始まりの日

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 市場の中は、アリが見たことのないもので、あふれていた。  知らない食べ物や知らない道具。目も回るほどのたくさんの品々がそこで売られていた。 「なにが食べたいかな?」  ヤンはアリにそうたずねた。 「えっと、えっと」  アリはとても決めることができない。  食べ物の前に走っていっては、それを凝視する。  とてもいいにおいがする。  どれもこれもが、アリの食欲を刺激する。  あっちにいってはこっちにいき、アリはふらふらと市場の中を歩き回った。  それを後からヤンが楽しそうについていく。  一瞬、アリは目を奪われた。 「きれい」  アリはそういうと、ふらふらとそちらに向かって歩いていった。  それは、1枚の布だった。 「いらっしゃい」  店の中から、しゃがれた声がした。  そして腰の曲がった老婆がひとり店の中から出てきた。 「これ、とってもきれいですね」  アリはそういって、布を手に取った。 「そうでしょう。これは私が丹精こめて作ったもんなんだから」 「おばあちゃんが作ったの?」 「そうだよ」  布には、色とりどりのの刺繍が施され、アリはうっとりと、その模様を見つめていた。 「これが欲しいのかい」  ヤンがそうアリにたずねた。 「ううん」  アリは首をふり、布を元の場所に戻した。 「お母さんが、喜んでくれるかなって思ったんだけど、高そうだから」 「そうだな」  ヤンはそういうと、アリが戻した布を手に取り、老婆に差し出した。 「これはいくらだい」 「35ファリー」 「わかった」  ヤンはそういうと、手持ちの袋から金を出すと、老婆に手渡した。 「えっ」  アリは思わず驚いた。そして、ヤンの方を見た。 「ヤンさん」 「ありがとう」  老婆はそういうと、布をきれいにたたみアリに差し出した 「お母さん、きっと喜んでくれるよ」  老婆はアリにそう言った。 「でも」  その言葉にアリはとまどった。 「この布はお守りとしても使われているんだ」 「お守り?」 「そう、きっと坊やや、お母様のことを守ってくれるよ」  老婆はそういうと、ゆっくりと店の中へと消えていった。 「ヤンさん」  アリが困ったようにヤンのことを見つめていた。 「35ファリーって、とても高いんじゃないの」 「大丈夫だ」  ヤンはしゃがみこみ、アリの頭をそっとなでてやる。 「お母さんのところに持っていってやろう」  ヤンがそう微笑むと、 「うん」  アリの丸い多きな瞳が、キラキラと輝いた。 「なくさないようにしなくちゃな」  ヤンはそういうと、布をアリの腰に巻きつけた。 「さあ、ごはんにしよう」  そして、ヤンはアリの手を引き、歩き出した。 「うまいものがあるんだ」 そういいながら。 「おいしい」  ヤンがアリを連れて行った店は、市場の奥の、目立たないところにある食堂だった。最初、アリはお店は休みなのだと思った。けれど、ヤンは、そんなことは気にせずにずんずんと店のなかに入っていった。  そうすると、店員の男がヤンたちに注文を聞きにきた。 「これと、これと、これを」  ヤンが料理名を指差すと店員は静に厨房へと消えていった。 「あいよー!」  そして、厨房から耳によく響く、大きな声がした。  アリはその声に思わず驚いた。  そして、ゆっくりと静かに店員の男が料理を持って現れ、テーブルに静かにおくと、また静かに厨房へと消えていった。 「さあ、アリ」  ヤンはそういうと、料理を食べ始めた。アリもゆっくりと食べ始める。  とにかく美味しかった。アリは皿を片っ端から片付け始めた。アリは食べる手を止めることができなかった。美味しいものを久しぶりに食べ、とても幸せな気持ちになった。 「ヤンさん、これもおいしいよ」 「ああ」  アリは目を輝かせながら、食事にありついていく。それをヤンは楽しそうに見つめていた。 「おいしいかい、坊主」 「うん」  厨房から現れた店主が、耳に響く大きな声でアリに問いかけた。店主も、アリのキラキラと輝く瞳をみて、思わず笑みがこぼれた。 「こんなうまいうまいって食ってくれるのは、ありがたいもんだな」 「ああ、本当だ」  そんなふたりに見守られながら、アリは食事をすすめていった。  お店にふらっと、人が入ってきた。 「いらっしゃい、そこどうぞ」  店主が声をかけると、入ってきた男は、店主が指差した席に座った。 「何にしましょう」 「そうだな」  男は考え込んだが、 「おすすめで」  そういった。  店主はそれに従い、また厨房のほうへと消えていった。 「おいしいね、ヤンさん」  アリはその男に気がついていないのか、笑顔で食事を続けていた。 「ヤン」  と小さく男がつぶやいた。  そして、男とヤンの目が合った。 「ヤン、お前じゃないか」  男はそういうと、急に立ち上がり、ヤンのテーブルに手を着いた。 「久しぶりじゃないか、どこにいたんだよ」 「ヤンさん、知り合い?」  アリは不思議そうにその男を見つめた。 「ああ、そうだ」  ヤンはそう答えた。  男はヤンと、アリを交互に見つめる。 「お前の子か」 「違う」 「そうか。でも本当に久しぶりだな」 「ああ」 「ここに座ってもいいか」  男はそういうと、ヤンとアリの間の席を指差した。 「あとにしてくれ」  ヤンは男にそういった。  アリは食べる手をとめ、ふたりを交互に見つめていた。 