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1.
その日は、何てことはないいつもの一日だった。
岸悠介は、家路を急ぐ人たちでごった返す改札を抜けて、待つ人がいるわけでもない一人暮らしのアパートまでの道をノロノロと歩いていた。
混雑した電車に揺られたせいか、それとも一週間の疲れの表れか、スーツの背中は少し皺がよって、哀愁が漂っている。
大学を卒業し社会に出て三年、それなりに仕事がこなせるようになり、雑用と任された仕事とが許容量をジワジワとオーバーし、残業が当たり前のように増える時期だ。
彼は疲れていた。
駅から徒歩20分の安アパートまでの道のりは、通い慣れたとはいえ、こういうときは本当に遠く感じる。
せめて彼女でもいれば、肉体的には疲れきっていても、週末デートと洒落込んでストレスを発散できたんだろうか。
そんな思いが脳裏を過った。
こういう日は、ビールでも飲んでさっさと寝るに限る。
悠介は、帰り道にあるコンビニの灯りに吸い寄せられるように、ドアを押し開けた。
「あっ、スイマセン!」
中にいた相手がちょうど出ようとしていたことに、ぼんやりしていた彼は気づけず、ドアを思いきりぶつけてしまう。
「ごめんなさい、あの、大丈夫…ですか?」
オロオロと声をかけるも、返ってきたのはチッという乱暴な舌打ち。
「ってぇな、オッサン!」
ドアの内側にいたのは、ブレザーの制服をかなりだらしなく着崩した高校生らしき青年だった。
高校生、と言っても、180センチを軽く超えていそうな長身で威圧感バリバリだ。その上、髪の色はほとんど金髪に近い金茶色で、耳にはピアスが複数光っている。見る者を圧倒するような整った顔立ちの超のつくイケメンだが、目付きが物凄く悪い。
見た目で人を決めつけてはいけない、というのは正論だが、第一印象のほとんどが見た目に左右されるのは仕方がないというのもまた現実だろう。
トラブルに巻き込まれたくない、というのが、そのときの悠介の正直で切実な心情だった。彼はそもそも、通常運転のときなら相手がどんなにガラが悪くてもキッチリ誠意をもって謝るタイプだけれども、今日はあまりにも疲労が溜まり過ぎていたのだ。
「本当にスミマセンでした」
だから、もう一度そう素直に、だけど口早に謝って、彼はそそくさと店内に足を踏み入れようとしたが。
腕を掴まれて、引き止められる。
「ハア?そんなテキトーな謝罪あるかよ」
悠介はどちらかと言えば成人男性としては小柄なほうだ。上から覗き込むようにして顔を近づけてくるその大柄な威圧感溢れる高校生に、ムダな抵抗をして一層煽ることになるよりは大人しく一発殴られるぐらいで済ませようと、引き摺られるまま店の外に連れ出されるのを拒まなかった。
例えそれが、コンビニのドアを軽くぶつけてしまったという、よくあるちょっとした過失の代償にしては、随分と大き過ぎるものだという認識があったとしても。
「フゥン?スゲェヨレヨレしてっから、くたびれたオッサンかと思ったけど、よく見りゃかなりイケてンじゃん?」
そいつはコンビニの脇の細い路地に悠介を引き摺って行って、壁ドンスタイルで彼の顔を覗き込んでくる。
「ちょうどイイ、ウゼェ女に絡まれてイラついてたんだ、アンタで発散させて貰う」
ニィっと目を細めて笑うそいつの高校生らしからぬ迫力と大人顔負けのワルい顔に、悠介は歯を食い縛って目を瞑った。殴られる、と思ったのだ。
しかし、その予想に反して、次の瞬間、彼の身体は重力に逆らってフワッと浮き上がった。
「えっ?わっ……なっ、何?」
ハッと目を開けたが、視界に入ったのはブレザーの背中とアスファルトの道路で。
荷物みたいに肩に担がれてどこかに連れて行かれようとしている、と気づいたのは、道路が動いていたからだ。
「ちょっ、ちょっと、君!」
いくら悪かったのはこちらだとしても、さすがに問答無用でどこかに連れて行かれるというのはやり過ぎだ。それも、こんなふうに自由を奪われて、本人の意思に反して、となれば犯罪ですらある。
悠介は抵抗の意を表すべく、見えている広い背中を自由な両手でポカポカ殴った。もちろん、怒らせると何をされるかわからないから、力いっぱいというわけにはいかなくて、いわゆる猫パンチに等しい可愛い抵抗になってしまったのだが。
「あぁん?暴れると落としちまうかもしんねぇケド、いいのかよ?」
低いドスの効いた脅し文句が聞こえたかと思うと、頭がガクンと下降する。
「わあっ!」
頭から落とされる、と思わずその背中にしがみつくと、可笑しそうにクツクツと笑う声が、指先に振動となって伝わってきた。
「そーやって、しっかりしがみついとけ」
どこか楽しそうにそいつは言って、その間も少しも速度を緩めずに歩き続ける。
肩に担がれている格好の悠介は、初めは肩甲骨の辺りにあった頭が今は腰骨の下辺りまで下がっていて、逆さまに揺られる頭に血が上ってきて、だんだんボーッとしてきた。
あっヤバい、もう指に力が入んない……と思ったときには、意識が遠退く。
「おい、ちゃんと掴んどけって……チッ、メンドクセェな」
そいつの声と舌打ちが、どこか遠くに聞こえたような気がした。
フワリと身体を包み込むような体温と、爽やかさと雄臭さの入り交じった体臭。
荷物扱いの担ぎ方からお姫様抱っこに変わったのだ、ということに、そのまま意識を失ってしまった悠介は気づかず終いだった。
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