時雨村

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ジーワジワジワジワジワワワワワワワワ── うるさい。 最近の蝉はどうかしてる。今何時だと思ってんだ。深夜早朝おかまいなしに叫びまくりやがる。 昔の蝉ってこんなだったっけ。いいや、違った気がする。 まだ涼しい朝方くらいは、静かにしていた気がするぞ。 これも温暖化の影響なのか。 だいたい、東京の住宅地のどこにこんなに蝉がいるっていうんだ。 蝉も都会に住むならそれなりに社会のルールを守って、深夜早朝くらい静かにしやがれっ。 「パパー!そろそろ起きないと遅刻よ!」   「父ちゃんチコクー!ねぼう!」 ──うるさい。実にうるさい。 呼ばなくたって起きる時間くらいわかっている。小一になったばかりの健司はもちろん可愛い息子だが、朝に聞くかん高い子供の声は、頭に響く不快な雑音にしか聞こえない。ましてや妻のイラついた声なんて問題外だ。いまいましい朝の光をシャットアウトしてくれる真っ黒い遮光カーテンも、騒音の前には無力だ。 ジーワジーワジワジワジワワワワワワワワ「パパー!」ワワワワワワジワジワ「父ちゃんチコクー!」ワワワワ・・・・・・ ジリリリリリリリリリリリリ 二度目の目覚ましが鳴った時、俺はあきらめてベッドを出た。 クーラーをつけっぱなしで寝ているにもかかわらず、しっとりと汗で濡れたパジャマを脱ぎ捨てて、ハンガーにかかっているひんやりとしたカッターシャツに袖を通す。 一階に下りて、洗面所で冷たい水を顔に浴びせる。 鏡に映った顔はひどいもんだ。ブツブツと伸びたヒゲ、目の下に出来たクマはもともと小ぶりな目をよりいっそう小さく見せてくれる。我ながらとてもまだ三十一だとは思えない。 俺はシェーバーでザッとヒゲを剃り、くたびれたチューブからジェルを搾り出し、短い髪にサッとなじませて洗面所を後にした。 「あ!パパやっと起きたの!?パン焼けてるから、早く食べて!」 リビングの重いドアを開けると、依佐子のせわしない声が響く。健司の声もかん高いが、依佐子の声も負けじと耳を衝く。どこからそんな声が出るんだろう。 そこらじゅうにたちこめるパンの焼ける匂いに胸がムカムカして、俺は一刻も早くリビングを出たかった。 「父ちゃん、お先~!」 健司はもう朝食を済ませたらしく、体の大きさに不釣合いな真新しいランドセルを背負って、玄関へ走っていった。 「車に気をつけて、ちゃんと皆に着いていくのよ!いってらっしゃい!あ、体操服忘れちゃダメよ!」 依佐子は健司が走っていった廊下に目を向けながら、トースターの中から、たぶん俺の分であろう、こんがりと黄金色に焼けた食パンを取り出して皿にのせた。胸がまたムカッとした。 「俺、今日も朝飯、いいから」 「また!?一口でも食べたら?夏バテするわよ!」 俺は何も答えず、テーブルの上のコーヒーを一口飲んだ。 「時間ないから」なんて言おうものなら、だからもっと早く起きればいいのにと、頭に響く声でぐちぐち言われるのがオチだ。 二口ほど口をつけたマグカップをテーブルに戻して、俺は鞄を手に取った。 「いってくる」 「あ!お弁当忘れないでよ!」 「今日は商談で外食だから弁当はいい」 急いで台所に弁当を取りに行こうとした足を止めて、依佐子は非難めいた顔でこっちに向き直った。 「またぁ!?そういう事は前の日に言ってくれっていつも言ってるでしょー!?」 その言葉を聞き終わらないうちに、俺はトースト臭いリビングを出て、玄関へ歩き始めた。 その俺の後をスリッパのパタパタという音が追ってきて、依佐子が俺のスーツのポケットに何かをギュッと押し込めた。 紺色のハンカチだ。 「今日は猛暑になるらしいから、ハンカチ二枚持っていきなよ。彰、汗かきなんだから。それにもう三十一だし、オヤジ臭にも気をつけないと、女子社員に嫌がられるわよ」 依佐子は健司のいない時、夫婦二人の時は俺の事を「彰」と名前で呼ぶ。おまけに俺にも「依佐子」と名前で呼ぶように強要してくる。しくじってつい二人の時に「ママ」とでも呼ぼうものなら、返事すらしない。結婚して七年も経てば、呼び方なんて「パパ」でも「ママ」でも名前でも、なんでもいいと俺は思うが。 それにしても、やっぱりかん高い。頭から抜けるような声だ。おまけに弁当の怒りが冷めやらぬのか、心なしか語気も強い。一言多いのはいつもの事だが。 「彰?遅刻するわよ」 ボーっとしている俺の顔を、依佐子がしかめっ面で覗き込む。 「いってくる」 俺はドアを開けて、騒音とトースト臭がたちこめる家から逃げ出した。 外ではいまいましい太陽がギラギラと空気を焼いて、競い合うように叫びちらす蝉の声が、よりいっそう熱気を増長させている。 どこにも逃げ場なんてないのだ。 家から徒歩五分の最寄り駅、糀谷に着いたころには、着替えたばかりのはずのシャツが、一晩寝汗を吸って不快に湿ったパジャマよりもひどい状態になっていた。 クーラーの効いた電車に飛び乗っても、車内は憂鬱そうな顔の男や女やでぎゅうぎゅう状態で、哺乳類の放つ独特の熱気と臭気が、クーラーで攪拌されて狭い箱の中で漂っているだけだった。 逃げ場は、ない。 東京には、人と蝉、どっちが多いだろう。 そんなことを考えながら、俺は鞄を胸の前で抱えるようにして、両手を自分の顎の下まで上げた。俺は満員電車に乗る時にはいつもこうするようにしている。なぜって、パンツギリギリのミニスカートを穿いた青臭い女子高生なんかに、チカンよばわりされるのは御免だからだ。 その時、俺の右隣に立っている背の小さなOL風の女が、俺の方をチラリとみて、少し眉をひそめて反対方向を向いた。──ような気がした。 満員電車で不快指数が高いのはお互い様だが、今朝依佐子が変な嫌味を言うもんだから、ふと不安がよぎった。 ──オヤジ臭…。 俺はまだ三十一だし、それを言うならアイツだって同い年じゃないか。自分の事は棚に上げて、男ばっかりバイキンみたいに言いやがって。 とはいうものの、隣の女の反応が気になった俺は、ななめ前の女子高生に手が当たらないように気をつけながら、出がけに依佐子が押し込んだ紺色のハンカチをポケットから取り出して、額の汗をぬぐった。 すると、スッと、何か柑橘系のさわやかな香りが鼻をかすめた。 香水とも違う、シャンプーや制汗剤とも違う、フレッシュな香り。 ハンカチを鼻に押し当ててみると、さわやかなレモンの香りが、ツンと鼻を突き抜けた。 洗濯の、洗剤の香りか? 俺はほんの一瞬、この滞った熱気の渦から抜け出せた気がして、ハンカチを鼻に当ててもう一度深く息を吸い込んだ。 「蒲田~」 テンションの低いアナウンスと共に、哺乳類の群れはホームへと押し流された。再び太陽の熱と蝉の雄叫びが襲う。駅から歩いてすぐのビルに駆け込み、クーラーの効いたオフィスへ逃げ込む。 「おはよう」 「おはようございまーす」 同僚たちと形式ばかりの挨拶を交わし、朝礼では部長が無駄に声を張る。 「明後日から盆休みなんだからな!皆、それまでに目標達成!やるべき仕事は全て済ましていかんと、盆休み返上してもらうぞ!」 ガハハと笑ったその口からは、まさにオヤジ臭が漂っている。俺も気をつけよう。たしかにああはなりたくない。 それから部長は、まるで最高のジョークを放ったかのような満足げな顔で、最悪のオヤジギャグを二、三発放ち、部下である我々も、まるで最高のジョークを聞いたかのように愛想笑いし、いつものように朝礼は終わる。 そう、しつこいようだが、逃げ場なんてどこにもないのだ。たとえ冷暖房完備のオフィスの中でも。 俺は東京で産まれて東京で育って、今まで東京以外の所に住んだことはないし、住みたいとも思わない。 そこそこ裕福な家に生まれて、そこそこいい高校、大学へ進んで、そこそこ大きな会社の営業マンに成った。 大学時代のコンパで出会った依佐子と三年付き合って結婚し、その一年後、健司を授かった。その健司も今では小学生になったし、俺も平日は忙しくてかまってやれないが、唯一の休息である週末を、たまに健司の為に潰して、遊園地やアニメ映画に連れていったりもしている。 甘やかすわけじゃないが、必要なものや流行のゲームなんかも、大抵買い与えてやれるくらいの稼ぎもある。それは依佐子に対しても言えることだ。 我ながら、自分は順調に人生の駒を進めているし、いい夫であり、いい父親だと思う。 なのに、この毎日の倦怠感。 理由はわかっている。それは── バシッ!! 突然後ろから強く背中を叩かれ、俺はびっくりしてしかめっ面で振り向いた。 「おす!雨宮!今日もイクだろ!?」 同僚の榎が、おちょこをクイッと傾けるしぐさをして、ニィッと笑った。 「榎、お前なぁ」 榎は俺と同じ三十一だが独身で、女に関しては異常なまでの面食いだ。いい女を連れて歩きたい心理は男としてわからなくもないが、「俺は妥協するくらいなら一生独りで居るぜ」なんて息巻いてるうちに、もう何年も彼女すらいない日々が続いている。 今は、日焼け止めのCMに出てるなんとかっていうモデルの女の子にハマっていて、その子に似た女を探しているらしい。 榎は本当に一生独身かもな、と内心俺は思う。ただ飲み友達としては、嫁や女がいない奴程気兼ねない相手はいない。 「お前なぁ、今出勤したばっかでもう帰りの話しかよ」 俺は呆れた風に言ったが、返事は決まっている。榎もそれがわかっているようだった。 「今日も“参丁目”行こうぜ。大将が、今日はウマイ魚が入るって言ってただろ。さて、それを楽しみに働くぞー!!」 榎はニンマリ笑って、俺の肩をポンポンと二回叩いてから自分のデスクに戻っていった。酒の話しをする時のアイツは、本当に幸せそうだ。榎は独身なので、ほぼ毎日、会社の近くにある“参丁目”という小料理屋で一杯ひっかけて帰る。 “参丁目”は、大将とおかみさんが二人でやっている小さな店だが、大将の料理は絶品だし、マイペースなおかみさんの笑顔と関西弁のトークも、癒し系でとてもいい。 俺も週三回程、榎のお供をして楽しい酒を飲んではいるが、榎ほど心底酒好きというわけではない。 俺はなんの話をしている時、榎みたいに、あんな風に幸せそうに笑うのだろうか。 「おおきに、気ぃつけてな~」 おかみさんの笑顔に見送られて、俺と榎が参丁目を出た頃には、もう終電ギリギリの時間だった。 終電の中は、独特の世界があると俺は思う。酒や食べ物、香水、飲み屋の匂いがたちこめた車内、朝の熱気や汗の臭いとはまた違う、生々しい夜の臭いがプンプンする。 終電に乗っている人はきっと、なにかしらギリギリの人ばかりなのだ。 飲んだ帰り、気楽な独り者ならそのまま朝まで飲むもよし、会社近くのサウナか漫画喫茶で寝るもよしだが、うつろな目で終電に乗っている人達は、どんなに楽しい酒の後でも、どんなに切ない酒の後でも、急いで終電に飛び乗って帰らなくてはならない場所が、事情があるのだ。 もしくは、酒どころか終電ギリギリまで働いて、シラフでこの夜の臭いに耐えている奴らも何人かいるのだろう。 なんにせよ、何かにギリギリの人が乗るのが終電なんだ。 もちろん、俺も含めて。   家に帰ると、玄関の明かりはついている。 もちろん依佐子と健司はもう寝ているが、リビングの明かりもついたままにしてある。 依佐子も、以前は俺が何時に帰っても起きて待っていたものだが、最近は健司と一緒に先に眠っている。 まぁそのほうが、俺としても気楽でいいが。起きて待っていられても、小言がうるさいだけだ。 今日も“参丁目”に居る時、依佐子から電話が鳴ったが、俺はあえて出なかった。出たって、「また飲んでるの!?」「何時に帰るの!?」とあのかん高い声で言われるだけに決まっているからだ。 その後には、どうして電話一本くれないの、とか面倒な会話が続く。 俺は家族を養うために朝から晩まで汗水流して働いてるというのに、やっと仕事が終わってホッと一息、楽しく飲んでる時にまで、そんなお小言を聞きたいわけがない。 なので依佐子からの電話は、極力出ないように心がけている。 そういうことを続けているうちに、依佐子も少しは俺のわずらわしく思う気持ちを察したのか、それともただの怠惰なのか、未だに電話はくるものの、起きて待っているようなことはなくなった。 冷蔵庫からペットボトルの水を一本取って、リビングのテーブルの方へ行くと、テーブルの上にはラップされた一人分の食事が置いてある。 これもいつもの事だ。俺がどんなに遅く帰っても、必ず食事が用意されている。飲んで帰ってくるとわかっているのに、だ。 ──そう、これは依佐子の嫌味なのだ。 週四回くらいは飲んで帰るのが習慣になりつつある俺に対しての、嫌味。 飲んで帰って腹がいっぱいだとわかっているのに、これみよがしに俺の食事を用意して置いておく。これでもし食べずに寝ようものなら、明日の朝言われることは決まっている。 ─なんで食べないの!?せっかく置いておいたのに! ─外で喰ってきたのに喰えるわけないだろ!? ─だからいつも言ってるでしょ!?食べて帰るときは連絡してって!連絡しないから作るんじゃない!だいたい彰は… …とまぁ、どのみち「連絡しろ」とか「飲みに行き過ぎ」だとかいう方向に話が進むに決まっている。 むしろそれが依佐子の狙いなのだ。お小言を言うきっかけなんてなんでもいいのだから。 