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3.海の中②
「少し、休みましょうか」
歩いている途中に男がふらついた為、女は心配そうに声をかけた。男が首肯すると、女は腰掛を脇から取り出し、彼の前に置いた。先ほどまでなかった筈なのに、不意に現れた腰掛。彼はまじまじとそれを見て、それから腰を下ろした。
「便利なものだね、仮想空間というのは」
「そうなのでしょうか、私はここ以外を知らないので」
「そうか、そうだったね」
男は呟き、大きく息を整える。
「便利なものだよ。遠くて実際には行けない所にだって旅行できるし、ないものだって作り出せる。実際には歩いていないのに、こうやって疲れすら感じる」
「そうですね。それが風景保存計画のコンセプトです」
実在する空間を電子上で再現・保存しようとする取組みは昔からあったが、更に葉擦れの音、山間の冷えた空気等も五感で感じられるよう試みたのがこの風景保存計画だという。神経接続した端末を通してその空間に繋がることで、実際にその場にいるような体験を味わえる。
全ての情報をリアルタイムで再現するには莫大な演算を必要とするが、この技術はその課題もクリアした。閲覧者の動作や思考パターンを解析し、その人が感じたい最低限のデータに出力を絞ることで、双方向性と再現性の両立を可能にしたのだ。
「でもやはり本物ではないから、残せるものと残せないものがあります。例えば在りし日の人々の生きた姿。動作を真似ることはできても、全てに自律的な動きを設定することは膨大な演算が必要で、現状の技術ではできません。なので彼らはいくつかの応答パターンを自動設定された、所謂ロボットです」
「じゃあ、君もそんなロボットなのか」
「いいえ、私には思考と感情の自律型プログラム、人格が設定されています。この橋上は閲覧者にとって移動域や接触面が限定されているから、一人分の人格プログラムなら併存が可能だと判断されたのでしょうね」
男は川のせせらぎの音に耳を澄ます。この音も実際には存在していないのだ。
「この空間は僕がいるから存在しているということは、僕がいない間はこの橋も、そして君もいないのか」
男の問いに彼女は頷く。
「それは、どんな感じなんだい」
「そういうものとして存在しておりますから、特別に感じるものではないです。人間が眠って、夢を見ている感覚に近いのでしょうか」
一拍置いて、彼女は呟く。
「その夢の中で、私は何かを待っているのです。それが何かはわからないのだけれど」
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