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ひまわりの夢
「あ、あの……」
透き通った声をかけてきたのは、ひとりの小柄な少女だった。
「なに?」
と、いうように振り返ると、黄色いワンピースを着たその少女は、ちょっとためらいがちに、そして、何だか申し訳なさそうに言葉を続けた。
「ひまわりの丘に行きたいんです。近くに月見草が咲いているんです」
「え?」
駅の入り口で路線図を見ていた僕に声をかけてきたのだから、どの電車に乗って、どの駅まで行けばいいのかを聞きたいのだろう、と、僕は思った。
それにしても、「ひまわりの丘とか、近くに月見草が咲いている」だけじゃあ、答えられないじゃないか……
「それだけじゃあ、わからないなあ」
と、言いかけて、僕は、ふと、自分が、そのひまわりの丘を知っているような気持になってきたのだ。
それは、少女の、いかにも申し訳なさそうな様子のためだったのかもしれない。
が、とにかく、僕の記憶の中に、丘の上のひまわりと、近くに、夜になると咲く月見草の姿があることに気付いたのだ。
「ああ、それなら、あの駅かなあ」
もう一度、路線図に目をやってから、再び少女の方を見ると、少女は、驚いたように、そして、とてもうれしそうに眼を大きく見開いた。
「よかった!」
もしかすると、もう、何人かの人に聞いて、「知らない」と言われていたのかもしれない。
「どうやって行けばいいんですか?」
思い出したその駅までの行き先なら、なんとかわかる。電車を乗り継いで行けばいい。でも、そこから、ひまわりの咲いている丘、そして、近くに月見草の咲く丘。そこまでの道順まで教えられるかどうか、それは、自信がない。
「直通のバスでもあればいいのだけれど」と、思って、駅前のバス停のほうを見ると、市民病院のほうから来たバスが、次の行き先に向かって出発するところだった。
「ああ、あのバス、知ってる」
でも、僕の記憶にあるひまわりの丘へ行くバスなんて、そう都合よく走ってはいないだろう。
それでも、一応、バスの案内図も見てみようか、と、そう考えた僕は、たった今、病院から来て、走り去ったバスが止まっていたバス停のほうにゆっくりと歩いて行った。少女も、僕のあとについて歩いて来ていた。
「そんなのあるわけないよなあ」
そんな風につぶやいて、また、電車の駅に戻ろうとしたちょうどその時、市民病院のほうから、もう一台の、路線バスにしては小さいバスが、まるで、路面の上をすべるようにやって来るのが見えた。
「あ!これで行くのね!」
少女は、うれしそうに、その不思議なバスを指さした。
まだ、夕暮れには、時間があったけれど、バスは、夕暮れ色に包まれて、まるで、アニメか絵本の中から出てきたような感じの乗り物のように見えた。
「ひまわりの丘」
バスの前には、そう、行き先が書かれていた。
「本当だ!」
こんなのあるのか?と、不思議に思いながら、僕は、少女と一緒にバスに乗ることにした。
外から見たときにも、何だか夕暮れ色に見えるバスだったけれど、中は、もっと、夕暮れで、真昼がちょっと苦手な僕には、何だか、ほっとするような雰囲気だった。
でも、僕と並んで、一番後ろの席に座った少女は、そんなことには気づかない様子で、右側の窓から、外の景色を、うっとりするような目で眺めていた。まるで、これから、とっても楽しいことが起こるかのように。
ひとり、また、ひとりと、他の乗客が降りていって、運転手さん以外には、僕と少女のふたりだけになっても、少女は、まだ、窓の外の景色に夢中になっているようだった。
「不思議な景色だな」
窓の外の景色は、普通のバス通りとは思えないようなものだった。
「ここは遊園地?」
子ども達のにぎやかな声の中に、あまり大きくはないジェットコースター、そして、夕暮れ色に染まったメリーゴーランドが見えた。
「あれは、メリーゴーランドが回るときの音楽?」
と、思ったら、バスは、今度は、夕暮れの商店街の中を走っていた。
魚屋さんの前には、小さな子どもを連れて買い物袋を手にしたおかあさんの姿。八百屋さんの店先には、古ぼけた感じの電球の明かりがともっていた。
「まだ、あんな電球、あったんだ」
感心していると、今度は、お祭りのときの屋台の風景が現れた。
金魚すくいの店、焼きそば屋さん、とうもろこしのお店。
わたあめをなめながら、走りまわっている子ども達。
「あれはコスモス?」
いつのまにか、バスは、ピンクの花がたくさん咲いている丘のふもとを走っていた。
「それじゃあ、もう秋?」
ひまわりの季節は終わってしまったのだろうか?