だから俺は、どんなに腹いっぱいでも、置いておかれたこの“地雷”をきちんと始末する。 今日の地雷は、鶏肉とズッキーニの野菜炒めに、茄子の揚げびたし、胡瓜と蛸の酢の物だ。 ラップを外すと、鶏肉と油の臭いがむわっと広がって、胸がムカついた。 しかし依佐子のかけた罠に、まんまとはまるわけにはいかない。依佐子がこの嫌味を続ける限り、俺だって退くわけにはいかない。俺にも意地がある。 俺は重い手で箸を取った。ズッキーニを一つ口に入れると、早くもゲップがあがってくる。 「うぷ…」 ペットボトルの水で流し込むように地雷を始末しながら、俺は朝礼の時の部長の姿を思い出していた。ベルトの上に乗ったたるんだビール腹。 ──俺がああなったら間違いなく依佐子のせいだ。 そんな事を思いながらも、深夜の台所で俺は黙々と二度目の夕食を進めた。 「パパったらまたパン食べてかないの!?」 ミーンミーンミーンミミミミ…… 「母ちゃん牛乳ーっ!」 吐き気を誘うパンの焼けた臭いと共に、いつもの騒音がかわるがわるこだまする。 喰えるわけないだろ、朝飯なんて。深夜一時過ぎに地雷を始末したばかりなのに。 玄関に向かう俺の後ろから、パタパタと足音がせまる。 「彰!今日は早めに帰ってきてよね。明日早いんだから」 「わかってるよ」 そう、明日から一週間、盆休みだというのに、依佐子の実家に行くという面倒な予定が詰まっている。それも盆休み中、まるまるの滞在予定だ。ありえない。 俺の両親は都内に住んでいるから、ちょくちょく孫の顔を見せに行ったり、食事したりしているが、依佐子の親は、東京から車で四時間程の距離にあるド田舎の村に住んでいる。今どき「村」があること自体、東京生まれ東京育ちの俺にとっては、ちょっとしたカルチャーショックだ。 義母は若くして亡くなっている為、七十四になる義父が一人で暮らしている。しばらく顔も見てないし、心配だからたまには長く滞在してもいいじゃない、という依佐子の主張で、お盆の間中、あのコンビニも遊び場もない、午後九時には真っ暗になる村に閉じ込められる事が決定した。 田舎は良いわよ、空気も綺麗だし。なんて言って、依佐子は久々の帰郷を楽しみにしているようだが、俺は、東京でもこんなに蝉が居るのだから、田舎には一体どれほどの大群が待ち受けているのだろう…なんてボンヤリ考えていた。 もしかしたら、盆休み返上で仕事でもしてた方が気が楽だったかもしれない。 一応俺も、なんとか短期滞在に変更できないものかと思い、抵抗はしてみた。 「でもほら、俺の実家はどうすんだよ。お盆だぜ。一応仏壇に菓子でも持ってったほうがいいんじゃねーの?」 「もちろんよ。だから、私の実家から帰るときに彰の実家に寄ろう。お菓子とお花買ってさ。村の名産にね、“もちより”っていうおいしいお菓子があるのよ」 抵抗はあっさり失敗に終わった。むしろ面倒な予定が一つ増えてしまった。もうこれ以上、余計なことは言うまいと決めた。 「それと彰」 かん高い依佐子の声が、少し低く強い口調になった。こういう時は、何かお小言に決まっている。 「遅くなる時はいつも前もって電話くらいしてって言ってるでしょ?電話しても出ないし、こっちも色々と都合があるし、健司だってパパが帰ってくるかもって、ギリギリまで起きて待ってるんだからね」 予想的中だ。しかも健司を引き合いに出してくるあたりがずるい。 「飲みなんて急に決まる事がほとんどだし、だいたい飲んでる最中に嫁からの電話なんて出れるかよ。上司や後輩に気ぃ使わせるだろ。付き合いなんだからさ」 俺は面倒くさそうに、もっともらしい理由をつけた。依佐子が健司を引き合いにだすなら、こっちは上司だ。本当は榎と二人だが。 依佐子は、ハァ、と短いため息をついて、無表情で言った。  「遅れるわよ」 依佐子は俺のポケットに、黒いハンカチをギュッと押し込んだ。またオヤジ臭がどうのと余計な嫌味を聞かされる前に、俺はすばやく家を出た。 太陽が煮えたぎらせた空気。 蝉の雄叫び。 監獄のような電車内。 レモンの香り。 部長のオヤジギャグ。 部下の愛想笑い。 いつもと同じ、まったく同じ毎日が今日も着々と過ぎていく。 「雨宮!今日も付き合うだろ!?昨日大将が言ってたじゃん?今日はウマイ猪肉が入るってさ!」 榎の幸せそうな顔もいつも通り。 「また朝から酒の話しかよ。お前、ほんっとに好だよなぁ」 俺の答えも、いつも通りだ。なに、帰りが遅くなったって明日ちゃんと起きれば、依佐子も文句は言えないはずだ。 いつもの参丁目で、おかみのゆるい関西弁と大将のうまい料理を楽しんでいると、ズボンのポケットの中で携帯のバイブが震えた。 ──依佐子だ。 もちろん無視しようと思ってチラッと携帯を観ると、着信じゃなくてメールを受信したようだった。 いつもならこれ位の時間に、依佐子から電話がくるはずだ。依佐子は昔からあまりメールはしないタイプだ。メールは好きじゃないの、と付き合ってる時代から言っていた。 女はたいてい、絵文字で飾り立てたメールをやりとりするのが好きだと思っていた当時の俺には、依佐子の考えは新鮮に感じた。 なぜ好きじゃないのかと聞くと、メールより電話の方が早いじゃない、とあっさり答えた。 たしかに、俺もそう思う。 いちいち文章を考えて、絵文字がないと「冷たい」とか「怒ってるの」とか言われて、一つの用事を伝えるだけで何往復もやりとりが続く。 実にバカらしい時間ロスだと思う。 依佐子は男性的な考え方の持ち主なのかもしれない。そういうところも、昔から可愛げがなかったんだ。 俺は携帯を開いて、受信メールを見た。 『明日はろくじ起きよ早く帰って』 ──そうか、今朝話したからか。 俺が上司の前で嫁からの電話なんて出れるかと言ったから、わざわざメールをよこしたのだ。 メールなら返せるでしょ、返せないとは言わせないわよ。そう言ってほくそえんでいる依佐子の顔が目に浮かぶ。 そう、これも嫌味なのだ。 絵文字どころか「。」や「、」すらもない、味気ないメール。 「ろくじ」ってオイ。 数字に変換するのも面倒なくらいメールが嫌いなくせに、俺に嫌味をしかける為なら労力も惜しまないとは。 依佐子はいつからこんな嫌味で可愛げのない女になっただろう。 大学時代、週三ペースで開催されていたコンパのひとつに、依佐子が来ていた。そのコンパはわりと可愛い子揃いで、男サイドは皆、こそこそと「当たりコンパだ」と騒いでいた。 でもその中で次につなげたのは俺一人で、皆のうらやむ視線に俺は優越感をかみ締めたものだった。 でもまさか、その時ゲットした依佐子が嫁になるとは思ってもみなかったが。 そもそも、どうしてあの女の子達の中で依佐子を選んだんだっけ。他の子も皆可愛かったはずなのに。 今となってはもう、思い出すことも出来ない。 「嫁さんじゃねぇの?返さなくていいのかよ、メール」 携帯を閉じた俺に、榎が口をはさんだ。冷酒のグラス片手の榎の顔は、すでにゆでだこ状態だ。 「いーんだよ。家に居る時でも口うるさくてうんざりなのに、飲んでる時まで嫁の相手なんてできるかよ」 俺は冷酒をグイッと呑みほした。榎が俺のグラスに酒を注ぎながら笑う。 「俺はうらやましいけどなぁ。あんな可愛い嫁さんでさぁ。弁当とか作ってくれちゃって。晩飯だって帰れば毎日あんだろ?俺だったら毎日まっすぐ家に帰っちゃうね」 毎日飲みに誘ってる張本人がよく言ったもんだ。 榎は何回か家に来たことがあり、依佐子とも顔を合わせている。 依佐子はなぜか人ウケはいいので、俺の友達や両親には、可愛くてよく気のつく奥さんだと好評を得る。 皆思いもしないんだろう、その依佐子が俺に対して、あんなに陰湿に嫌味を続ける、可愛げのない妻だなんて。 「あらぁ、なら榎さんがお嫁さんもろたら、私ら困るわねぇ。常連さんなくしてまうやんか」 里芋の煮物をテーブルに運んできたおかみさんが、おどけたような顔で榎に目くばせした。 「いやいやいや!大将の料理もおかみのトークも俺の必需品だからなぁ!嫁さんもらってもちょくちょくお世話になるんで、よろしゅうたのんます~!」 榎がふざけたエセ関西弁で言った。そもそも、結婚どころか彼女もいないくせに。 「ほな、料理下手な嫁さんもろてもらわなあかんねぇ」 おかみさんはカラカラと笑って、大将がカウンターの中で魚をさばきながらニヤリと笑う。 そうして今夜も俺は、ギリギリの終電に揺られて、薄明かりのついたリビングに帰った。 今日の地雷は、焼き魚とサラダ、そして里芋の煮物だった。 かぶってるよ、よりによって…。 ついに透視能力まで身につけたのか、依佐子は。 しかもメールを返さなかった俺へのあてつけなのか、今日はご丁寧にメモまで添えてある。 『明日は六時起きだから、早く寝るように。おやすみなさい。』 ──なら地雷なんて用意しておくなよ。 俺は今夜もペットボトル片手に、黙々と二度目の夕食を済ませた。 「あ!パパ!やっと起きたの!?もう六時過ぎてるわよ!七時には出るんだから、急いでパン食べて!あ、ヒゲも剃ってよ、実家に行くんだから」 「父ちゃんおはよ~!なぁ、虫捕りの網、長いのと短いの、どっち持ってった方がいいかなぁ」 「健司!網なんておじいちゃんちにあるから持ってかなくていーの!荷物になるでしょ!あ、パパ、部屋に荷物置いてあるから、玄関に運んどいてね!」 ──いつにもましてかん高い二つの声が、交互に響く。頭がガンガンする。胃の調子も悪い。さすがに、今から四時間の運転はきつい。すでに吐きそうだ。 「パンはいいからさ、胃薬と水、頼むよ」 テンションの低い声でそう言うと、依佐子が眉をひそめた。 「何?調子悪いの?風邪?」 俺はリビングの椅子に腰かけて、はぁ、と深い溜息をもらした。 「違うよ、ただの胃もたれ。早く、胃薬」 依佐子は薬の入った棚に手を伸ばしながら、呆れたように溜息をこぼした。 「夜中にご飯食べるからじゃない。だからいっつも朝御飯も食べられないのよ。そんなんじゃ、夏バテするわよ」 ───これには俺もさすがにカチンときた。 夜中にご飯食べるから?誰がその地雷を用意してるんだ!? 毎日毎日、満腹だとわかっている俺に二度目の夕食を、せっせとラップして置いておく張本人が、夜中にご飯食べるからじゃない、としれっと言ったのだ。 「置いてあるから喰うんだろうが!」 俺はあきらかにイラついた口調で言った。 依佐子が、胃薬片手に振り返った。驚いたような顔でこちらを見ている。 「いらなかったの?夜食」 そんな事、わかりきった上での嫌味なくせに、心底驚いたようなしらじらしい言い方に、俺はさらにイラッときた。 「当たり前だろ。飲んで飯喰って帰ってきてんのに、普通夜食なんて喰うかよ。置いてあるから喰ってんだよ。おかげで朝は毎日胸焼けだ。どうでもいいけど、早く胃薬」 ──言ってしまった。ついに。 週四で飲んで帰っては、物言わぬ嫌味として地雷が用意されている。俺も、物言わぬ意地でそれを片付ける。そうして静かに続いてきた冷戦だったが、ついに言ってしまった。 依佐子はどう出るだろう。 出方によっては、実家に帰るのは依佐子と健司だけ、なんて事にもなりかねないな。だがそれでもいい。望む所だ。 俺は俺で、盆休みを満喫できるってもんだ。 依佐子は、まだ驚いたような、無表情なような、なんともいえない顔で俺を見ていた。 だが少し間を置いて、台所に向き直り、コップに水を入れ、胃薬を一つちぎって俺の前に静かに置いた。 そしてそのまま何も言わず台所に戻り、何食わぬ顔で俺に背を向け、洗い物を始めた。 なんだよ、無言かよ。 本当、何を考えてるのか、最近の依佐子はまったくわからない。 俺はホッとしたような、拍子抜けしたような、複雑な気分で胃薬と水を飲み干した。 ふと、視線を感じてソファーの方に目をやると、さっきまで、持って行くなと言われたにもかかわらず、長い網と短い網を見比べて迷っていた健司が、じっとこちらを見ている。 なんとなく、咎めるような、うらめしそうな顔つきだ。 ママをいじめているとでも思われたのだろうか。本当はその逆なのに。いじめられているのは、いつも俺のほうだ。 俺はまだ寝起きでぼーっとした頭で、にっこりと愛想笑いを作った。 すると健司はプイッと下を向き、網を二本持って、依佐子のいる台所に走っていった。 可愛げのないところは依佐子似かもしれない。 胃薬のおかげで、俺はなんとか四時間の運転に耐え、無事依佐子の実家、コンビニもなんにもない、あるのは田んぼと森とかやぶき屋根の家々だけの、「時雨村」に到着した。 村の入り口には、「ようこそ、時雨村へ」と書かれた、木でできた看板が立っている。それも雨風で風化して、木はボロボロに腐って傷み、字は消えかかっている。一見、お化け屋敷の入り口のようだ。 村を一歩入ると、車窓には田園風景が広がる。緑一色だ。今日もイヤというほど晴天で、蝉の合唱もあいかわらずだ。 車内はクーラーが効いていて、ガンガンに音楽をかけているから外の喧騒は届かないものの、フロントガラスごしに見える風景は、今にも熱気でゆがんでしまいそうだった。 「うわぁ~!田んぼがあるよ!きっと蛙いるぞ!」 健司が弾んだ声で言い、窓を開けようとスイッチを押した。窓は開かない。あれ~、といいながら何度もカチャカチャとスイッチを押す健司。