始まりの日

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 初めてのことで、アリはひどく疲れていた。  採掘作業でもたくさん動き回っていて、体力には自身があったが、いつもと違うところを動かすせいか、体がひどく痛むのを感じていた。  けれど、休んではいられない。  アリたちを監視する男が、常に両脇におり、さぼっているのがわかると、容赦なく、体を殴られた。アリも一度殴られた。その跡はまだ赤く腫れている。  この男は隣の国から派遣されていて、岩が滞りなく国に届くように目を光らせていた。  アリは懸命にロープを引き続けた。早く隣の国までたどり着けるように。  日が沈み、アリたちは労働から解放された。そして、質素だが食事が振舞われた。アリはそれをすぐに食べきってしまった。それでも、お腹はすいたままだ。 「アリ」  それを見かねてか、ヤンが自分の分のパンをアリに差し出した。 「たくさん食べたほうがいい」 「いいよ」  アリはそれにそっぽを向いて拒んだ。 「ヤンさんだって、たくさん食べないといけないよ」 「私は大丈夫だ」  ヤンは自分の分のスープを、ゆっくりと飲み進めていく。 「明日動けなくなったら、大変だろう」 「動けるさ」  アリはそう虚勢を張ってみせたが、やはりお腹すく。  まだ食べたばかりなのにも関わらず、アリのお腹がぐーっと音をたてた。 「ほらみろ」  ヤンはそういうと、もう一度、アリにパンを差し出した。  それにアリはがんばってそっぽを向きつづけたが、結局我慢できずに、そのパンを一口、かじってしまった。 「うまいか」 「うん」  アリはそういうと、パンを手に取り、全てひとりで食べきってしまった。 「多少は腹はふくれたか」 「うん」  アリの腹は少しだけ満足した。だからアリは元気にヤンにうなずいてみせた。 「ヤンさん、ありがとう」 「いいんだ」  そういうと、ヤンは自分のスープを全て飲み干した。  男たちは、振舞われている酒を飲んでいるようで、少し離れたところに目をやると、火がたかれ、男たちがその周りを楽しそうに踊っているのがわかった。 「みんな元気だね」 アリはその様子を遠くから見つめていた。 「アリも行きたいか」 「ううん」  そういうと、アリは地面に寝転がった。 「もう疲れちゃった」 「そうか」  ヤンはゆっくりとアリの頭をなでてやる。 「なら、眠るといい」 「うん」  アリはそういうと、目を閉じた。ヤンも隣で寝転び、ふたりは仰向けで空を見上げた。 「ねえ、ヤンさん」  アリが小さな声でつぶやく。 「なんだい、アリ」 「あとどれくらいで着くのかな」 「もうすぐだよ」 「もうすぐって?」 「もうすぐは、もうすぐだ」 「それじゃあ、わかんないよ」  そういってアリは笑った。 「隣の国にはなにがあるの?」 「たくさん、人がいる」 「たくさんって、どのくらい」 「とてもたくさんだ。アリが見たことがないくらいに」 「本当に?」 「本当だとも」  アリはヤンの方を向く。黒い大きな瞳が、輝きながらヤンのことを見つめていた。 「たくさんの人がいるの」 「ああ」 「そっか」  そういうと、アリはまた空に目をやった。 「ヤンさんは、国にいったことがある?」 「ああ、ある」 「そっか」  アリは満点の星空を見上げながらつぶやいた。 「楽しみだな」 「そうだな」  その声にヤンがこたえた。 「そのためには、早く寝ることが必要だ。力を蓄えなくちゃならん」 「そうだね」  アリはそういうと、おおきなあくびをした。それを見たヤンはまた、ゆっくりとアリの頭をなでてやる。 「おやすみなさい、ヤンさん」 「ああ、おやすみ」  そういうとアリは、横を向いてヤンにぎゅっとしがみついた。 「ヤンさんは、あったかいね」  その頭をヤンはやさしくなでてやる。 やがてアリがスースーと寝息を立て始めたヤンはそれを目を細め、見つめていた。  次の日も、またその次の日も、アリはロープを引っ張り続けた。それに合わせ、岩がじりじりと少しずつ動いていく。  雨の日も、太陽がじりじりと地面を焦がす日も、アリは懸命にロープを引き続けた。 時折監視の男たちに殴られることもあったが、アリはそれに負けることなくを、ロープを引き続けた。  国を、見てみたい。たくさんの人がたくさんいるという国を。アリは生まれて初めて行くその国を見てみたいと思った。だから、負けることなく、懸命にロープを引き続けた。  やがて、アリの目の前に少しずつ、国の影が見えてきた。 「わあっ」  アリは思わず声をあげた。  雲を突き抜けるようにそびえ立つ塔が現れたのだ。  その大きさに、アリは思わずロープを離し、立ち止まった。  遠くから見ているが、その大きさにすでに圧倒されていた。全体を見ることはできなかったが、どこまでも続く円錐が雲を突き抜けていた。 「何をしている」  監視の男の声で、アリは我に返った。  あわててロープをつかみ、岩を引いていった。