と、心配そうに見ているうちに、コスモスの丘の景色も終わってしまい、バスは、街の中を走り続けているようだった。
それまで窓の外を眺めていた少女は、突然、思い出したように、ショルダーバッグの中から何かを取り出した。
少女がショルダーバッグから取り出したのは、一冊の絵本だった。
表紙には、ひまわりの絵が描かれている。
「ひまわりの少女は、夜が嫌いでした」
少女は、絵本を読み始めた。
*
昼間の楽しそうだった子ども達の声も聞こえず、仲間の花たちの姿も見えない夜は、とても寂しい世界のように、少女には思えました。
「みんないなくなっちゃった」
夜が嫌いな少女は、夜の間、ずっと、目を閉じて、眠っていました。でも、ときどき目覚めてしまって、そんなときは、とても心細いのです。
「誰もいない」
ひまわりの少女は、寂しさでつぶれてしまいそうでした。
「これ、あげる」
不意に誰かの声が聞こえて、ひまわりの少女は、顔をあげました。
そこには、ひまわりの少女よりも白っぽいけれど、ひまわりの少女と同じような黄色い服を着た子どもが立っていました。そして、ひまわりの少女に、ひまわり色の花笠を差し出しているのです。
「あなたは?」
「月見草だよ」
「月見草?」
「そう。夜の間にだけ咲く花。だから、昼間は、この傘に隠れているんだよ」
「日焼けしないように?」
「そうだよ」
月見草の子どもは、ちょっと笑いました。ひまわりの少女もつられて笑いました。
「貸してくれるの?」
「夜の間、これで、闇をさえぎって」
「ありがとう」
「朝になったら返してね」
「うん。わかった。また、ここに来てくれる?」
「来るよ」
「ありがとう」
こうして、ひまわりの少女は、夜の間、月見草の子どもから借りたひまわり色の傘の中に隠れていることにしました。
傘の中にいると、外の暗闇がはいってこないので、ひまわりの少女は、少し、安心しました。それだけではありません。傘をさしていると、今まで見えなかった月見草の子どもの笑顔が、いつでも、見えるのです。傘の中からでも。こうして、ひまわりの少女は、もう、ひとりぼっちではなくなりました。夏の夜も怖くなくなったのです。
朝が来ると、約束通り、また、月見草の子どもがやってきて、ひまわりの少女は、「ありがとう」を言って、ひまわり色の傘を月見草の子どもに返します。月見草の子どもは、ひまわり色の傘に隠れて、昼間は、誰にも見えません。でも、不思議なことに、ひまわりの少女には、傘の中の月見草の子どもの姿が見えるのでした。夢を見ながら眠っている月見草の子どもの穏やかな姿が。でも、もしかしたら、それが、全部、ひまわりの少女の夢だったのかもしれません。
*
読み終わった少女は、にこっと笑いながら僕のほうを見て、それから、今度は、また、別の絵本を取り出した。
『ひぐれのひまわり』
今度の本の表紙のタイトルは、はっきりと読み取れた。やはり、ひまわりの絵が描いてあったけれど、さっきのとは違って、女性作家の作品のようだった。
「あわなおこ」という作家の名が、はっきりと読み取れた。
「この作家、知ってる」
僕は、何だか、不思議な感じがした。
「ここは、現実なんだ」
いつのまにか、ここが、夢の中なんじゃあないかと思い始めていたので、現実の世界の作家の名前を見つけて、ちょっと驚いたくらいだった。
『ひぐれのひまわり』は、せつないような物語だった。ひまわりの少女のたったひとつのよろこびは、追われていた少年を逃がしてあげたこと。その少年は、踊り子を殺して追われていたのだった。その少年を逃がしてあげたことだけによろこびを感じて、夏のおわりに枯れてしまうひまわり。
読み終わった少女は、うっとりするような表情で、目を閉じて、しばらくして、また、目を開けると、ゆっくりと、絵本をショルダーバッグにしまった。
「ひまわりの絵本が好きなんだ」
僕の問いかけに、少女は「うん」と言うようにうなずいた。
いつしか、バスは、街の中から抜け出して、黄色い花が咲く丘のふもとを走っていた。
「ひまわりの丘?」
バスが止まると、少女は、ショルダーバッグを肩にかけて、ちょっと、はしゃいだような様子で、バスから降りて行った。もちろん、僕も、後に続いた。
僕も、地味なショルダーバッグを肩にかけていた。少女は、そのバッグからのぞいていたオレンジ色の小型の傘を見つけると、「貸して」と、声をかけてきたので、僕は、ショルダーバッグから傘を取り出して、少女に渡した。傘を受け取った少女は、それを自分の黄色いショルダーバッグに入れて、そして、ひまわりの丘を登って行った。
そこが僕の記憶にあった場所かどうか、僕には、はっきりとはわからなかった。僕の記憶の中のひまわりと月見草が咲いていた場所は、丘というより、住宅街の、ちょっとだけ高くなった土手のようなところだったように思う。ひまわりの花もほんの少ししか咲いていなかったように思う。それに比べると、バスの終点のこの場所は、とても広い丘で、ひまわりが、ほんとうにいっぱい。これじゃあ、月見草も見つからない。近くを通っていたはずの路面電車の線路はどこに行ったのだろう?