チャイルドロックしてあるので、俺が開けないと窓は開かない。 「ダメだぞ健司。開けたらクーラー効かなくなるだろ。田んぼなんてこれから一週間いつでも見れるよ」 俺がいさめると、健司は不服そうに眉をしかめて窓に張り付いていたが、すぐにそわそわと運転席に身を乗り出した。 「蛙も捕まえられる!?」 「ああ、ウシガエルも居るんじゃないか」 それを聞くと健司はすぐに機嫌を良くして、また窓に張り付いた。田んぼやウシガエルの何がそんなに子供心をくすぐるのか、俺にはわからない。 俺も昔はそうだったのだろうか。もう忘れてしまった。 村の入り口からあぜ道を十分程走ると、古くて大きな家が見えてきた。 依佐子の実家だ。 依佐子の家は、かろうじてかやぶき屋根ではないものの、灰色がかった紺色の瓦は所々割れて、広い庭には雑草なのか育ててるのかわからない緑が生茂って、口が裂けても言えないが、初めて見た時は本当にオバケ屋敷みたいだと思った。 でもどことなくどっしりとしていて、建てつけもきちんとしている丈夫そうな家だ。もし地震がきても、都会の一軒家のようにペチャンコになったりしないんじゃないだろうか。 家の前に車を停めると、健司が一番にドアを開けて走り出た。 「おじいちゃん!」 家の門の前まで出迎えに来ていたお義父さんに、健司がガバッと抱きついた。健司はお義父さんにとてもよくなついている。俺の両親にももちろんなついてはいるが、いつも久々に会うせいなのか、それとも田舎に来るのが嬉しいのか、お義父さんに会う時の方がテンションが高いように見える。 「こぉら!健司、おじいちゃんにちゃんとご挨拶は?」 次に車を降りた依佐子がそう言うと、健司はお義父さんからぴょんっと体を離して、大げさにきおつけして言った。 「おじいちゃん、こんにちは!!」 義父はしわしわの顔をもっとしわくちゃにして、健司の頭をなでた。 「はい、こんにちは。健司はいい子じゃ。ほら暑いから、中入って昼飯にしようなぁ。スイカもあるぞ」 「スイカ!」 健司はスイカスイカと連呼しながら、家の中へ走っていった。俺はトランクから荷物と手土産のお菓子を取り出して、門の前で何か話している依佐子と義父の元へ向かった。 フロントガラス越しだった田舎の熱気を全身に受け、一瞬で体中の毛穴という毛穴全部から汗が噴き出す。正午過ぎ、暑さはピークで、蝉は耳の中で鳴いてるんじゃないかと思うくらいの大合唱だ。 吐きそう。これだから田舎なんて嫌いだ。部長の奴、冗談じゃなくて本気で盆休み返上を言い渡してくれればよかったのに。 「ご無沙汰してます、お義父さん。お元気そうですね。これ、つまらない物ですが」 心とは裏腹に、俺はにっこりと笑顔をつくって手土産を差し出した。愛想笑いは、毎日の営業と部長のオヤジギャグのせいで手馴れたもんだ。 「おお、気ぃ使わんと。よく来てくれたなぁ、今回はゆっくりできるみたいじゃし、彰君も体休めて行きなさい。さ、入って。今日も暑いねぇ」 お義父さんは、両サイドにわずかに白髪の残ったツルツルの頭を、肩にかけているくたびれたタオルでサッとぬぐった。 俺は田舎は嫌いだが、お義父さんの事は別に嫌いではない。 相手に気を使わせない、自分も気を使いすぎない独特のペースは、田舎のお年寄りの特徴なのだろうか。 心に敷居がないというか、悪く言えば少し図々しいのだが、慣れてしまうとわりと心地いい。 だからといって田舎が退屈なことに変わりはなく、俺はこれから一週間の田舎生活を想像し、聞こえない程度に小さく溜息をこぼした。 「こんなもんしかないけどなぁ。なんせ男独りじゃから、勘弁してくれなぁ」 お義父さんはそう言いながら、よく冷えた素麺と夏野菜の炒め物、トマトサラダを次々とテーブルに並べた。 「そーめん!そーめん!」 すっかりテンションが上がったままの健司が、テーブルの上に身をのりだす。すかさず依佐子がいさめる。 「たーけーし!お行儀良くしないとダメでしょ?ちゃんといただきますしなさい」 健司はいたずらっぽく笑って、パチンと両手を合わせ、おおげさに大きい声でいただきます、と言って箸を取った。 「たくさんおあがり。ほら、依佐子も彰君もお食べ。長旅で疲れたろじゃろう」 お義父さんに勧められて、俺も依佐子も箸を取った。まだ若干胃もたれの残る俺の腹に、冷たい素麺は心地よく入っていった。 お義父さんは独りが長いせいだろう、そこらの女よりよっぽど料理もうまい。うちの親父なんて、きっと茶の入れ方も知らないんじゃないかと思うくらい、お袋が全部身の周りの事をするのが当たり前だった。 子供の頃の俺の親父の印象といえば、いつもリビングのソファーで新聞を読んでいる後姿くらいだ。 色んな意味で、依佐子の父親とは正反対の人だった。 健司はあっという間に昼飯を食べ終わり、食後のスイカも二切れペロリと食べた。 「おい、あんなに喰って大丈夫なのか?腹壊すんじゃねーの?」 ちょっと心配になって聞いた俺に、依佐子がふふ、と笑って答えた。 「健司ももう小学生よ。男の子だし、最近はよく食べるの。あれくらい毎日食べてるわよ?彰、近頃健司と一緒にご飯食べる事少ないから、知らないだけよ」 ──不覚だ。また嫌味を言うチャンスを自ら与えてしまった。何もこんな所でまで、冷戦を続けなくたっていいのに。 俺はちらりと横目でお義父さんを見た。お義父さんは、皿に向かってスイカの種をピュッと吐いて、また一口、スイカにかぶりついた。こちらの会話を気にしている様子はない。 「でも」 依佐子が続けた。 「この一週間は久しぶりに家族皆で、一緒に過ごせるわね」 依佐子は一瞬、俺の顔をちらりと見て、テーブルに目を落とし、ふふ、とまた笑った。そして食べ終わったスイカの皮が入った皿を持って、そそくさと立ち上がり、台所へ消えていった。 ──なんだろう。あの意味ありげな笑いは。 俺はなぜか、依佐子のさっきの笑顔が気になった。何かを企んでいるのだろうか。それとも、ただのいつもの嫌味だろうか。 お義父さんは、黙々とスイカを食べている。 この一週間、一体どうなるのだろう。 俺は漠然とした不安と倦怠感を感じていた。 その日は昼飯の後、健司にしつこく虫捕りに行こうとせがまれたが、お義父さんのはからいで、俺は炎天下での苦行を免れる事ができた。と言っても、明日に見送られただけだが。 「なぁ父ちゃんってば!蛙捕りに行こうぜ!カエル!!」 昼飯を食べたばかりだというのに騒ぎ出した健司に、俺が後にしてくれと頼む前に、お義父さんが口を出した。 「健司や、お父さんもお母さんも今日は疲れとるからなぁ。虫捕りなら、おじいちゃんと庭でしよう。庭には無花果の木もあるからな、蝉もおるし、無花果ももう食べれるぞ」 「ほんと!?蛙は?蛙もいる?」 健司の目がみるみる輝いた。 「蛙はどうかなぁ。蛙は池や田んぼにいっぱいおるから、明日お父さんに連れてってもらえばええよ。今日は蝉を捕ろう。とんぼもおるかもなぁ、オニヤンマとか」 「オニヤンマ!!」 都会ではほとんど見る事のない大物の名を耳にして、健司はお義父さんの手をひっぱって炎天下の庭へと降りていった。だがまた走って居間へ戻ってきて、かん高い声で言った。 「父ちゃん!明日は絶対蛙捕りに行こうな!一緒に!」 「…わかったよ、約束だ」 こりゃ、明日ばかりは逃れることはできなさそうだ。 俺は畳の上にゴロンと横になって、庭のほうを眺めた。この家は居間の横が縁側で、すぐ庭になっている。縁側がある分、部屋は少し奥まっているので、部屋の中まで直射日光は届かないものの、丸開けの障子の外からは、真夏の熱気が充分に伝わってくる。 部屋には、古い扇風機が一台、首を振っているだけだ。クーラーも一応設置されているが、長年使われた形跡はなさそうだ。勝手につけるわけにもいかないし、そもそもつけたところで、このだだっ広い家に丸開けの障子じゃ、まさに焼け石に水だ。 庭でお義父さんと健司が、網を持って立っている。お義父さんが左のほうを指差し、そっちの方へ健司が走っていく。 あまり俺ばかりダラダラとくつろぐわけにはいかない。少し食休みしたら、お義父さんと代わろう。 ぼんやりと、二人の姿が熱気でゆがんでいるような気がする。健司のはしゃぐ声が、遠くのほうで聞こえる。額から汗がにじみ出てきた。 まぶしい。遮光カーテンが欲しい。俺の部屋にある、黒の、朝の光をまったく侵入させない、あの鉄壁のカーテンが恋しい。 毎朝の蝉の声も、ここの蝉に比べれば優しいささやきのようなもんだ。本当に俺の耳の中に、蝉が住みついているのかもしれない。 蝉の声、健司の声、古い扇風機が首を振る音、遠くで依佐子が洗い物をしているカチャカチャという音、音、音、音音音音……… ぬるい風がふわっと通り抜け、俺はふと目を開いた。 ぼんやりと、オレンジがかった風景が目に入る。 木、緑、花……夕日。 夕日? しまった!! 俺はガバッと勢いよく飛び起きた。眠ってしまったのだ。 どれくらい!? 部屋を見回すと、壁にかかった古臭い時計の針が、六を指していた。もう六時過ぎ。なんてこった。 昼飯を食べて、スイカ食べて……健司とお義父さんが虫捕りをしていて、俺はちょっとだけ横になろうと思って……四時間以上眠ってしまったのだ。 俺の体には依佐子なのかお義父さんなのか、タオルケットがかけられていた。 庭にはすでに健司とお義父さんの姿はない。 ふと、遠くのほうで、依佐子と健司のかん高い笑い声が聞こえた。台所のほうだ。 七年前、依佐子の実家、つまりこの家に挨拶に来て初めて知ったが、昔の家っていうのは、台所が母屋とは別に、外にある。外といってももちろん母屋とつながっていて、屋根もあるし小屋のような感じだが、居間から台所に入る時は、台所専用のつっかけを履いて入るし、外から直接靴で入ることも出来る。 東京で生まれ育った俺は、初めてこの台所を目にした時は衝撃だった。半分外みたいなもんだから、ムカデや蝿なんて当たり前のように入ってくるし、見た事もない大きさのゴキブリが壁を這っていたりする。こんな所で料理したものを食べるのか…とぞっとしたが、もちろんそれは口には出さなかった。 俺は子供の頃からマンション住まいで、母さんは潔癖でいつも家の中は整理整頓されていたし、無駄な物は一切ない、シンプルな室内だった。 もちろん台所もピカピカで、ゴキブリなんて三年に一度でるかでないかというくらいだった。 本当に、なにもかもが正反対なのだ、依佐子と俺は。 育った環境も、両親の性格も、俺たち二人の性格も、だ。 なぜ、俺は依佐子と結婚したんだろう。 俺は重い脚をひきずって、立ち上がった。「よいしょ」と言い放った自分に、年を感じる。 俺が寝ていた居間と台所の間には、くたびれた暖簾が掛かっている。おそらく元々は薄いピンク色だったのだろうか、今となっては何かのシミやら黄ばみやらで薄茶色になっている。汚い。一体いつから使っているんだろう。新しいのに変えればいいのに。 俺は両手の人差し指だけを使って、二枚の暖簾を左右に少し開いた。 「なつかしいな~美枝子さん。元気にしてるんだねぇ。昔よくお惣菜おすそわけしてくれたもんねぇ」 「ああ元気にしとるよぉ。元気すぎるくらいだわ。あれでもう八十じゃからなぁ。依佐が帰ってくるゆうたら、大量に野菜やら惣菜やらくれてなぁ」 依佐子とお義父さんが何やら話しながら、夕飯の支度をしている。“みえこさん”とはたぶん、ご近所さんか誰かだろう。 依佐子は、まな板の上で野菜を切りながら続けた。 「一回美枝子さんとこにも顔出さなきゃね。あ、美枝子さんまだ“もちより”作ってるよね?買って帰りたいのよ、彰の実家に」 お義父さんは、おたまで鍋の中をくるりとひと混ぜして、横においてあったしょうゆを目分量で回しいれた。 「作っとるよ、あれは人気じゃからなぁ。おばはん連中が井戸端会議する時にゃ、欠かせんもんじゃ」 そういいながらお義父さんは、鍋の中身を少し小皿にすくって、味見した。 「あ!俺も!俺も!!」 下のほうから健司の声がして、お義父さんの方に伸ばした手だけがひょっこり見えた。 俺と依佐子達の間には、鍋やフライパンなんかの調理器具が入っているであろう、ステンレスの水屋があり、その高さは大人の腰のあたりだが、その上には食料やら何かの空き瓶やらが所狭しと積まれていて、俺からでは健司が視界に入らなかった。 「あっつう~!!」 お義父さんに味見をさせてもらった健司が叫んだ。 「だぁから言ったでしょ~!フーフーしなさいって!」 「すまんすまん、熱かったか~」 アハハ、とお義父さんが笑って、依佐子も笑った。健司も笑っているようだ。 こんな風に依佐子が穏やかに話しているのを見るのは、久々な気がする。食料や調理器具から、長年使っていないような物まで、乱雑に置かれた埃っぽい台所。どこから虫が出てきてもおかしくない、古めかしく清潔とは言えない台所で、三人はとても楽しそうだった。味噌汁のような暖かい匂いが、辺りを包んでいる。 俺が声をかけるタイミングをすっかり失って立ちすくんでいると、何かの拍子に依佐子がくるりと振り返った。 「あら、パパ起きたの?」 「おお、彰君、よう寝とったのぉ」 お義父さんも振り返って、にっこり笑った。 俺は嫁の実家に帰ってきて早々、孫を預けて四時間も眠ってしまったのはさすがにまずかったと思い、ちょっと焦った。 