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1.海の中①
一人の若い女が橋の入り口に立ち、文庫本を読んでいる。暁の空はまだ薄暗く、彼女は点々と灯る電灯に顔を近づけて頁を捲っている。暫くして朝霧の向こうから歩く音が聞こえ、顔を上げた。
男が橋の向こうから歩いて来る。もう五十前後だろうか、年月を重ねた疲弊を背負っているような、瑞々しさを失った佇まい。男は女を見て、少し顔を強張らせる。もし、と女が声をかけると、どうもと男はぎこちなく挨拶をする。女は尋ねる。
「この先は村しかありませんが、道を間違われたりはしていませんか」
「いや、間違いではないよ。この先の尾地村に用があるんだ」
「まあ、最近はめっきり訪れる人がいないものですから、驚きました」
女は自らが案内人であると名乗り、本を閉まってから男と連れ立って橋を歩き出した。久方ぶりの客人が嬉しいのだろう、女は溌剌として尾地村の由来と昔話を語る。
「尾地村は交通には不便ですが、水源が近く、肥沃な窪地として江戸時代に開拓された村なんです。村は農耕や養蚕が盛んでしたが、昭和に入り近くに鉄道が走るようになってから、若い男たちは町へ出稼ぎに出かけたり、村から遠く離れ、新しい場所に移り住んだりすることが多くなりました。そして、その頃に村で歌われたのが尾地里謡です」
ご存じですか、と女が尋ねると男は黙って首を振った。
「尾地里謡は切ない恋の歌で、村を離れる男の側の心情を歌ったものです。例え互いが春の花と冬の雪の様に、交わることがない者同士だとしても、いつかこの水落橋でまた会おうと願う歌。村には尾地里謡の他、この辺りの田舎歌を上手に歌う山城さんという老人の方がおりますので、立ち寄って歌謡をお願いしても良いと思いますよ」
「君は歌わないのかい」
「私は音痴なもので」
女が困ったようにそう言うと、男は目を瞑って何事かを考えているようだった。暫くは二人の歩く音だけが冷えた空気に響く。
「今は夜明け前だからひっそりとしていますが、昼過ぎになると子供達が川で遊ぶ様子も見ることができますよ」
気まずい沈黙を拭うように女は言った。
「もしお客様がお望みであれば時間を早めることも可能ですが、いかが致しましょうか」
男は再びゆっくりと首を振る。
「いや、いい。僕はね、この時間に橋を渡っていたいんだ」
彼は橋の遠く、まだ輪郭がぼんやり見える程度の山並みに目を向ける。その後ろに隠れている朝日を想像しているかのように。
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