そんなことをぼんやり考えているうちに、少女は、どんどん丘を登って行って、僕は、あわてて、少女を追いかけた。
「あ、あそこだ」
ひまわりの花たちの間から、丘の上のほうへ歩いていく少女の姿が見えた。
ひまわりの間からは、時折、街の家並みも見えた。そして、一瞬、路面電車の姿も。
「ああ、すぐそこだったんだ」
でも、街の風景に目をやっているうちに、僕は、少女の姿を見失ってしまった。
「どこに行ったんだろう?」
バスの乗ったときと比べると、もう、ずいぶんと、日が傾いて、ほんとうに夕暮れの丘だった。
僕は、夕暮れのひまわりの丘の中を歩いて、少女の姿を捜し続けた。
なんだか、あの子が、とても遠くへ行ってしまったような、寂しいような気持ちになってきた。
そして、僕も、ずいぶんと遠くへ来てしまったのかもしれない。
もう、空には星も現れた。
丘の上に流れ星が見えたような気がした。
同時に、丘の上から、たんぽぽの綿毛が空へ飛んで行ったように見えた。たんぽぽの綿毛と言っても、白ではなく、黄色い傘のように見えた。そして、小さい綿毛がたくさん飛んでいったのではなく、少し、大きめの傘が、ひとつ、ゆらゆらと空へ登って行ったように見えた。
「これは?」
僕は、ひまわりの丘の上に、一冊の絵本を見つけた。
『ひまわりの夢』
間違いない。それは、あの少女がバスの中で読んでいた絵本だった。
「落としてしまったのかな?」
「届けてあげなくちゃ」
僕は、それを拾って自分のショルダーバッグに入れようとした。が、そのとき、絵本にはさまっていた一枚の紙がこぼれ落ちた。
「これは?」
それは、病院の入院患者の外出許可証だった。
その病院の入院患者は、外出するときには、主治医の許可をもらって、許可証を持って外出する。そして、出かけるときと帰ってきたときに入り口の守衛さんに見せることになっているのだ。僕は、そのことをよく知っていた。
「あの子?」
少女は、あの病院の入院患者だったのだ。
そして、今日は、外出許可をもらって、このひまわりの丘にやって来たのだ。
「それなら、もう帰らなくちゃ」
僕は、少女の外出許可証に記された予定の時間を見ながら、そう、思った。
いつのまにか、日が沈み、もう、夕焼け雲の見える空は、どんどん、夜空に近づいていた。
「道に迷っているのかな?」
ほとんど道なんてないのに、僕は、なんとなくそんな風に思いながら、あてもなく、少女を捜してひまわりの丘を歩き回った。丘の上の方へ。そして、また……
丘のふもとのほうに戻って来たとき、僕は、山道のような小道に、バス停のような標識があるのを見つけた。
「市民病院行き」
こんなところに?
しかし、もっと驚いたのは、そこに、もう、バスが止まっていて、入り口が開いていたことだ。
ここへ来たときに乗ってきたのと同じバスだと、僕は思った。
「あの子、もう、乗っているのかな?」
僕は、すぐに、そのバスに乗ろうとして、ステップをのぼった。
「え?」
なぜか、そこは、すでに、病院の中だった。よく知っている入り口をはいったところ。
「帰りは、一瞬?」
まるで、魔法のバスのようだ。それとも、これは夢?