「すいません、お義父さん。その、気がついたら眠ってしまってて、すいません。あ、僕も何か手伝います!」 台所に降りようとした俺を、お義父さんはまたにっこり笑って制した。 「いやいや、ええよええよ、もう出来るから、居間で待っといたらええ。長旅じゃったしなぁ、気ぃ使わんと、ボーッとしとったらええんじゃ」 「いや、でも…」 困っている俺の言葉を、今度は依佐子が遮った。 「いいのよ、パパ。ほんとにもう出来るから待ってて。昨日まで仕事で、今日も朝から運転しっぱなしだったんだから、今日くらいゆっくりしてていいのよ」 依佐子は笑顔だ。 ──なんだろう。昨晩も飲んで帰りが遅くなったことに対する嫌味だろうか。それとも、お義父さんの前だからかもしれない。いつもの依佐子ならこういう時、「遅くまで飲んで帰るから眠くなるのよ!」なんて言ってもよさそうなのに。 ふと依佐子が、急に料理の手を止めてこっちへ歩いてきた。そしてスッと手を伸ばして、俺の頬に触れた。 俺はぎょっとして、思わず一瞬固まった。 「彰」 「え?何?」 「畳の跡、くっきりよ」 ふっ、と依佐子が笑った。 「顔洗ってきたら?スッキリするわよ」 そう言うと依佐子は洗い場のほうへ戻り、切った野菜を皿に盛り始めた。しつこく味見をねだる健司の口に、依佐子がキュウリを一切れくわえさせて、またふふ、と笑った。 ──どうしたというのだろう。やけに上機嫌だ。やっぱり、田舎に帰ってきてお義父さんに会えたし、家事からも解放されたせいだろうか。 それとも、何か考えがあるのだろうか。 女も男も、急に態度が優しくなったりする時は、何か隠しているか、何かを決意した時だと聞いたことがある。 依佐子は何か考えているのだろうか。そしてそれを、お義父さんも知っているのかもしれない。 お義父さんは相変わらずにっこり笑って、味噌汁をお椀に注いでいる。 俺は、言われたとおり顔を洗いに行く事にした。 空気の生ぬるい洗面所で、蛇口から出る冷水に手を当てる。田舎の水は都会の水より、数段冷たい気がする。キンキンに冷えた水を何度か顔に浴びると、少し頭がすっきりしてきた。 でも、頭にかかったモヤのような、漠然とした不穏な気分は晴れないままだ。 依佐子が変だ。 こっちに来てから、いや、今日の朝、毎日の夜食の事で俺が文句を言った時あたりから変だった。いつもの依佐子なら、俺があんな事を言おうものなら、あのかん高い早口で鬼のように言い返してくるはずだ。なのに無言だった。こっちに来てからも、妙に機嫌がいいというか、ニコニコとして寛大な態度をとる。お義父さんの前だからかというならわかる気もするが、それなら今朝の事は説明がつかない。 やはり何か、思うところがあるのか。 一体何を考えているというのだろう。 「パパー!ご飯よ~!」 居間のほうから、依佐子の上機嫌な声。 居間に戻ると、テーブルの上にはおいしそうに焼き目のついた青魚と、野菜のお浸し、汁よりも具のほうが多い味噌汁、他にもお惣菜が何品も、所狭しと並んでいた。 食欲をそそる匂いが、部屋を包む。健司はすでにテーブルの前にちょこんと正座して、待ちきれない様子だ。 「ささ、彰君も座って。飯にしよう」 漬物を運んできたお義父さんも、健司の隣に座った。 「すいません、お義父さん、本当に何も手伝えなくて…」 俺が申し訳なさそうに健司の向かいに座ると、お義父さんはまたにっこり笑って言った。 「何言うとるんじゃ。わしは彰君たちが来てくれるだけで嬉しいんじゃよ。今日はウマイ酒が飲めそうじゃ」 そのお義父さんの笑顔が、本当に、心底嬉しそうな優しい笑顔だったから、俺はお義父さんが寂しいのかもしれない、と思った。 こんな田舎の大きな家に、たった一人で住んでいるのだ。食事だっていつも一人。 もう少し、こっちの家にも健司を連れてくる頻度を増やしてもいいか。俺は初めてそう思った。 まぁ俺が来れなくても、依佐子と二人で里帰りしてもらっても俺は全然構わない。むしろそうして欲しいくらいだ。そうすれば、朝っぱらからかん高い二人の声で起こされずに済むし、夜中に地雷を片付けて胃薬を飲むこともない。 それに俺は、お義父さんは好きだが田舎はやっぱり嫌いだ。 台所の電気を消して依佐子が居間にあがり、俺の横に座ると、早い夕食が始まった。 まだ六時半。いつもならまだ会社にいる時間だ。 「まぁまぁ、一杯」 お義父さんが瓶ビールを手にし、俺はすいません、と言ってグラスを傾けた。俺もお義父さんのグラスに注ぎ返すと、依佐子が自分のグラスを俺の前に差し出した。 「私も少し、飲もうかな」 俺は一瞬手を止めたが、ああ、と言って依佐子のグラスにビールを注いだ。 依佐子はめったにビールは飲まない。飲めないわけではないのだろうが、どちらかというと甘いチューハイやカクテルが好きで、たしか結婚前飲みに行った時なんかも、「私、ビールは苦手なの」と言っていつも梅酒を飲んでいた。 「かんぱーい」 依佐子がグラスを持ち上げると、お義父さんと、オレンジジュースの入ったコップを持った健司が、カチンとグラスを合わせた。俺もグラスを少し上げた。 グイッと、琥珀色の液体を一番に飲み干したのは、依佐子だった。それからは終始上機嫌で、四人の食卓は笑い声に満ちていた。 「それでさぁ、その時、大志君がみさとちゃんの髪の毛をひっぱって泣かしちゃったんだ。でもあとで先生に怒られて、大志君も泣いちゃったんだ!」 健司が学校での他愛ない話をすると、お義父さんは本当に楽しそうに、そうか、そうか、と目を細めた。依佐子も上機嫌で相槌を打つ。 「守明君は遠くへお引越ししちゃったんだよね。おじいちゃんちに居る間に、お手紙書いてあげたら?」 「うん!守明は泣き虫だから、寂しくないように俺いっぱい手紙書いてやるんだ!」 「そうかそうか、健司はええ子じゃのぉ」 ──なごやかな時間。夕方の六時半から家族で食卓を囲むなんて、どれくらいぶりだろう。テーブルには温かい出来立てのご飯が並び、皆笑って、他愛もないことを話す。 健司はこんなによくしゃべっただろうか。ここぞとばかりに、学校で褒められた話や、駒回しができるようになった話なんかを嬉々として話している。 久しぶりに会うおじいちゃんだから、嬉しくて仕方がないのだろう。 依佐子はすでに三杯目のビールに口をつけている。お義父さんは、ずっとにこにこ目を細めている。七時半。いつもなら、そろそろ榎と一緒に会社を出る頃だろうか。 「彰君、ほれ、もっと飲まんか」 お義父さんが瓶ビールを手に、俺のグラスを促す。 「そうよぉ、ザルのくせに、遠慮しちゃって。私ももう一杯飲もうかなぁ」 上機嫌な依佐子を、お義父さんが軽くいさめる。 「お前はちょっと飲みすぎなんとちがうか?そこそこにしとかんと、気分悪ぅなっても知らんぞ」 依佐子は、はぁい!と大げさにかしこまって、笑った。健司も笑った。 健司はやっぱり、依佐子似かもしれない。 俺はなんだか、『幸せな家族』という題名がついた絵の中に、何かの間違いで迷い込んだ、たった一人の現実の人間になったような気分だった。 自分ひとりだけが、確実に違う空気で仕切られているような気がする。目の前の温かいご飯も、魚の焼き目も、子供の他愛ない話し声も、大人たちの笑い声も、すべてが紙に描いた絵のようにニセモノっぽかった。 「ほら健司、蚊が入るから下ろして」 「はぁい」 健司は蚊帳の入り口をパサッと下ろした。 蚊帳なんてものが現代に存在して、しかも今でも実際に使っている家があるなんて、これも俺は依佐子の実家に初めて泊まった時に、初めて知った。 本当にこの家は、この村は、どこかの時代からタイムスリップしてきたんじゃないかと思う。 健司は、おじいちゃんの家でしか観れない蚊帳に大興奮のようだ。 「秘密基地みたいだな!そうだ!守明の手紙に、“かや”の事書こう!きっとすげぇって言うぞ!」 そう言って、内側から蚊帳の網にキックをお見舞いして、バタバタと走り回った。 「たーけーし!埃がたつからやめなさい。ほら、早く布団に入って。もう十時よ」 そう、まだ十時なのだ。 いつもなら、まだ榎と参丁目でおちょこを傾けている時間だ。耳にタコが出来るくらい聞かされている、榎の理想の女像の話しをしながら、おかみさんが関西弁で言う。 “榎さんがお嫁さん貰うのは、まだまだ先になりそうやねぇ” 大将のうまい料理と酒が、どんどん運ばれてくる。まわりでは他のお客達、主に会社帰りのサラリーマン達が、わいわいがやがや、愚痴だの金の話しだの、似たような会話を繰り広げる。 リー、リー、リー、 蚊帳越しに見える庭はすっかり暗くなって、騒がしい蝉の声は、涼やかな虫の声に変わっていた。涼やかとは言っても、その数がはんぱではないのだろう、蛙の鳴き声も混ざって結構な騒音だが、昼間の蝉どもよりはまだマシだ。 周りに明かりがないせいか、一番庭寄りの布団に寝ている俺は、月明かりがまぶしいくらいだった。 「おやすみ、父ちゃん、母ちゃん!」 真ん中の布団に入った健司が、元気よく言った。こりゃ、興奮してなかなか寝付きそうにない。 「おやすみ、健司」 「おやすみ」 俺と依佐子は同時に言って、それから依佐子は俺のほうを向いて、もう一度言った。 「おやすみ」 「ああ、おう」 俺は我ながらぶっきらぼうに答えた。こんな風に家族三人そろって、“おやすみ”を言い合ってから寝るなんて、久しぶりだった。 依佐子とは今でも同じ寝室で寝ている。前は健司と三人で寝ていたが、健司が小学校に上がってから、急に一人で寝たいと言い出した。おそらく同級生の男の子か誰かに、まだ親と寝てるのか、なんてからかわれでもしたのだろう。 そういうわけで、今は依佐子と二人だ。生活時間も違うし、夫婦生活だって、今となってはそんなにしょっちゅうあるわけでもないし、むしろ寝室は別のほうが俺は気を使わなくていいと思う。 だが特に依佐子からそういった提案もないので、一応そのままになっている。 でもどのみちベッドは二台あるし、俺が毎日遅いから依佐子も健司も先に眠っているし、こんな風に“おやすみ”と言い合って同時に寝ることなんてほとんどなかった。 俺はなんだか、こそばゆいような違和感を感じて、二人に背を向け、庭のほうに目をやった。 縁側に置かれた蚊取り線香が、ゆらりと煙を昇らせている。まだ十時だというのに、聴こえるのは虫の声だけだ。東京なら、何時になっても人の声や街の音が、どこからともなく聴こえてくるもんだ。ここに居ると、生きて息をしている人間は自分達だけなんじゃないかと思えてくる。 榎は今日も、参丁目に行っているだろうか。それとも盆休みくらい、田舎に帰るかもしれない。たしか実家は宮崎だと言っていた気がする。 そんな事をぼんやり考えているうちに、隣からスースーと寝息が聞こえてきた。振り向くと、ついさっきまで興奮して跳ね回っていた健司が、もう気持ち良さそうに眠っていた。 口を少し開けて、柔らかく目を閉じている。ふっくらとした頬は、夏の日差しのせいで健康的に焼けていた。 こうして健司の寝顔を見るのも、久々な気がした。 ちらっと依佐子のほうをみると、依佐子は仰向けで、胸の上で手を重ねて眠っていた。 二人はいつも、こんな時間に眠るのだろうか。 俺は最近、ネットゲームにハマッていて、飲まずにまっすぐ帰った日でも居間にノートパソコンを持ち込んで、遅くまでゲームをしている事が多い。 依佐子には仕事の残りだと言えば、邪魔される心配もない。だから早くても深夜一時以降にベッドに入るのが癖になっている俺は、十時に布団に入っても到底眠れる気がしなかった。しかも今日は、昼寝までしてしまったのだ。 これからこんな日が一週間も続くのか…。 俺はうんざりしながら、庭のほうへ目を戻した。 依佐子の様子がおかしいのも気になる。 もしかして、本当に何か隠してるんじゃないだろうか。嫌味ばかり言っていた女が急に優しくなる理由──。 なにかやましい事があるとか。 ──浮気? 想像してみたが、浮気している依佐子のイメージがどうもしっくりこなかった。依佐子は人当たりが良いから、昔からよくモテるほうだが、どちらかというと奥手でまじめな性格だった。恋愛に限らず正義感が強い依佐子は、常に“正しいこと”を選択し、主張したがるところがある。悪く言えば、頭が堅いのだ。 夫も子供もいるのに浮気をする自分を、許せるタイプではないだろう。 浮気じゃないとなると、そうだな、前々から薄々は感じていた。 一年ほど前から、俺と依佐子はどことなくすれ違っている。依佐子が嫌味っぽくなり、俺は家に帰るのがおっくうになり、遅く帰る日が増えた。日に日に嫌味っぽさが増す依佐子に、言い返しても疲れるだけだと悟った俺は、言葉数も減っていった。 なぜこんな事になったのかはわからないが、こんな状態がもう一年も続いているのだ。 考えることは一つ。 ──離婚。 依佐子はもしかしたら、この里帰りを最後に、離婚を考えているのかもしれない。だから最後くらいは健司のためにと思って、妙に優しく、楽しく過ごしているんじゃないだろうか。 上機嫌なのは、何かがふっきれたから。そう考えると、一番自然な気がした。 俺は月明かりに照らされた庭を、ぼぉっと眺めた。 ──依佐子が何を考えているのか知らないが、望むところだ。 俺だってまだ三十一だし、いくらでもやり直しはきく。