けれどどれだけ進んでも、一向に塔は近づいては来なかった。そして日が暮れ、アリたちは解放された。 「ヤンさん」  アリはヤンに近づいていく。 「もう少しだなんて、ウソじゃないか」 「そんなことはないぞ、アリ」 「だって」  アリは抗議の声をあげる。 「いいかい、アリ」  ヤンがゆっくりと地面に座る。アリもそれに合わせて地面にしゃがみこんだ。 「確かに、まだまだ遠いかもしれないが、けれど、私たちは1歩1歩、確実にあの塔に近づいている」 「うん」 「だから、いずれ必ずたどり着く。足を止めることがなければ」 「いつつくのさ」  アリはふてくされた顔をして言う。 「さあ、いつだろうな」  ヤンはそういうと地面に寝転がった。 「ヤンさん」  そんなヤンの顔をアリは上から覗きこんだ。 「もうすぐだっていったじゃないか」 「もうすぐか」  ヤンは寝転がりながら言葉を選んでいく。 「もうすぐという時間の概念は、人によって異なってくる」  アリはその言葉に眉をひそめる。 「私のもう少しは、アリにとって、とてつもなく長い時間かもしれない」 「それじゃあ」 「しかし、その時間でさえも、神からみれば、ほんの一瞬でしかない」 「神様からみると?」 「ああ」  ヤンはそういうと、空を指差した。 「あの空の遥か向こうに、神はいらっしゃるのだ。そして、私たちのことをいつも見ている」  アリはその言葉を聞いて、空を見上げた。 「ぼくたちのことを?」 「そうだ。神はいつでも私たちのことを見ている」 「それで何をしているの?」 「見守っておられるのだ」 「それだけ?」 「ああ」  月明かりが、美しい夜だった。その明かりが遠くに見える塔を照らしていた。 「あの塔は、神様のところまで続いているの?」 「きっと、そうだろう」 「じゃああの塔に上れば、神様に会える?」  ヤンはその言葉に口をつぐんだ。 「ヤンさん?」 「神は私たちを赦してくれるだろうか」  ヤンが小さくつぶやいた。 「ヤンさん?」  アリはもう一度ヤンの顔を覗きこんだ。 「さあアリ、もう眠るぞ」  ヤンはそういって、アリの方を向いた。アリはその隣に寝転がる。 「明日にはきっと、たどり着くだろう」 「本当に?」  アリがたずねた。 「ああ、本当だとも」  ヤンはそういうといつもの通りに、アリの頭を優しくなでた。  その感触にアリは心地よさを覚え、いつの間にか眠ってしまっていた。  次の日、アリたちは国にたどり着いた。  そこには本当に、信じられないほど、たくさんの人がいた。アリの村では考えられないほどの、数え切れないほどの人だった。アリはそれを横目でみつつ、懸命に岩を引っ張っていった。もうすぐで塔の麓にたどり着くだろう。  その国はとてもたくさんの色にあふれていた。緑や、赤、黄色。様々な色彩を持つ布数々だった。それは、アリが初めて見たものだった。たくさんの市が開かれ、たくさんの人が、たくさんのものを買いあさっていた。  アリは、心が躍るのがわかった。  アリは時々立ち止まりそうになった。心がひかれるものばかりがあふれかえっている。いたからだ。しかし、足を止めてはいけない。ヤンは時々、アリの頭を軽くぶった。そうすることで、アリは我に返り、足を動かすことを止めなかった。 「もう少しだから、アリ」  ヤンがそうアリに声をかける。 「うん」  アリはその声に大きくうなずいた。  やがて、目的地である塔の麓が見えてくる。 「とまれー」  大きな号令がかかり、男たちは一斉に立ち止まった。  アリも立ち止まった。  そこには、アリが見たことがないほどの、高い、高い塔が立っていた。  アリはゆっくりと顔をあげ、搭の高さを確認しようとするが、どこまで顔をあげても、搭の一番先を見ることができなかった。アリの首は直角をこえ、後ろに倒れそうにもなったが、それでもやはり見えなかった。  搭の先は、雲の中に隠れていた。いや、雲の中を突き抜けていた。  アリはしばらく、そこから動くことができなかった。  別の男たちが現れ、アリたちが引いてきた岩をその搭の中へと引っ張っていった。 「ヤンさん」  アリが、雲を眺めながら聞いた。 「これは、なに?」 「搭だよ」  ヤンはそう答えた。 「どこまでも高い塔。神の国に届く搭だ」 「これが?」  アリはヤンの顔を見た。 「そうだよ」  ヤンは搭を見ながらそう答えた。 「ねえヤンさん、神様ってずっとずっと高いところにいるんでしょ」 「そうだ」 「本当に、届くことができるのかな」  ヤンはその問いに答えることはなかった。そしてアリに微笑みかけ、手を握った。アリの手の中には、お金が入っていた。 「これが、報酬だ」  それをアリに握らせると、今度はえいとアリを自分の肩の上に乗せた。 「これで仕事も終わりだ。国を見て回ろう」  ヤンはそういうと、先程の市場のほうに向かって歩き出した。
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