』のことなら、そんなに気にすることないし、むしろプラス要素しかないですから」 「おま、ーー」  誠心誠意、心の底からの言葉だったのだが、椿はなぜか気色ばんだ様子でこちらをきつく睨みつける。  やば、しくじった?  一触即発の空気を破ったのは、 「お、椿君、月森さんのとこの」  という、呑気な声だった。  ATM周りに配置されている、シルバー人材のひとりだ。  椿は素早く怒りを鎮めた表情で「はい」と応じる。 「いやあ、すっかり立派になって。そうか、役所で働いてるんだって聞いてたなあ」 どこからだ。 察するにまた、「月森さんのとこの子」を一方的に知っている人だろう。年代的に、異常に厳しかったという祖父の知り合いかも知れない。 「活躍してるんだって? まちこん? とかも企画して」  いやおじさん、声が大きいよ。別に機密じゃないけど、ここ役所の人以外も使ってるし。  晴臣のほうがやきもきしてしまうが、椿は貼り付けたような薄い笑みのまま「ええ」と軽く応じている。なにか反論する方が面倒なのだろう。 この顔は以前にも見た。  いつだっけ、と記憶を探り始めたとき、おじさんの声がフロアに響いた。 「で? 結婚は? まだなの? いくら男だからって、頑張らないと、すーぐいい歳になっちゃうよ」    運良く順番が回って来て、椿は軽く会釈するとATMの前へと進んだ。現金を下ろし、振り返ったときの顔は、初めて出会った頃のものに似ていた。 うつろで、世の中すべてをシャットダウンしているような。  片隅に立ち尽くしていた晴臣を一瞥することもなく、足早に去って行く。 『何度も現金下ろしにいかなくていいから、楽でいいんだよ』  ――あれは、こういうことだった、のか? 市内の銀行やATM、コンビニに入れば、椿の場合、それだけ「自分を一方的に知っている相手」に出会ってしまう確率が高くなる。 そうして、彼らは「良かれと思って」錆びた刃物のような、不快な言葉で椿を傷つけていく。 だから、何度も下ろしに来なくていいことがーーたったそれだけのことが、救いだったんじゃないか? あの人には。 「あー、もう!」 思わず口にして顔を覆うと、見知らぬ人がビクッとして、遠巻きに去っていった。 ーー俺は駄目なコンサルタントだ。 椿の言葉を、額面通りにしか受け止めずに。 てのひらのスマホ画面を嬉しそうに見つめる椿の横顔。 嬉しそうでーー少し切ないその横顔が、いつまでも頭の中から消えなかった。  翌日、椿は街コンでアクセサリー作り体験の会場になったカフェを訪れていた。 観光課と観光協会の職員、それに旅行会社も交えて、お得なパックツアーにつけるクーポンの相談だ。 話し合いは順調に終わり、解散間際のことだった。  「あ、そうだ、母に頼まれてたんだ」 と晴臣が席を立ったのは。 お店のお姉さんが「なんです?」と訊ねる。 「ここの恋守りキット、買って送れって。自分とこのお客様にあげたいみたいで。取り敢えずサンプル的にひとつ」 晴臣の母は、著作もあるやり手の仲人士だ。大手コンサルタント会社のように大きな事務所を構えるのではなく、東京下町の自宅で、ひとりひとり細やかな対応を売りにしている。晴臣が手がけた街コンでこのカフェの商品を知り、興味を持ったのだろう。 「あら、それでしたら、差し上げますんで、どれでもお持ちになってください」 「いやいや、お金のことはちゃんとしたいんで。これがいいかな」 「まあ、そうですか? じゃあ、そちら1980円です」 レジに導かれた晴臣は、なにかに目を留めたようだった。 「あれ、電子決済使えるようになったんですね」 「そうなんですよ! お客様から使えないんですかって言われることが多くて。調べてみたら、カードより入金も早いし、じゃあいいかなって導入してみました」 「じゃ、これもそれで」 晴臣はスマホを取り出し、レジ横に置かれたバーコードを読み取る。 「1980円っと。ーーぺいぺいっ」 「ーー、っ」 出されていたお茶を吹き出しそうになり、椿はすんでのところで堪えた。 隣で同僚が声を上げる。 「やだ、早坂くんまで! 口から出てるわよ!」 そうだ、どういうつもりだ。からかってるのかーー思わず振り返ると、晴臣と一瞬だけ目が合った。いつも雲ひとつない青空のような、爽やかな笑みをたたえているその目が、こちらを見据える。 ーーえ? なんだ? と思った次の瞬間にはもう、いつもの爽やか笑顔を他の職員に向けている。 