依佐子が、幼い健司の事も考えずに離婚を言い出すような自分勝手な女なら、そんな女にすがるほど俺は女に飢えてない。俺だって、独身の時はこれでも結構モテたんだ。 今まで七年間、浮気の一つもせずに毎日働いて、いい夫、いい父親としてやってきたのに、最近の依佐子の態度はなんだ。 離婚。 そう、望むところだ。俺は一歩も、引く気はない。 「あきら」 急に名前を呼ばれて、俺は一瞬息が止まった。 暗闇の静けさを割ったその声もまた、静かな、でも強い声だった。なにか決意を含むような。 俺はなぜか固まった。依佐子が体をこっちに向けたのだろうか、布団が動く音がした。 俺は依佐子に背を向けたまま、目を閉じて動かなかった。背後で、健司の寝息が聞こえる。その向こうから、依佐子の視線を感じる。 よし、振り向こう。 依佐子が何を言おうとしているにせよ、はっきり話をつけてやる。俺だって、こんな生活が続くのはごめんだ。 ──だが、健司のこともある。世間の目もあるし、そう簡単に決められることでもない。少し考えれば、依佐子だって冷静になるだろう。…こんな話し、面倒なだけだ。 「彰?寝たの…?」 もう一度、依佐子の声が闇に響いた。俺は言葉を返さず、ただ背を向けたまま目を閉じていた。 沈黙が流れる。 虫の声と、健司の寝息だけが一定のリズムで漂っている。 パサッ、と、布団の動く音がして、依佐子が起き上がった気配がした。俺は反射的に息を止めた。古い畳がキシ、キシ、と軋む音がして、俺の頭上を依佐子が通り過ぎていく。蚊帳をめくって、依佐子は外に出たようだ。縁側の古板が、ギシ、と音を立てた。トイレだろうか。 少ししてからそぉっと薄目をあけると、蚊帳越しに、縁側に座っている依佐子の後姿が目に入った。 月を眺めているのか、いや、頭の角度はまっすぐ前か、むしろ少し下がり気味なくらいだ。 何か、考えているのだろうか。 妙に明るい月明かりが、元々華奢な依佐子の体の輪郭をぼかして、その後姿は今にも消えそうに見えた。蚊取り線香の煙が、ゆらりと不規則に漂う。 そうだ、俺は昔から線の細い、華奢な女が好みだった。 だからあのコンパで、依佐子を選んだんだっけ?よく覚えていない。でも俺は昔、あの細い肩を後ろから抱きしめるのが好きだった。依佐子の細い体を後ろから包むと、依佐子は嬉しそうに、ふふ、と笑ったものだ。 俺は、蚊帳に手をかけた。少しめくる。遮るものが無くなって、依佐子の姿がより鮮明に目に入ってきた。 華奢な背中に、ゆるいウェーブのかかった薄茶色の長い髪が、ふわりとかかっている。依佐子はただじっと座っていた。 何を考えているのだろう。 やはり、気のせいというわけではなさそうだ。依佐子は何かを考えるために、もしくは何らかの決意を胸に、今回の里帰りを決行したのだ。 そう思うと、さっきまで寂しそうにもみえた華奢な背中が、妙に凛とした、強い意思を持った後姿にみえた。 俺はそっと蚊帳を下ろし、そのまま目を閉じた。 ミーンミンミンミンミー……… うるさい。しかも、暑い。なんだ?クーラーの故障か…?それにしても、まぶしい。 俺は、不快感で目を覚ました。ギラギラとまぶしい朝日が、蚊帳越しに照りつける。 そうか…、依佐子の実家に来ていたんだっけ。 俺は汗でしっとりと濡れた体を起こした。隣でまだ眠っている健司の額も、汗で濡れている。すでに依佐子の姿はそこになく、布団は綺麗にたたまれていた。 蚊帳をめくって外に出ると、部屋の時計は七を指していた。 まだ朝の七時か…。田舎の人が早起きな理由がわかる気がする。夜は起きていてもやることがないし、朝はこの不快感だ。きっと冬の朝は、死ぬほど寒いんだろう。 でも昨日久々にたっぷり眠ったせいか、体はいつもよりすっきりしている気がした。 居間へ行くと、何かが焼けるいい匂いが漂ってきた。台所から、依佐子とお義父さんの話し声が聞こえる。 「おはようございます」 薄汚れたピンクの暖簾を捲って声をかけると、二人とも笑顔で振り向いた。 「あら、おはよう、彰」 「おお、早いなぁ彰君。もっとゆっくり寝とってええのに」 「いえ、充分眠りましたから。昨日は昼寝までしてしまったし…」 俺が少しバツ悪そうに笑うと、お義父さんと依佐子がアハハ、と声を出して笑った。 「父ちゃん!今日は蛙捕りにいくぞ!!」 いつのまにか起きてきた健司が、後ろから飛びついてきた。 「わかってるって。とにかく、まずは朝飯な」 「うん!」 ──やっぱり今日は逃げられないな。 俺は観念して、庭のほうを見た。朝だっていうのに、視界がゆがむくらいの熱気に、頭が割れそうな蝉の声…。 この中に駆り出されるのか。考えただけでもゾッとした。 依佐子がテーブルに朝食を運び出す。今日は俺も少しは手伝わねばと、お義父さんから味噌汁を受け取った。 いい匂いだ。朝食をいい匂いと感じるのは久しぶりだ。やはり深夜の地雷がないと、朝の爽快感が違う。 今日も四人の食卓は、やはり他愛ない会話に笑い声の耐えない、絵に描いたような時間だった。 田舎の生活とはこんなものなのだろうか。朝起きて朝飯を食べて、昼まで子供達と遊んで、昼飯食べて、テレビ(しかもたいして面白い番組もない)を観て、夕飯食べて、風呂に入って寝る。そのくりかえし。 俺にはとても耐えられそうにない。一週間で限界だ。 今日もまた、退屈な田舎の一日が始まる。 俺は小さくため息をもらした。 朝食を食べ終わると、健司はさっそく飛びついてきた。 「行こ!父ちゃん!俺、長い方の網持ってくよ!遠くの蛙も捕れるように!」 健司は結局、長い網と短い網、両方車に積んできたようだ。 俺が観念して立ち上がろうとすると、依佐子が健司の腕をつかんだ。 「こーら、健司。お約束は?おじいちゃんち来る前にしたよね?ゆびきり」 依佐子が念を押すように健司の顔を覗き込むと、健司はちょっと口をとがらせて、でもすぐに俺のほうに向き直った。 「終わったら出発な!待ってて父ちゃん!」 そしてドタドタと寝室のほうへ走っていった。 「約束って?」 俺がきくと、依佐子が麦茶を注ぎながら答えた。 「宿題よ。まだ一年生だから少ないけど、一応夏休みの宿題があるの。マ一に少しずつ宿題をして、遊びはその後って約束なの」 なるほど。じゃあ俺も少しはゆっくり出来るってことか。 「おっ」 お義父さんが冷蔵庫をのぞいて、すっとんきょうな声を出した。 「どうしたの?お父さん」 「いやぁ、しまった。今日の昼は天ザルにしよう思ってたんじゃが、卵がないわぁ。買いに行かないかんのぉ」 「ああ、それなら」 依佐子が俺のほうを振り返った。いやな予感がする。 「彰に行ってもらえばいいわ。すぐそこだし、わかるでしょ?来る時通ってきたお店。卵一パック買ってきてくれる?ここは私達が片付けるから」 俺が台所に運ぼうとしていた食器を、依佐子が手から奪った。 いやな予感、的中──。 「ええんかのぉ、悪いねぇ」 お義父さんにそう言われたら、もう俺に選択肢はない。 「いえいえ、いいんですよ。散歩がてら行ってきます」 くどいようだが、営業用スマイルは慣れっこだ。 まだ朝の八時半─。俺はお義父さんのサンダルを借りて履き、家を出た。暑い。一気に体中から汗が噴き出す。足元には、自分の影がくっきりと映っている。まるでフライパンで直接焼かれているように、服から出てる部分がじりじりと熱かった。 たしか、店は左にまっすぐだったな…。 どこまでも続く一本道は、遠くのほうが熱気でぼんやりとしている。だらだらと重い足を進めても、周りの風景は延々と田んぼと緑だ。 「あら、おはよう。あんた、依佐ちゃんのダンナさんじゃないの?」 急に声をかけられて辺りを見回すと、田んぼの真ん中に見知らぬおばさんが一人、立っていた。 「あ、はい、そうですけど…」 「やっぱりねぇ!見たことない顔だから、そうだと思って。今依佐ちゃん帰ってきてるって、美枝子さん言ってたからねぇ、あ、私依佐ちゃんちの近所に住んどってね、依佐ちゃんのことは小さい頃からよう知っとるのよ~」 麦わら帽子をかぶって首からタオルを下げたそのおばさんは、機関銃のようによくしゃべった。 「依佐ちゃんねぇ、子供の頃はようここらへん走りまわっとったわ。真っ黒に日焼けして、男の子にまじって虫捕りなんかしとったねぇ。そうそう、中学生の時なんかねぇ…」 話は長くなりそうだった。田舎の人とは、こういうものなのだろうか。暑い。だんだん陽射しも強くなってきて、蝉もよりいっそう騒ぎ始めた。 「それでね、ホント依佐ちゃんったらねぇ…」 おばさんの話しは止まりそうにない。暑い。死にそうだ。おばさんは帽子をかぶってるからいいけど、俺は直射日光だぞ。いいかげんにしてくれ。 「それでねぇ…」 「あの」 俺はとうとう我慢の限界で、機関銃の間に横槍を入れた。 「あの、俺、卵買ってきてくれって頼まれてるんですけど、お店の場所がわからなくて…こっちであってましたっけ?」 あっていることはわかっていたが、俺は営業用スマイルでにっこり笑って尋ねた。機関銃を止められるなら、話題はなんでもよかったのだ。 「あらあら、そうなのぉ、お店はねぇ、この道まーっすぐ行ったら、左手にあるわよぉ。でも小さいからねぇ、見落とさんように気ぃつけな。あ、まだ九時前かぁ。おばあちゃん、寝とるかもなぁ」 「え!?開いてないんですか?お店、何時からなんです!?」 まさか、炎天下の下駆り出されて、店が閉まってるなんて最悪だ。ましてや依佐子もお義父さんも、長年住んでるなら店のオープン時間ぐらいわかってるだろうに。 「いや、それがねぇ、おばあちゃんの気まぐれなんよ。大橋さんとこのおばあちゃん、よう寝るおばあちゃんでねぇ。起きたら店開けるけど、また昼寝しちまったりするしねぇ」 ──信じられない。 何もかも、なんてアバウトな所なんだ。 道を歩けば、初対面なはずのおばさんがさも知り合いかのように話しかけてくるし、お店すらオープンの時間も決まっていないとは。現代に、こんな時間の止まったような場所があっていいのか。 困惑顔の俺に、おばさんは明るく言った。 「大丈夫よぉ。シャッター閉まってたら裏に周って、おばあちゃん起こせば開けてくれるから。それでも起きなかったら、裏から店ん中入って、卵もらってお金置いてきたらええよ」 気ぃつけてな、と言って、おばさんは田んぼの中へ戻っていった。田舎ではどうか知らないが、俺は初対面のおばあさんの家に無断で侵入できるほど、図太い神経は持ち合わせていない。 頼むから、開いててくれよ。 そう祈って、俺は炎天下のあぜ道を歩き続けた。十分くらい歩いただろうか、左手に、これまた古臭い、小さな家が一軒見えてきた。 『大橋商店』と書かれた看板が、正面にかかっている。近づいてみると、シャッターは開いているようだ。 俺はホッとして店の中をのぞくと、所狭しと様々な物が置かれていた。お菓子、パン、野菜、ジュース、日用品、ちょっとしたおもちゃ…もしかして、この村に店はこの一軒しかないのかもしれない。 しかしさっきから、人の気配がない。おばあさんはどこかに出かけたのだろうか。それとも奥で寝てるのだろうか。 卵はどこだろう。卵、卵… 薄暗い店内を見渡すと、店の右奥にある棚に、小さめのザルに入ったいくつかの卵が載っているのを見つけた。奥に入って卵に手をのばしたその時、俺の真横から、急にしわがれた声がした。 「いらっしゃい」 「わっ!!」 俺は思わず、声をあげて飛びのいた。 あらためて見ると、卵の棚の横は、一段上がった所に奥の部屋へとつながっている畳のスペースがあって、そこにぽつんと、一人のおばあさんが座っていた。 店内は薄暗いし、身動き一つしないおばあさんはまるで置物のようで、まったく気配に気がつかなかったのだ。それとも、今、歩いてきたのだろうか。 「あ、すみません、卵を、卵。貰おうと思って」 叫んだのはさすがに無礼だったと思い、俺は焦って卵の入ったザルを手に取り、おばあさんに差し出した。 「百円だよ」 おばあさんは卵のザルを受け取ると、横にかけてあった袋を一枚ちぎって、ザルごと袋につめた。 叫んだ事で気を悪くしてないかどうか表情を覗き込んだが、その顔はしわくちゃすぎて、どんな表情なのかいまいちわからない。 俺が百円玉を渡して袋を受け取ろうとすると、おばあさんは俺の手をかわして、袋を持ったままゆっくりと立ち上がった。 そして揃えて置いてあったつっかけを履いて、店の表の方へ歩き出す。 俺が後ろをついていくと、おばあさんはお菓子コーナーから一つ、何か戦隊もののアニメの絵が描かれた袋の、小さなスナック菓子をつかんで、卵の入った袋の中へ入れた。 「ほれ、おまけじゃ。これは今一番人気じゃからね。アンタも好きじゃろう。カードが付いてるでな、皆これを集めとるじゃろ。気ぃつけて帰りぃや」 おばあさんは小刻みに震えるしわくちゃの手で、卵とお菓子の入った袋を俺に差し出した。 ──ボケているのだろうか。どうやらこのおばあさんには、俺が戦隊もののカードを集めて喜ぶ、小学生くらいの子供にでも見えているらしい。 「あ、すいません、ありがとうございます」 何か言い返すのも面倒なので、俺は早々に店を出た。すると、さっきまでギラギラと空気を焼いていた太陽が、すっかり雲に隠れて辺りが陰っていた。 ラッキー。これで少しは暑さもマシだ。ついでに雨でも降れば、健司との蛙捕りも行かずに済むのに。 