1人が本棚に入れています
本棚に追加
初めてのことで、アリはひどく疲れていた。
採掘作業でもたくさん動き回っていて、体力には自身があったが、いつもと違うところを動かすせいか、体がひどく痛むのを感じていた。
けれど、休んではいられない。
アリたちを監視する男が、常に両脇におり、さぼっているのがわかると、容赦なく、体を殴られた。アリも一度殴られた。その跡はまだ赤く腫れている。
この男は隣の国から派遣されていて、岩が滞りなく国に届くように目を光らせていた。
アリは懸命にロープを引き続けた。早く隣の国までたどり着けるように。
日が沈み、アリたちは労働から解放された。そして、質素だが食事が振舞われた。アリはそれをすぐに食べきってしまった。それでも、お腹はすいたままだ。
「アリ」
それを見かねてか、ヤンが自分の分のパンをアリに差し出した。
「たくさん食べたほうがいい」
「いいよ」
アリはそれにそっぽを向いて拒んだ。
「ヤンさんだって、たくさん食べないといけないよ」
「私は大丈夫だ」
ヤンは自分の分のスープを、ゆっくりと飲み進めていく。
「明日動けなくなったら、大変だろう」
「動けるさ」
アリはそう虚勢を張ってみせたが、やはりお腹すく。
まだ食べたばかりなのにも関わらず、アリのお腹がぐーっと音をたてた。
「ほらみろ」
ヤンはそういうと、もう一度、アリにパンを差し出した。
それにアリはがんばってそっぽを向きつづけたが、結局我慢できずに、そのパンを一口、かじってしまった。
「うまいか」
「うん」
アリはそういうと、パンを手に取り、全てひとりで食べきってしまった。
「多少は腹はふくれたか」
「うん」
アリの腹は少しだけ満足した。だからアリは元気にヤンにうなずいてみせた。
「ヤンさん、ありがとう」
「いいんだ」
そういうと、ヤンは自分のスープを全て飲み干した。
男たちは、振舞われている酒を飲んでいるようで、少し離れたところに目をやると、火がたかれ、男たちがその周りを楽しそうに踊っているのがわかった。
「みんな元気だね」
アリはその様子を遠くから見つめていた。
「アリも行きたいか」
「ううん」
そういうと、アリは地面に寝転がった。
「もう疲れちゃった」
「そうか」
ヤンはゆっくりとアリの頭をなでてやる。
「なら、眠るといい」
「うん」
アリはそういうと、目を閉じた。ヤンも隣で寝転び、ふたりは仰向けで空を見上げた。
「ねえ、ヤンさん」
アリが小さな声でつぶやく。
「なんだい、アリ」
「あとどれくらいで着くのかな」
「もうすぐだよ」
「もうすぐって?」
「もうすぐは、もうすぐだ」
「それじゃあ、わかんないよ」
そういってアリは笑った。
「隣の国にはなにがあるの?」
「たくさん、人がいる」
「たくさんって、どのくらい」
「とてもたくさんだ。アリが見たことがないくらいに」
「本当に?」
「本当だとも」
アリはヤンの方を向く。黒い大きな瞳が、輝きながらヤンのことを見つめていた。
「たくさんの人がいるの」
「ああ」
「そっか」
そういうと、アリはまた空に目をやった。
「ヤンさんは、国にいったことがある?」
「ああ、ある」
「そっか」
アリは満点の星空を見上げながらつぶやいた。
「楽しみだな」
「そうだな」
その声にヤンがこたえた。
「そのためには、早く寝ることが必要だ。力を蓄えなくちゃならん」
「そうだね」
アリはそういうと、おおきなあくびをした。それを見たヤンはまた、ゆっくりとアリの頭をなでてやる。
「おやすみなさい、ヤンさん」
「ああ、おやすみ」
そういうとアリは、横を向いてヤンにぎゅっとしがみついた。
「ヤンさんは、あったかいね」
その頭をヤンはやさしくなでてやる。
やがてアリがスースーと寝息を立て始めたヤンはそれを目を細め、見つめていた。
次の日も、またその次の日も、アリはロープを引っ張り続けた。それに合わせ、岩がじりじりと少しずつ動いていく。
雨の日も、太陽がじりじりと地面を焦がす日も、アリは懸命にロープを引き続けた。
時折監視の男たちに殴られることもあったが、アリはそれに負けることなくを、ロープを引き続けた。
国を、見てみたい。たくさんの人がたくさんいるという国を。アリは生まれて初めて行くその国を見てみたいと思った。だから、負けることなく、懸命にロープを引き続けた。
やがて、アリの目の前に少しずつ、国の影が見えてきた。
「わあっ」
アリは思わず声をあげた。
雲を突き抜けるようにそびえ立つ塔が現れたのだ。
その大きさに、アリは思わずロープを離し、立ち止まった。
遠くから見ているが、その大きさにすでに圧倒されていた。全体を見ることはできなかったが、どこまでも続く円錐が雲を突き抜けていた。
「何をしている」
監視の男の声で、アリは我に返った。