「これ思わず言っちゃいません?」 「知らない。使ったことないもの」 彼女の言葉に、他の年配職員も顔を見合わせ頷き合っている。 「これ凄い便利なんですよ。皆さんやってないんですか? 今政府もどんどん進めてますよね、キャッシュレス決済」 「うちはモニター自治体に選ばれてないしなあ……」 政府は窓口での書類の交付や公金の納付などのキャッシュレス化を推し進めるため、全国でいくつかの市町村をモニター自治体とし、取り組ませている。残念ながら梓は選ばれていなかった。そもそも役所の人間自体が、仕事で一斉にスマホに切り替わるのでなければ、まだまだガラケーを使いたかった派だ。選ばれなくて良かったー、くらいに思っている者もおそらくいるだろう。 スマホは「色々できすぎてなんか怖い」というのが彼らの意見だ。金銭が絡むとなればなおさらだった。 「でもいずれは全部そうしろって言われてるんだよな」 「そうですよね。××市は神社でも対応してるとこがあるらしいですよ」 「ーーどうやるの、それ」 なにかと比べられがちな隣の市の名を晴臣が出すと、職員のひとりがぐっと身を乗り出した。 テーブルに戻ってきた晴臣が「このアプリをダウンロードして、チャージはお好きなやり方選べばよくて……」などと説明を始める。 まったく別件で来たはずなのに、晴臣による電子決済アプリの使い方教室と化すテーブルを、椿は唖然として眺めた。 こうして観光課と観光協会内部のキャッシュレス化に対する意識改革は、はからずも役所のどの部署よりもいち早く進むことになった。 蓋を開けてみれば、「レジで小銭をちまちま出すのは男らしくない」「財布を持ち歩くのもめんどくさい」という世代の上司たちに、キャッシュレス決済は大好評となったのだ。 気がつけばいつのまにかアプリを使いこなし、役所のコンビニや自販機でも「ぺいぺいっ」「ぺいぺいっ」と一緒に呟いている。彼らから教わった他部署のおじさん職員の中には「ぺいぺいっ」という音声で認識して支払っていると思っている者もいたくらいだ。  おかげで「恥ずかしい」という気持ちがすっかり薄れた椿は、ふたたび電子決済を使い始めた。  ただし、今度は「あの人たちと一緒か……」という気持ちが湧いてきて、無意識で呟いてしまう癖は無事矯正されたのだが。  そんなこんなの、久しぶりに重なった休日。  椿の部屋には晴臣の姿がある。  一緒に配信の映画を一本観終えたところで「あの」と晴臣は切り出した。 「電子決済のこと、余計なことしてすみません。……みんなで言ったら恥ずかしさ薄れるかなって思って」  なにか思い詰めた様子で謝るから、なにかと思えばそんなこと。  そしてやっぱり、狙って仕掛けたことだったのか。 「謝るようなことじゃない。……俺がめんどくさい奴なのが悪い」  小心者のくせにかっこつけ。晴臣のように「つい言っちゃいません?」と軽く流すことが出来ない。  いや、そもそも論として、金を下ろしに行った際遭遇する、無神経おじさんおばさんたちのことももっとさらりとあしらえたならーーでも、だめなのだ。一度ささくれのように引っかかりが生じると、それはその日どころか数日消えてくれなかった。情けない話だ。 「それこそ悪いとかじゃないでしょ。ーー他の人にはともかく、俺には、こういうことがやだとか、つらいとか、ちゃんと言ってくれていいんですよ」  椿は、ソファに並んで腰かけていた晴臣の肩に、こて、と頭を預けた。 「……あんまり甘やかされると、困る」  ATMの列で声をかけられたとき、嫌だ、と思った。  小さいことにこだわっている姿を見られてしまった。無神経な発言をしたのは、あの、誰だかわからないおじさんだというのに、かっこ悪いところを見られた気まずさで晴臣の顔を見ることもできずさっさと立ち去った。  まごうことなきただの八つ当たりだ。  それなのに、晴臣ときたらーー自分のために、敢えてわざわざ笑われに行ったり……する。  晴臣が微かに笑うのが、触れた肩から伝わる。 「ほんとは可愛い椿さんをいつまでもひとりじめしたかったですけどね。ーーじゃあ、その分、サービスしてください」  ばか、という囁きは、口づけで奪われた。              〈了〉             20.09.29      
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