「妙な空じゃ」 いつのまにか店の外まで出てきていたおばあさんが、呟いた。おばあさんの声はしわがれているが、なぜかよくとおる強い声だった。 「不吉な色の空じゃ。こりゃ一雨くるぞ。昔っから、黄色い雲が出る時は外に出るなと言われたもんじゃ。ほれ、アンタも、不吉に当たられんうちにはようお帰り」 黄色い雲…? あらためて見上げると、空は分厚い雲に覆われていた。たしかに少し、雲が黄色っぽい気がする。ついさっきまで晴れていたのに。 虫捕りが中止になるのは願ってもないことだが、買い物帰りにずぶ濡れになるのはごめんだ。 俺はおばあさんに軽く頭を下げて、家に向かって歩き始めた。おばあさんは、俺がだいぶ遠くに行くまで、ずっと後ろから見送っていた。 来た道を引き返しているうちに、みるみる雲が厚くなっていく。夏の昼前とは思えないくらい、辺りはどんよりと暗い。風もまったくなくて、周りの木や田んぼの稲も、ピタリと静止してひどく無機質な感じで、まるで写真のようだ。 さっきまで大合唱していた蝉の声も、一切聞こえなくなった。人の気配もなく、俺の足音以外、何の音もないように感じた。 なんか不気味だな… 俺は早足で歩きながら、もう一度空を見上げた。灰色と黒の濃淡の中に、所々、黄色がかった部分がある。 太陽の光が映りこんでいるのだろうか。気味の悪い雲だ。 さっきのおばあさんの言葉を思い出した。 不吉な雲──。 空気はじっとりと湿って重いのに、どこか冷ややかだった。 俺はさらに足を速めた。一本道に、土を蹴る俺の足音だけが響く。 すると、遠くのほうから誰かこっちに向かってくるのが見えた。 こっちに向かって、走ってくる。俺は足を進めながら、目を細めてじっと見た。 白いTシャツに、ジーンズ、長い髪が左右に揺れている。 依佐子だ。 手には傘を二本持って、小走りでこっちに走ってくる。 そうか、降りそうだから迎えに来たのか。たまにはいいとこもあるじゃないか。 俺もさらに足を速め、依佐子のほうに向かった。息を切らした依佐子の姿が、あと五十メートル、三十メートル、二十───………その時────、 ザーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーッ 突然、俺はびしょ濡れになった。 一瞬、何が起こったのかわからなかった。 ポツポツと小雨が降り出したわけでもないのに、なんの前触れもなく、滝つぼに放り込まれたかのような豪雨が降ってきたのだ。あまりの突然さに、俺はどっかの家の二階から、水の入ったバケツをひっくり返されたのかと思った。 「…んだよ、これ!」 俺が思わずそう言い放った瞬間、ピタッ、と、雨が止まった。 ──え?なんだ?? 俺は空を見上げた。厚かった雲が、みるみるうちにスーッと薄くなって、少し晴れ間が見えだした。まるでビデオの早送りを観ているようだった。 ──おいおい、どういうことだよ。まだ雨が降りだして十秒も経ってないぞ。信じられない。夕立にしても、もう少し長いだろう。田舎の雨って、こんななのか!? 俺を一瞬でずぶ濡れにした豪雨は、それこそほんの一瞬でやんでし ったのだ。 「ぶっ!!」 空から目を離して正面を向くと、俺の顔の目の前に、開いたピンク色の傘の先が向けられていた。 依佐子が急いで開いたのだろうが、さすがに十秒の雨には間に合わなかった。 「危ないなぁ、目に刺さるだろ!」 俺は役に立たなかった傘を手ではたいた。 ──アレ? 何か、何だろう、違和感があった。 「大丈夫ぅ?びちょぬれになっちゃったねぇ」 依佐子が間の抜けた声でそう言って、傘を開いたまま地面に置いた。 依佐子は膝を折って、俺の顔を覗き込んできた。 ──なんだ…?何か、おかしい。 ふと俺は、自分の足元にまとわりつく布切れに気付いた。見覚えのあるGパンが、濡れてぐったりと地面にずり落ちていた。 「え!?うわ!なんで!?」 ベルトが切れたのだろうか。俺は慌ててGパンを引き上げようと、手を伸ばした。 ……え? なんだ?この手。誰の…それに、この足。俺の足はこんなに細くない。 「どうしたの?そんなおとなのお洋服着て、へんなの!」 依佐子がククッと笑う。 俺は、今自分に起こっている事が理解できなかった。 もう一度、俺は自分の両手をまじまじと観た。 皺ひとつない、ハリのあるプクプクとした手。小さい手。 俺はハッとして、急いでぶかぶかのサンダルとGパンから足を抜き、転がり込むように四つんばいになって、さっきの豪雨で一瞬にしてできた水たまりを覗き込んだ。 泥水にぼんやりと映ったその顔は、健司、ではなく、健司とちょうど同じくらいの少年の姿だった。どことなく健司に似ているが、たしかに見覚えのある顔だった。 そう、自分の、俺の、子供の頃の顔だ。 「…なんだよ…これ。一体どう……」 頭がまわらない。今、一体何が起こっているんだ。こんなこと、現実にありえるわけがない。俺はまだ、あの蚊帳の中で眠っていて、夢をみているのだろうか。 地面についている両手と、水たまりに映っている顔を交互に見る。そのうちに、空はみるみる晴れて、水たまりにはより鮮明に、子供の顔が映し出された。 「どうして…こんな、どういうことだ、こんな…」 ふと、水たまりが影になった。 「ねぇ、キミ、大丈夫?」 依佐子が、ちょっと心配そうに俺を後ろから覗き込んだ。 「…大丈夫なもんか!大丈夫なわけないだろ!!俺だよ!彰だよ!今、目の前でみてただろ!?俺も信じられないけど…俺が彰なんだよ!!俺、一体どうなって…俺、俺は彰だ、雨宮彰なんだ!!」 俺は今起こっていることに頭がついていかず、途中から何を言っているのかもわからなくなってきた。 一体、何が起こっているというんだ! 依佐子は、きょとんとした顔で俺の事を見ている。 「彰くんっていうの?あ、わかった!お引越ししてきたんでしょ!、依佐、このへんの男の子も女の子もみーんな友達だけど、キミは初めて会ったもん」 「…は?」 話し方が、いつもの依佐子とは明らかに違った。なんだ、これは。子供に向かって話すような、いや、まるで子供が話しているみたいな… 「なに言ってんだよ…、違うよ、お前、お前の旦那の彰だよ!おい、依佐子、どうしたんだよ、なぁ!!」 なんなんだ!一体、何なんだ。からかってるのか?こんな時に!?一体何なんだよ! 俺は言いようもない不安に襲われて、すがるような目で依佐子を見た。 冷たい汗が、背中を伝う。 依佐子は少し何か考えて、照れたように笑った。 「ごめんね、彰くん。おままごとの時の依佐のダンナ様役は、いつも隆利くんって決まってるの。あ、でもこんど彰くんも一緒に遊ぼう!お友達増えるの、皆きっとよろこぶよ!」 ──俺は、頭が真っ白になった。 依佐子の様子がおかしい。一体、何が起こっているんだ。あの雨なのか?あの雨が、俺の体を小さくして、依佐子をおかしくしたというのか!? わからない。何も考えられない。 すっかり晴れ渡った空は、もう雲一つない。太陽がじりじりと空気を熱し、座り込んでいる俺の影を、地面に色濃く映し出す。 蝉も、いつのまにか再び大合唱を始めていた。まるで何事もなかったかのように、さっきまでの真夏の田園風景が広がっている。でも俺にはもう、暑さも寒さも感じられなかった。蝉の声も、遠くのほうで聞こえる。 ──夢だ。こんな事、あるわけがない。夢に決まっている。そうでなければ、俺はきっと田舎の暑さで頭がやられちまったんだ。 「彰くん、大丈夫?どっかいたいの?」 依佐子が、俺の額に手を伸ばした。 「汗、いっぱい」 依佐子が手で、俺の額をサッとぬぐった。生ぬるい依佐子の体温が、額から伝わる。 「あっ」 依佐子が急に声をあげた。 「どうした、どうした依佐子」 俺はもう泣きそうだった。なんだよ、まだこれ以上何かあるのかよ。一体なんなんだ。 「依佐、おっきくなってる!うわぁ、依佐オトナになってるよ!なんで?すっごい!!」 依佐子は自分の手や体を、まじまじと見回して、嬉しそうにくるくるまわった。 俺はもう、言葉も出なかった。 何か、得体の知れない恐怖感だけが、胸をじわじわと覆っていった。 ──帰ろう。 とにかく家へ、家へ帰ろう。 俺は依佐子の腕をつかんで、一本道を走りだした。Gパンとサンダルはそのまま放ってきたが、今の俺の体は、上に着ていたTシャツ一枚で充分覆い隠せている。まぎれもなく、子供の体なのだ。 「彰くん、待ってよぉ!どこ行くの?」 俺は依佐子の言葉を無視して、走り続けた。 一体、俺と依佐子に何が起こったんだ。とにかく、家に帰らなければ。 オバケ屋敷のようなボロ屋が見えてきた頃には、俺は汗だくで息も絶え絶えだった。 「おお、依佐子おかえり。あれ?彰君は?会えんかったんか?」 ちょうど縁側に立っていたお義父さんが、頭をタオルで拭きながら、帰ってきた俺と依佐子を見た。 「おじいちゃん、依佐ね、急におっきくなったんだよ!みてみて!!マジカルサミーちゃんの魔法みたい!」 依佐子はまた、お義父さんの前でくるりとまわってみせた。 お義父さんは、依佐子をじっと見て、何も言わない。覗き込むように、依佐子の顔を見ている。 「…お義父さん」 俺は思い切って声をかけた。自分の出した声が思ったよりもか細く、弱々しかったことに俺は驚いた。こんな話し、話したって信じてもらえるわけがない。だいたい、何をどう話すんだ。俺だって訳がわからないのに。 お義父さんは、ぶかぶかのTシャツを着て、泥だらけの裸足で庭に立っている子供を、まじまじと見た。肩で息をして、俺はきっと、今にも泣きそうな顔をしているに違いない。 声をかけたのはいいが、二言目が何も思い浮かばなかった。なんて言えば、何を言えばいいんだ。 依佐子は、まだ自分の体を眺めて嬉しそうにはしゃいでいる。 先に口を開いたのは、お義父さんだった。 「彰君…か?」 俺は目を見開いた。 「そう!そうです、お義父さん!!彰です!依佐子の夫の、彰です!!あの、もう、わからないんです、どうしてこんなことに…とにかく僕は雨宮彰なんです!」 俺は縁側に身を乗り出して、必死で訴えた。なぜお義父さんが、この子供の姿を見て俺だとわかったのかはわからないが、今は一人でも、この事実を信じてくれて、まともに話せる人間が欲しい。 目の前で見ていたはずの依佐子が、何かおかしな事になっている以上、もう頼りはお義父さんしかいなかった。 「やはり、そうか。そうかそうか…」 お義父さんは少したまげたような、でも落ち着いた口調で言った。 「さっきの雨を浴びたんじゃな、彰君」 「…はい!そうです!急に雨が降ってきて、それで、俺と依佐子が、それで急に…急にこんな…」 俺はまた、混乱してきた。なんて説明すればいいんだ、一体。 「やはりな。実はわしもさっき、洗濯もん入れよう思って、庭に出ててな、わしもあの雨におうたんじゃよ」 ──やはりこの異常事態は、あの雨と何か関係があるというのだろうか。あの雨にはもしや、何かの病原菌でも含まれいていたのかもしれない。それともどこかの国の細菌兵器か何かか? それにしても、体を小さくする菌なんてあってたまるか!そんなもの開発できたら、ノーベル賞どころの騒ぎじゃない。俺なら兵器にするよりも、金持ちの老人に法外な値段で売りつけるぞ。“若返りの薬”だ。億万長者間違いなしだ。 ああ、もう何を考えてるのかわからなくなってきた。一体どうしてこんな──。 「ほれ、見てみぃ」 お義父さんは、すっぽりと頭にかぶせていたタオルを取った。 「…なんですか?」 俺はじっとお義父さんの頭を見たが、そこにはただの老人のぼさぼさ頭があるだけだった。 なんなんだ。そんな事よりも、この雨の事を何か知っているなら、なんでもいいから教えて欲しい。老人の白髪頭に興味などない。 ──ん? 白髪頭…? 「あっ」 俺は思わず声をあげた。 白髪頭。 お義父さんの頭には、両サイドにほんのわずかな白髪はあったものの、てっぺんはツルッツルの禿げ頭だったはずだ。 少なくとも、朝俺が卵を買いに出かける前までは。 なのに、どういう事だ。目の前のお義父さんの頭には、ぎっしりと、いや、ぼっさりと、小さいアフロともいえる位の毛が生えている。さっきは取り乱していて気にならなかったが、冷静に見るとあきらかに違和感があった。 「ど、どうしたんですか、その頭…」 お義父さんは、右手で小アフロを触りながら、よく晴れた空をまぶしげに見上げた。 「いや、さっきのあの雨に打たれたら急にな、こうなっとったんじゃ。頭が急に重うなった思って鏡見たら、こりゃビックリじゃ、とっくの昔になくなったはずの毛が、戻っとったんじゃ」 お義父さんは、確認するように両手で小アフロを揉んでいる。 俺はまだ、頭が正常に働かなかった。 「それは、つまり──、それは、一体どういう事なんでしょう、あの雨が…雨、なぜこんな事になったんですか!?知っているなら、教えてください!」 俺はお義父さんの足元にすがった。顔をだらだら流れているものが汗なのか涙なのか、俺にはもうわからなかった。 「…戻りの雨じゃ」 お義父さんは宙を見て、静かに呟いた。 「なんですって?」 俺はまっすぐにお義父さんの顔を見た。 「わしは今起こっていることがなんなのかは、まったくわからん。七十年以上生きてきたが、抜けた毛が戻ってくるなんて事は初めてじゃ。