「あの子、もう、帰っているのかな?」
外出許可証を失くしてしまって、大丈夫だったのかな?
そんなことを考えながら、守衛さんがいるはずの部屋の前を素通りして、売店の前まで来ると、店員さんと目が合った。売店の店員さんなら知っているかもしれない。
「あ、あの……」
僕は、少女がひまわりの丘に落としていった外出許可証を見せながら、そう言った。
「え?」
店員さんは、ちょっと驚いたように、小さな叫び声をあげた。
「あの子の……」
ご親戚の方ですかとでも聞きたそうな顔をして、店員さんは、言葉を止めた。
「この外出許可証を落として行ったので、届けに来ました」
僕は、今日の日付の少女の外出許可証を見せながら、そう、言った。
「外出?」
店員さんは、もっと驚いたように、そう、言った。
「外出なんてしていないはずですよ」
どういうことだろう?
と、思っていると、店員さんは、なんだか申し訳なさそうに言葉を続けた。
「あの子、今日、亡くなったようですよ」
「え?」
そんなはずはない、と、僕は思った。
「さっき、会ったんです。さっきまで、ひまわりの丘に」
と、言いかけて、僕は、息をのんだ。
「ひまわりの丘?」
たしかに、あのバスの行き先は「ひまわりの丘」だったし、そこには、たくさんのひまわりが咲いていた。僕にも、ひまわりが咲いている場所の記憶はあった。でも、「ひまわりの丘」なんて、そんな呼び名は、あのバスの行き先表示のほかには見たことがなかった。「ひまわりの丘」なんて言っても通じるはずがない。
「あの子は、今日は、ずっと、病室にいたはずですよ」
外で会ったはずなどない、とでも言いたいように、でも、ちょっと控えめに、店員さんが話した。
「そうですか……」
しかたなく、僕は、病院から帰ろうとして、出入り口へ向かった。病院の庭へ通じるはずの出入り口へ。
「でも、僕は、どこへ帰ればいいんだろう?」
僕は、さっき、ひまわりの丘で、少女の絵本をしまうときに自分のショルダーバッグの中から見つけた古い日付けの外出許可証を取り出そうとして、また、やめた。
そこは、たしかに、病院の庭だった。でも、僕がよく知っているはずの庭と、どこか様子が違うような気がした。
そこにあったのは、野原のような、小高い丘のようにも思える風景だった。もう、空には星が出ていたが、地平線の近くには夕焼けのなごりが見えて、まだ、日が暮れてから、そんなに時間がたっていないようだった。
真昼がちょっと苦手な僕にとっては、こんな時間は、どちらかと言うと好きな時間だった。回りの花も、けっこうよく見えるのだ。
「あれは、コスモス?」
庭の隅にはコスモスの花も見えた。
「もう、夏は終わってしまったの?」
さっきまでひまわりの丘にいた僕は、不思議な気持ちになった。
きっと、あの子は、死ぬ前に、もう一度、大好きなひまわりの丘を見たかったのに違いない。
それで、容体が悪くなる前にもらっていた外出許可証をもって出かけたのだろうか。そして、たまたま駅前で出会った僕と一緒に、バスに乗って、ひまわりの丘に……?
でも、「今日は、ずっと、病室にいたはず」だって?
それじゃあ、僕が会ったのは?
さっきまで、一緒にひまわりの丘にいた少女は?
ぼんやりと庭を歩いていた僕は、ふと、ひとりの少女が、庭に立って、こちらを見ていることに気づいた。
「あの子だ」
いつからいたのか、黄色い傘をさしたあの少女だった。こちらを見て、手を振っている。
「あのバス?」
そう。
いつのまに到着していたのか、少女の後ろには、あの「ひまわりの丘」行きのバスが止まっていて、少女は、そのバスの入り口の前に立っているのだった。
「行きましょう」
そう言うように、少女は、僕に、目で合図をすると、ゆっくりと傘を閉じ、そして、バスに乗るためのステップを登り始めた。
「そうしよう」
これに乗って帰ればいいんだ。
もう、さっき見つけた自分の名前の外出許可証も使えないんだ。
僕は、やっと、帰るところを見つけた。そして、ゆっくりと歩いて行った。
ひまわりの少女と一緒に。
暑さと暗闇をさえぎるバスの壁に囲まれたなつかしい夕暮れ色の中へ。
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