「この子がまだ食べてる」 「わかった」  男はそういうと、席を離れ、元の自分のイスに腰かけた。 「宿を用意してくれないか」  ヤンが男にそういった。 「ああ、かまわない」  男はそう言うと、 「この道を行った右側に宿がある。そこをとっておくよ」 「ありがとう」  ふたりのやりとりを、アリは不思議そうに眺めていた。ヤンさんに友達がいるなんて。 「アリ、早く食べないと、さめてしまうぞ」 「うん」  そう言われ、アリはあわてて、食事に戻った。 「おー、うまそう」  男の声が聞こえてくる。  男とヤンは時折、目を合わせながら、食事をしていた。 「ごちそうさま」  アリがそう大きく叫ぶ。 「ありがとう、坊主」  店主がそういった。 「うまかったか」 「うん」  アリは元気いっぱいにうなずいた。 「それはよかったぜ」 「おじさん、ありがとう」 「さあ、行こうか」  そういって、ヤンは席を立った。 「またあとで」  男がそうヤンに声をかけた。 「ああ」  ヤンはそれだけいうと、アリの手を引き、店を出た。 「ヤンさん」  アリはヤンを見上げながら声をかける。 「あの人は、ヤンさんのお友達?」 「まあ、そんなものだ」 「ヤンさんにお友達がいるんだね」 「ああ」  アリはごはんをたらふく食べて元気になったのか、笑顔がはじけている。 「アリ、他に見たいものはあるか」 「うんとね」  アリはヤンの手を引き、市場を歩いていく。 「眠くなっちゃった」 「そうか」  そのアリの声に、ヤンは思わず笑みを漏らした。 「じゃあ、今日はここで寝よう」 「宿がとってあるの?」  アリがそう尋ねる。 「ああ」  そしてヤンは道を進んでいく。その右手にある、 「あれだ」  宿を指差し、ヤンはそういうと、アリの手を引き、中に入っていった。 「すごい」  通された部屋を見て、アリは思わず声をあげた。  とても広かった。  アリの家の何十倍もありそうなほどの広さだった。思わず、始めたアリは駆け出してしまう。 「あまり走るなよ」 「うん」  部屋のなかには彫刻や絵画がたくさん飾ってあった。アリはそれをしげしげと見つめていく。 「ヤンさん、これは何?」 「神鳥だ」 「神鳥?」 「そう、神の鳥だ」 「鳥が神様なの?」 「ああ、そうだ」 「へー」  アリはたくさんの飾りに次々と目を移していく。 「見るものがたくさんで、忙しいな」  ヤンは思わずそう声をかけた。 「うん」 「飽きないか」 「うん。あ、これ、すごくきれいだな」  アリは絵画を見ながら微笑んだ。 「お母さんみたいだ」 「本当だな」 「失礼する」  部屋のドアがあき、人が入ってきた。  先程のあの男だった。 「気に入ってくれたかな」 「ああ」  ヤンがそう答えた。 「ヤン、少し話があるんだが」  その言葉を聞き、ヤンはアリのほうを向いた。 「アリ、少しだけ、ひとりでまってられるか」 「うん。もちろんだよ」 「すぐ戻るから」  そういって、ヤンはアリをおいて男と一緒に部屋を出ていった。  アリはヤンが戻ってくるまでの間、ずっと、部屋の調度品を見ていようと思ったが、だんだんと眠くなり、気がついたら、ベッドの上で眠っていた。  ヤンが戻ってきたのは夜遅くになってからだった。  アリはそれに気がつかずに眠り続けた。  ヤンは優しくアリの頭をなでると、隣に寝転び、一緒に眠った。  朝、日差しが部屋に差し込み、アリはそれで目を覚ました。 「ふああああっ」  大きくあくびをする。  そして、ゆっくりと部屋を見渡す。本当に広い部屋だ。けれど、どこにもヤンの姿がなかった。 「ヤンさん」  アリは寝ぼけ眼をこすりながら、ヤンの姿を探した。 「やあ、おはよう、アリ」  ヤンはすでに身支度を済ませ、イスに座り、飲み物を飲んでいた。  ヤンが見つかったことで、アリの顔に笑みがこぼれた。 「おはよう、ヤンさん」  そして、元気よくあいさつをした。 「よく眠れたか」 「うん、とっても」  アリは、そういうと体をうんとのばした。 「それはよかった」 「ヤンさん、それは何?」  アリはそういって、ベッドから出ると、ヤンが持っているカップの中をみた。 「これは、コーヒー」 「コーヒー?」 「そう、とても苦いんだ」 「苦いの?」 「でも目が覚める」 「ぼくも飲みたい!」  アリはそういうと、ヤンの目を見つめた。 「苦くて飲めないぞ」 「飲めるもん」  ヤンはカップをアリに手渡した。  アリはそれを両手で抱えると、少しだけ、口をつけた。そして、 「苦い」  顔を引きつらせながら、小さくそういった。 「だから言っただろう」  ヤンはそういうと、アリからカップを受け取った。 「ヤンさん、今日は何をするの?」  アリは身支度を整えながらヤンにたずねた。 「もう帰ろうとと思う」 「村へ?」 「そうだ」 「そっか」  アリは少しさびしげな顔をした。 「まだここにいたかったか」 「うん」  アリはうつむいた。 「でもしょうがないよね」  そういって微笑んだ。 「アリ、準備が出来たら教えてくれ」 「もう大丈夫だよ」 「そうか」  ヤンはゆっくりと立ち上がった。 「じゃあ、行こう」  そして、ふたりは部屋を出ると、宿を後にした。アリは宿の外でもう一度振り返り、宿を見た。大きな家だった。いつか、自分もこんな家に住むことができるだろうか。少しだけ、胸が高まるのを感じた。
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