だが、これだけははっきりしとる」 「なんです!?」 俺はさらに、すがるようにお義父さんの顔を覗き込んだ。 「これが現実だってことじゃよ」 お義父さんは静かに続けた。 「あの雨が降ってすぐ、わしのとうに抜けた毛が頭に戻って、彰君の体が子供に戻ってしもうた。そして…」 「おじいちゃん!ずぅっとなんのお話してるの?依佐、おなか空いちゃった。あ、この子、彰くんっていうの!新しいお友達だよ!」 依佐子が俺の手をとって、ねー、と言ってにっこりと笑いかけた。 「依佐子」 お義父さんは、依佐子の前にしゃがんで、その顔をじっと見つめた。 「依佐子は今年、いくつになったんじゃったかの?」 依佐子は、とても元気よく答えた。 「七つ!おじいちゃん、一緒にケーキ食べたのに忘れちゃったのぉ?」 お義父さんは依佐子の頭にポン、と手を置き、そうじゃったな、と笑いかけてから、俺の方を見た。俺はもう、汗も止まってしまったような気がした。蝉の声も、何も聞こえない。 「わしの髪、彰君の体、そして──、依佐子は、心」 「そんな、そんなことって……」 俺は頭がくらくらして、立っていられなかった。これは、何かの病気なのか?現代に、こんな不可解なことがあっていいのか、いや、あるわけがない、あってたまるか。 「ちょっと!ちょっと、大変よー!!」 突然叫びながら庭に駆け込んできたのは、両手で小鍋を抱えた見知らぬおばあさんだった。 「おお、美枝子さん、どうしたんじゃ」 お義父さんが、つっかけを履いて縁側から庭に降りた。 この人が、昨日台所で話していた「みえこさん」らしい。八十近いと言っていたが、息をきらして全力で走りこんできた。声もでかいし、田舎の老人はやはり元気だ。いや、そんな事はどうでもいい。今はそれどころじゃないんだ。 「そんなに走ってぇ。膝に悪いぞ、この前だって転んで…」 そこまで言って、お義父さんの表情が変わった。 「美枝子さん、あんた濡れとるの。あの雨におうたんか?体は?なんともないか?」 美枝子さんはずいぶん興奮した様子で、手に持っている小鍋をお義父さんの方に突き出した。 「なんともなくないよぉ、一大事だよワタルさん!わたしゃあんた達にと思って、ほれ、肉じゃがこさえて持ってきたんだぁ」 そう言って美枝子さんは、小刻みに震える手で、鍋をお義父さんに手渡した。 「歩いとったら突然雨降ってなぁ、わたしゃ慌ててもうて、鍋の蓋落っことしてしもうて…、そしたらワタルさん、これ、これ見とくれよ!」 お義父さんは、美枝子さんに差し出された鍋の蓋を、ゆっくりと外して、中を覗き込んだ。 お義父さんが、大きく目を見開く。 顔中の皺がゆっくりと波打って、その目は新種の昆虫でも見つけた少年のように、キラキラと輝いているように見えた。 お義父さんが鍋を手に取り、俺のほうをちらりと見た。 俺は、これ以上理解不能なものを見せられたら頭がおかしくなりそうな気がして怖かった。 でも、何か、今起こっていることを解明するヒントになるかもしれない。今は少しでも、どんなことでもいいから情報が欲しい。 お義父さんがゆっくり腰を折って、俺の目線まで小鍋を下ろす。 依佐子も、俺と一緒に鍋を覗き込んだ。 「えー!なにこれ。依佐の肉じゃが、どこいっちゃったの?」 依佐子がきょとんとして、さらに身を乗り出して鍋の中を見直した。 鍋の中では、生の牛肉の細切れと、畑で採ってきたばかりというような土のついたジャガイモとにんじんが、二、三個、醤油の中に浸かっていた。 「わたしゃボケてないよ。ほんとにちゃんと、肉じゃがこしらえてきたんだから!どういうこった、こりゃあ…」 美枝子さんが、鍋の中のジャガイモを一個つかんで、しかめっ面でまじまじと眺めた。 依佐子が、へんなの、と言って笑った。 お義父さんが静かに言った。 「戻りの雨、じゃ…」 俺はもう、何の言葉もでなかった。 ミーンミンミンミ──…… 熱でぼやけた庭で、鮮やかな色の花が微動だにせず咲いている。草木の緑も活き活きと濃く、風一つない庭でモンシロチョウだけがひらひらと動いている。 俺は居間に座り込んで、ぼぉっと庭を見ていた。見ていたというよりは、目に入っているだけだった。さっきまで何の変哲もなかった庭の風景も、今はひどく非現実的なような気もする。 俺はもしかしたら、地球ととてもよく似た異世界に紛れ込んだんじゃないだろうか。 「彰くん!」 ふすまを勢いよく開けて、依佐子が居間に入ってきた。 「見て見て!かわいい?」 俺の前でくるりと回ってみせた依佐子は、淡いピンク色のワンピースに、白いカーディガンを羽織っていた。 「依佐子が昔、着とった服じゃよ。結婚前はしょっちゅううちに帰ってきよったから、何着か置きっぱなしになっててな、ちょうどよかったよ」 お義父さんは小声でそう言いながら、俺の前に服を差し出した。 「ほれ彰君も着替えなさい。びしょ濡れのままじゃ、風邪引くぞ」 お義父さんが手渡した服を手にとってみると、健司が好きな、なんとかレンジャーとかいうヒーロー達がプリントされた小さなTシャツに、子供用の半ズボンだった。 「健司にやろうと思うて、買っといたもんじゃよ。たぶんピッタリじゃろう」 俺は、服を掴んでいる自分の手の小ささを、まだ受け入れられなかった。 「そうだ」 俺はふと、我に返った。 「そうだお義父さん、健司は!?健司は今どこに!?」 あまりの事に健司の事をすっかり忘れていたけど、そういえば健司の姿がない。まさか、健司もあの雨に──。 「ああ、大丈夫じゃよ。健司は宿題しながらうたた寝しちまったんでな、布団に運んどいたわ。まだぐっすりお昼寝しとるよ。朝、早かったからなぁ」 「そうですか…」 健司はあの雨を浴びなかった。 よかった。俺が子供に戻るんじゃ、子供の健司は胎児にでもなってしまう。 ひとまずホッとしたものの、一体この事態を健司にどう説明したらいいのか、俺は途方に暮れた。 お父さんは小さくなって、お母さんは心が子供に戻りました──…って? ありえない。どうしたらいいんだ。 「大丈夫じゃよ」 俺の心を見透かしたように、お義父さんがにっこり笑った。 「案外、子供のほうが頭が柔軟なもんじゃ。起きたらわしから説明しよう」 俺は座り込んだまま、お義父さんを見上げた。昨日となんら変わらぬ笑顔で、お義父さんは笑っている。 こんな、こんな意味のわからない事が起きているのに、なぜこの人はこんなに落ち着き払っているんだ。 「お義父さん」 俺は、わけのわからないイラつきと混乱がこみ上げてきて、もう頭が爆発しそうだった。 「なんなんだ……なんなんだ一体!!こんな、人の体が小さくなったり、そりゃお義父さんは毛が生えただけだからいいかもしれないけど、あなたの娘の依佐子だってあんなになってしまったんですよ!?どうしてそんなに落ち着いていられるんですか!!」 声を荒げた俺に、依佐子は怯えてお義父さんの後ろにササッと隠れた。 お義父さんは少し黙って、何かを考えているように、さっきできたばかりの小アフロを右手でモサモサと触る。 それからお義父さんはじっと俺の目を見た。静かな目だった。お義父さんの目はいつもそうだ。静かで、優しげだ。 「今何が起こっとるのか、わかるもんはたぶん誰もおらんじゃろうなぁ。もちろん元に戻す方法もな。わからんもんを嘆いてもしょうがないもんじゃ。とにかく今、彰君にできることと言えば──」 お義父さんは、畳の上に落ちた小さな服を拾って、俺に差し出した。 「乾いた服に着替えることぐらいじゃな。その上風邪まで引いちまったら、戻るもんも戻らなくなるかもしれんぞ」 お義父さんはまたにっこりと笑って、後ろに隠れている依佐子の頭に、ポンポン、と手を置いた。 俺は返す言葉ももう無く、黙って差し出された服を受け取った。 一体どうしてこんな事になってしまったんだろう。 卵なんて買いに行かなければよかった。買い物にさえ行かなければ、こんな事にはならなかったのに。卵なんて… 卵─。 俺はあのおばあさんの言った言葉を思い出した。 “不吉に当たられんうちに、はようお帰り” そうだ─、あのおばあさんは確かにそう言った。黄色い雲は不吉だとも言っていた。もしかしたら、何か知っているのかもしれない! 俺は急いでぶかぶかのTシャツを脱ぎ捨て、手渡された健司の服に着替えた。サイズは驚くほどピッタリだった。 俺はそのまま、縁側に置いてあるお義父さんのつっかけを履いて庭に降りたが、もう一度戻って玄関へ走った。そして玄関にあった健司の小さな靴を履いて、俺は外へ飛び出した。 「彰くん!?」 依佐子が後ろから呼ぶ声が聞こえたが、俺は無視して走った。今はとにかく、この異常事態の手がかりを少しでも得なければ、何をどしていいのかさっぱりわからない。 俺は炎天下の一本道を、ひたすら走った。空はすっかり普通の夏空に戻って、もう水たまり一つなく、まるで雨など降らなかったかのような乾いた大地が広がっていた。大人の足で十五分程度の道のりでも、子供の体のコンパスでは、あの店は果てしなく遠い場所のように思える。 大橋商店の看板が見えた頃には、着替えたばかりのTシャツが、もうぐっしょりと濡れていた。だがさすがに子供の体、あがった息もあっという間に落ち着いて、疲労感も後に残らない。エネルギーが溢れているような、久々の感覚だった。俺は確実に、若返ってしまったのだ。 「おばあさん!!」 俺は店の中へ駆け込んで、おばあさんの姿を探した。見当たらない。 「おばあさん!すいません、いませんか!?」 俺はさっきおばあさんが座っていた畳に身を乗り出して、奥の部屋を覗き込んだ。寝ているのかもしれない。 「すいません、おばあさん!」 すると、奥の部屋のほうから物音がして、誰かがこっちに歩いてきた。 「おばあさん!」 俺はさらに身を乗り出した。 しかし部屋から出てきたのは、おばあさんではなかった。そこに立っていたのは、二十代後半だろうか、スラッとした細身の、大きくて力のある目が印象的な若い女性だった。 「あ、あの、すいません、さっきここに居た、店番してたおばあさんはいませんか?俺、ちょっと用があって…」 俺は畳から手を放し、妙に改まって尋ねた。こんな田舎にも、若くて、しかもこんな美人がいたのか。 その人は腰をかがめて、大きな瞳でじっと俺の顔を覗き込んだ。 猫のような強い目に、すっと細い鼻筋、輪郭のはっきりした唇は、ラズベリーのようにぷるぷるとした赤さを持っている。 俺は思わず後ずさりした。 「あ、あの、おばあさんは…」 俺の言葉を遮って、その人が言った。 「アンタ、さっきの子だね」 「え?」 「さっき卵買いに来ただろ。あの雨に当たられたね。だからはようお帰り言うたのに」 その人はよいしょ、と言ってつっかけを履いて、店先においてあるガチャガチャの上の埃を、タオルでぬぐい始めた。 ──俺はその人の後姿をみて、少しの間考えていた。 不安とも恐怖心ともいえない、いやな予感が胸をよぎる。 そんな、まさか─。そんなこと、ありえない。 「あの」 俺はおそるおそる声をかけた。 「まさか、あの、あなたもあの雨を浴びたんですか…?」 その若い女性はタオルを置いて、静かに振り返った。逆光で暗い顔に、大きな目だけがキラリと光った。 「アンタに気ぃつけろ言うといてなぁ、あたしも店先のもん濡れんように思って仕舞っとったら、雨におうてもうたわ。年とるとトロくていかんね」 カカカ、とその人は笑った。 ───やっぱり……! 予感は的中だ。この人が、あの、さっきのおばあさん! そんな事があるものだろうか。第一、あのしわくちゃに丸めてもう一回広げた新聞紙みたいな顔のおばあさんが、若返ったからといってこんな美人になるなんて。ありえない。 怪訝な顔で見ている俺の心をよんだかのように、その人はニヤリと笑った。 「言っとくけど、あたしゃ昔は村一番のべっぴんで、そりゃあもう隣町からも男達が結婚してくれって押し寄せたもんだよ」 「あ、いや別に俺はそんな……」 俺がうろたえたのを見て、その人は満足げにまた、カカカ、と笑った。 「いや、そうだおばあさん!そんな事より、何か知ってるんでしょう!?あの雨のこと!どうしてこんな事になったんです?あの雨は何なんですか!?教えてください!」 俺は我に返って、本題を切り出した。おばあさんという呼び方は、今のこの人には不釣合いな気がしたが、他に思いつかなかった。それに今は、そんな事はどうだっていい。 おばあさんは静かに語りだした。 「この村の古い言い伝えで、黄色い雲の降らす雨は災いを運んでくる、っていうのがあってな」 俺は「言い伝え」なんて非現実的なものは信じない性質だが、今、自分に起こっている事がそもそも一番非現実的なせいか、かじりつくようにおばあさんの話に聞き入った。 おばあさんは、まぶしそうに空を見上げて大きな猫目を細めた。 「あたしゃこの村で生まれて九十年、ずっとこの村で暮らしてきたが、黄色い雲を見たのは今回で三度目じゃ」 「三度目!?じゃあ一度目は?一度目と二度目は何が起こったんですか!?」 俺は必死だった。前例があったなら、何か解決法があるかもしれない。この訳の解らない状況に、少し希望の光が差し込んだ気がした。 「ヒゲが生えた」 「は!?」 「一度目の雨が降ったのは、あたしがまだ小学生の頃じゃったけどねぇ、あん時は雨の後、ありとあらゆるもんにヒゲが生えてねぇ、大変じゃったよ。