あわててロープをつかみ、岩を引いていった。けれどどれだけ進んでも、一向に塔は近づいては来なかった。そして日が暮れ、アリたちは解放された。
「ヤンさん」
アリはヤンに近づいていく。
「もう少しだなんて、ウソじゃないか」
「そんなことはないぞ、アリ」
「だって」
アリは抗議の声をあげる。
「いいかい、アリ」
ヤンがゆっくりと地面に座る。アリもそれに合わせて地面にしゃがみこんだ。
「確かに、まだまだ遠いかもしれないが、けれど、私たちは1歩1歩、確実にあの塔に近づいている」
「うん」
「だから、いずれ必ずたどり着く。足を止めることがなければ」
「いつつくのさ」
アリはふてくされた顔をして言う。
「さあ、いつだろうな」
ヤンはそういうと地面に寝転がった。
「ヤンさん」
そんなヤンの顔をアリは上から覗きこんだ。
「もうすぐだっていったじゃないか」
「もうすぐか」
ヤンは寝転がりながら言葉を選んでいく。
「もうすぐという時間の概念は、人によって異なってくる」
アリはその言葉に眉をひそめる。
「私のもう少しは、アリにとって、とてつもなく長い時間かもしれない」
「それじゃあ」
「しかし、その時間でさえも、神からみれば、ほんの一瞬でしかない」
「神様からみると?」
「ああ」
ヤンはそういうと、空を指差した。
「あの空の遥か向こうに、神はいらっしゃるのだ。そして、私たちのことをいつも見ている」
アリはその言葉を聞いて、空を見上げた。
「ぼくたちのことを?」
「そうだ。神はいつでも私たちのことを見ている」
「それで何をしているの?」
「見守っておられるのだ」
「それだけ?」
「ああ」
月明かりが、美しい夜だった。その明かりが遠くに見える塔を照らしていた。
「あの塔は、神様のところまで続いているの?」
「きっと、そうだろう」
「じゃああの塔に上れば、神様に会える?」
ヤンはその言葉に口をつぐんだ。
「ヤンさん?」
「神は私たちを赦してくれるだろうか」
ヤンが小さくつぶやいた。
「ヤンさん?」
アリはもう一度ヤンの顔を覗きこんだ。
「さあアリ、もう眠るぞ」
ヤンはそういって、アリの方を向いた。アリはその隣に寝転がる。
「明日にはきっと、たどり着くだろう」
「本当に?」
アリがたずねた。
「ああ、本当だとも」
ヤンはそういうといつもの通りに、アリの頭を優しくなでた。
その感触にアリは心地よさを覚え、いつの間にか眠ってしまっていた。
次の日、アリたちは国にたどり着いた。
そこには本当に、信じられないほど、たくさんの人がいた。アリの村では考えられないほどの、数え切れないほどの人だった。アリはそれを横目でみつつ、懸命に岩を引っ張っていった。もうすぐで塔の麓にたどり着くだろう。
その国はとてもたくさんの色にあふれていた。緑や、赤、黄色。様々な色彩を持つ布数々だった。それは、アリが初めて見たものだった。たくさんの市が開かれ、たくさんの人が、たくさんのものを買いあさっていた。
アリは、心が躍るのがわかった。
アリは時々立ち止まりそうになった。心がひかれるものばかりがあふれかえっている。いたからだ。しかし、足を止めてはいけない。ヤンは時々、アリの頭を軽くぶった。そうすることで、アリは我に返り、足を動かすことを止めなかった。
「もう少しだから、アリ」
ヤンがそうアリに声をかける。
「うん」
アリはその声に大きくうなずいた。
やがて、目的地である塔の麓が見えてくる。
「とまれー」
大きな号令がかかり、男たちは一斉に立ち止まった。
アリも立ち止まった。
そこには、アリが見たことがないほどの、高い、高い塔が立っていた。
アリはゆっくりと顔をあげ、搭の高さを確認しようとするが、どこまで顔をあげても、搭の一番先を見ることができなかった。アリの首は直角をこえ、後ろに倒れそうにもなったが、それでもやはり見えなかった。
搭の先は、雲の中に隠れていた。いや、雲の中を突き抜けていた。
アリはしばらく、そこから動くことができなかった。
別の男たちが現れ、アリたちが引いてきた岩をその搭の中へと引っ張っていった。
「ヤンさん」
アリが、雲を眺めながら聞いた。
「これは、なに?」
「搭だよ」
ヤンはそう答えた。
「どこまでも高い塔。神の国に届く搭だ」
「これが?」
アリはヤンの顔を見た。
「そうだよ」
ヤンは搭を見ながらそう答えた。
「ねえヤンさん、神様ってずっとずっと高いところにいるんでしょ」
「そうだ」
「本当に、届くことができるのかな」
ヤンはその問いに答えることはなかった。そしてアリに微笑みかけ、手を握った。アリの手の中には、お金が入っていた。
「これが、報酬だ」
それをアリに握らせると、今度はえいとアリを自分の肩の上に乗せた。
「これで仕事も終わりだ。国を見て回ろう」
ヤンはそういうと、先程の市場のほうに向かって歩き出した。
最初のコメントを投稿しよう!