赤ん坊も、女も男も、家の壁からも庭の花からも、そりゃあもう立派なヒゲが生えてのぉ」 おばあさんは思い出し笑いなのか、またカカカ、と笑った。 「あん時は、子供らは仙人じゃなんじゃって大喜び、年頃の女子は皆家に引き篭もって泣きじゃくるは、もう大騒ぎよ」 ──なんだそりゃ。 あの雨は、“戻す”だけではないということか?それともこのばあさん、俺をからかっているのか。 「じゃあ、じゃあ二度目は!」 俺は、見えかけた希望の光にすがる思いで尋ねた。 おばあさんは何かを思い出すように、目をつぶって、右手を顎の下に添えた。 「二度目は─、たしか一度目の雨から三日後じゃったなぁ」 「そんなに早く!?で?二度目は、何が起きたんです!?」 「戻った」 「え?」 「元に戻ったんじゃよ。ヒゲがな、消えたんじゃ、きれいさっぱり」 「え、それは一体、どういう…」 俺はまだ頭が混乱していて、うまく考えがまとまらなかった。 「言い伝えには続きがあってな、黄色い雲が運んでくる災いは、黄色い雲が運び去ってくれると言われとるんじゃ」 まだ頭がはっきりしない俺に、おばあさんはわかりやすく説明してくれた。 「つまり、次に黄色い雲が出た時に、すべては元に戻るんじゃ」 俺は、さっき生まれた一筋の希望の光がさらにその輝きを増した気がして、思わず声が弾んだ。 「戻るんですね!?すべて元に!で、いつ?いつ、次の雨は来るんです!?やはり三日後なんでしょうか?」 おばあさんは静かに、空を見上げた。 「わからん」 「え?」 「次がいつかは誰にもわからん。なんせただの雨じゃ意味が無いしの。黄色い雲が次いつ来るのか…明日か、それとも一年後なのか、それは誰にもわからんよ」 やっと見えた希望の輝きが、一瞬にしてさっきよりも深い闇に包まれた。東京の、俺の部屋のあの真っ黒の遮光カーテンのように、木漏れ日一本すら通さない、完璧なまでの闇───。 「そんな……」 俺はへタリと床に座り込んだ。夏の太陽にさらされた石の床は、生ぬるく熱を含んでいる。 ふと、太陽の光が遮られて、目の前を影が覆った。 「おや、わたる。依佐ちゃんも。依佐ちゃん、久しぶりだねぇ。大きゅうなってぇ」 おばあさんが弾んだ声で言った。 顔をあげると、店先にお義父さんと依佐子が立っていた。お義父さんの手には、俺がさっき道端で脱ぎ捨てたサンダルとGパンに、卵が入った袋、依佐子の手には傘が二本握られていた。 「おねえちゃん、だぁれ?おばあちゃんのこども?」 依佐子が、若返ったおばあさんを覗き込んで言った。 お義父さんは、おばあさんをまじまじと見て、ゆっくりと目を見開いた。 「あんた、まさか……」 おばあさんは、ニヤリと笑った。 「そのまさか、さ。わたるもその頭、あの雨浴びたんじゃな」 「いやぁ、いや、こりゃたまげた。おばちゃんかぁ。こりゃたまげたなぁ…!」 お義父さんは、小アフロをガリガリと掻いた。 「え?おばあちゃん?どこに居るの??」 依佐子が身を乗り出して、店の中を見回す。 「依佐ちゃんもだね」 おばあさんが静かに言い、お義父さんは黙って頷いた。 「依佐ちゃん」 おばあさんが、依佐子の頭にポンと手を置いた。 「依佐ちゃん、あの雨に濡れたんだねぇ」 依佐子は元気よく頷いた。 「うん!そしたらね、依佐子の体、急に大きくなっちゃって、ビックリしちゃった!すごいでしょ!?魔法みたい!嘘じゃないよ!」 「わかってるよ、そうか、そうか」 おばあさんは静かに続けた。 「実はおばちゃんもあの雨を浴びてな、依佐ちゃんとは逆に、おばちゃんは体が若くなってしもうたんじゃ。不思議な事もあるもんじゃのう」 依佐子は目を丸くした。 「ええー!?じゃあもしかして、おねえちゃんがおばあちゃんなの!?うっそぉ~!!」 おばあさんは、駄菓子のコーナーに手を伸ばして、ピンク色の箱に入ったオマケ付きのお菓子を一つ、手に取った。 「ほれ、依佐ちゃん、いつもこれ買いに来とるじゃろう。マジカルサミーちゃんの魔法グッズ集めとるんじゃったな。魔法の指輪がなかなか出んゆうて、嘆いとったじゃろ」 依佐子はそのお菓子を手にとって、おばあさんの顔をじっと見た。 「おばあちゃんなのね!すっごーい!!おばあちゃん、美人!」 おばあさんはカカカ、と笑った。 「ついでに言うとな、依佐」 お義父さんが口を挟んだ。 「依佐はわしをおじいちゃんと思っとるようじゃが、わしゃ依佐のパパじゃよ。パパも雨を浴びてもうてな、依佐と一緒で、ちょっと年をとってもうたんじゃ」 依佐子はさっきよりもっと目を丸くして、お義父さんを見つめた。 「えええ~!?ほんとにぃ?パパしわくちゃー!あれ?じゃあ、ほんもののおじいちゃんは?おばあちゃんも!どこ行ったの?うちにいなかったよ?」 依佐子のおじいさんとおばあさんは、何年も前にすでに亡くなっている。 お義父さんは少し考えてから、こう言った。 「おじいちゃんとおばあちゃんはな、昨日から村の老人会の温泉旅行行っとるよ」 「あれ、そうだっけぇ。でも、おじいちゃん達帰ってきたら驚くねぇ。依佐大っきいし、パパしわくちゃだし」 はは、そうだな、とお義父さんは笑った。 おばあさんもまた、カカカ、と笑った。 …なんなんだ、こののん気な人達は。おかしくなっている依佐子はともかく、こんな異常事態なのに、田舎もんは皆こうなのか? まともな奴はいないのか。俺は一体、どうしたらいいんだ! …病院。 「そうだ、とりあえず、病院にでも行って診てもらわないと、どこかおかしいに決まってる、悪い病気かも──」 床に座り込んだままブツブツ呟いている俺を、おばあさんは馬鹿にしたように鼻で笑った。 「病院に行って、なんて言うんだい?雨に当たったら急に子供になりました~って?精神科に送られたくないなら、やめておくこったね」 俺は何も言い返す言葉が無く、地面を睨んだ。 なんだよ、こんな異常事態にのんきに笑ってボーっとしてるくせに、こういう時だけ妙に的を得たこと言いやがって…。 「彰くん、大丈夫?すごい汗」 依佐子が俺の前にしゃがみこんで、俺の顔に触れた。 「彰君、さっき村長の源さんに電話してな、夕方に皆集まって、今回の雨の事について報告し合う事になったで、とりあえずうち帰って、昼飯でも食べて待とう」 お義父さんが、諭すようにおだやかに言った。 「依佐んちで、一緒に食べよ!」 依佐子がニコッと、無邪気に笑った。 「あ」 おばあさんが急に声をあげて、俺のほうを見た。 「そうそう、気になっとたんじゃが──」 今は少しでも情報が欲しい俺は、すがるようにおばあさんを見上げた。 「その、『おばあさん』ゆう呼び方、やめてくれんかの。子供は子供らしく、『おばあちゃん』とか『ばあちゃん』とか言うもんじゃ。あと、敬語も可愛げがのうていかん。都会から来た子は、変に大人びとっていかんわ」 俺はもう気が抜けたようになって、何か言い返す気力もなかった。 「行こっ!」 依佐子が俺の手を取って、ひっぱった。軽い俺の体は、依佐子に手を引かれて簡単に立ち上がった。 「じゃあ、また夕方な、おばちゃん」 お義父さんがおばあさんに軽く挨拶して、俺たちは店を後にした。 「ありのままを、受け入れる事じゃ。心配せんでも、自然のしたことは自然に戻る。それが世の中ってもんじゃ」 おばあさんは静かにそう言って、店の中に入っていった。 俺はもう、何の言葉も耳に入らず、ただ黙って、依佐子に手をひかれてトボトボと歩いた。 道中、お義父さんが依佐子に説明して、俺はお義父さんの親戚で、雨にあって体が縮んでしまったが心は大人、という事になった。 さすがに心が五歳の依佐子に、俺は夫だと説明するには無理がある。 あとは健司だ。一体、なんと説明したらいいんだ。あの雨を浴びていない健司が、いくら子供でもこんな馬鹿な話を信じるだろうか。俺もまだ、夢を観ているような気分なのに。 「パパも若くなったらよかったのにねぇ」 依佐子が、お義父さんのしわくちゃの顔を不満げに覗き込んだ。 そうじゃな、と言ってお義父さんは笑った。 俺はもう、一言もしゃべらなかった。 オバケ屋敷のような大きな家が見えてきたとき、先に俺たちに気付いたのは健司の方だった。 「あ!おじいちゃん!母ちゃん!」 俺はそのかん高い声を聞いて、心臓が止まりそうになった。顔をあげると、家の前から、健司がこっちに向かって走ってくる姿が見えた。 どうしよう。どうしたらいいんだ。なんて説明したら── 依佐子に握られた俺の手に、無意識にぐっと力が入る。依佐子は一瞬俺のほうを見て、にっこりと笑った。のん気なもんだ。 「どこに行ってたんだよ、おじいちゃん!俺、起きたら母ちゃんも父ちゃんもおじいちゃんもいないからビックリしちゃったよ!」 とがめるように口を尖らせている健司を、依佐子が不思議そうにじっと見ている。 これはヤバイ。何か言うぞ。 今の依佐子は五歳児。当然、健司の事もわからない。依佐子が何か言う前に、なんとかしなければ。 頭の中がグルグルして何も言葉が見つからず硬直している俺を、健司がちらりと見た。 俺はドキッとした。健司が何か言いたげに、口を開きかけた。 「キミ、だぁれ?」 だがやっぱり、一番に口を開いたのは依佐子だった。 健司はきょとんとして俺から目を離し、依佐子のほうを見た。 どうしよう、一体どうしたら── 「健司、ちょっとこっちおいで。依佐、傘置いて、手ぇ洗っといで」 お義父さんがそう言うと、依佐子ははぁい、と言って家の中に走っていった。 その後姿を、健司がまじまじと見ている。 「…なぁ、母ちゃんなんか変じゃない?あ、そういや父ちゃんは?どこ行ったんだ?」 子供ながらに、何かおかしいこの雰囲気に、健司は気付いているようだ。 お義父さんはその場にしゃがんで、健司と、そして俺と同じ目線になった。 「あのな、健司。さっき雨が降ってな。その雨に当たってな、お父さんは体が子供に、お母さんは心が子供に、わしはほれ、髪が昔に戻ってしまったんじゃ」 お義父さんは、まるで絵本でも読んでいるかのように、ありえないこの話を実に簡潔に、淡々と当然のように健司に話して聞かせた。 「……なにそれ」 口をポカンと開けて、マヌケな声で健司が言った。 そりゃそうだ。東京生まれ東京育ちの、生意気盛りの小学生が、こんなバカな話し、信じるもんか。 しつこいようだが、俺だってまだ信じられないのに。 お義父さんはさらに淡々と、この村に伝わる黄色い雲の言い伝えの事、大橋商店のおばあさんが若返った事や、美枝子さんの肉じゃがの事を話した。 一通り話しを聞き終わった時、ちょうど依佐子が庭に戻ってきた。 「ねぇみんなどうして中に入らないの~?男の子だけでお話してズルイ!依佐、仲間はずれヤダー!」 つっかけを履いてパタパタと走ってくる依佐子を、健司はまだポカンと口を開けたまま、見ている。 それから、思い出したように俺に目を戻した。 俺は何も言葉が出ず、ただじっと健司を見返す。 「…まさか、これが父ちゃん……?」 健司が眉間にしわを寄せて、目を見開いて言った。 「当たりじゃ、健司。健司は勘がいいのぅ」 お義父さんが健司の頭を、ポンポン、となでた。 「…健司。信じないだろうけど、父ちゃんなんだよ、俺が」 俺はやっとこう言うのが精一杯だった。なんせ今の俺は、背丈も何もかも、全部健司と同じか、もしかしたらそれ以下の子供なのだ。信じろというほうが無茶な話しだ。 すると突然、健司が俺の両肩をガッとつかんだ。 「わっ、何」 俺は思わずひるむ。 「すっげーーー!!」 「……え?」 健司がキラキラした目で俺を見ている。 「すげぇ!マジで父ちゃん!?すげぇー!!俺と同じくらいになってる!うわぁ、そういえば顔も父ちゃんに似てるなぁ!」 健司は俺の肩をつかんだまま、色んな角度から俺の顔を覗き込んで、まじまじと観察している。 俺はなんだか、狐につままれたような、拍子抜けした気分だった。まさかこんなにあっさりと信じてもらえるとは。小学一年生なんて、こんなものなのか……? 「ええ!?彰くんは、この子のパパなのぉ?」 依佐子が驚いて、俺と健司を見比べた。 そうだよ、俺は健司の父親で、母親はお前だ、依佐子。 「そうじゃよ、依佐子。この子は彰くんの子供で、健司くんじゃ。仲良うせないかんよ」 お義父さんがそう言うと、依佐子は健司の手をとって、にっこり笑った。 「はじめまして!私、佐藤依佐子っていうの。今はね、雨のせいで大人の体になってるけど、依佐小学一年生だよ!仲良くしてね、健司くん!」 健司は口を半開きにしたまま、依佐子の顔をじっと見つめている。普段の依佐子とは、表情からして明らかに違う。 「ほら依佐子、お昼ご飯の用意するからな、部屋で遊んで待ってなさい」 お義父さんが依佐子の手を引いて、家のほうへ歩いていく。 お義父さんと手をつないで、スキップしながら歩いていく依佐子の後姿を見送りながら、健司がポツリと呟いた。 「父ちゃんはなんかスゲェけど……、母ちゃんは…ヤバイね」 俺と健司は顔を見合わせて、二、三度、頷き合った。 食卓の上には、カリッと揚がった天ぷらと、よく冷えた蕎麦が並べられた。庭を背にして俺と健司、その向かいにお義父さんと依佐子が座っている。 「いただきまーす!」 依佐子が大きな声で言って、箸をとった。俺たちも続いて箸をとり、無言で蕎麦をすすった。 今朝までと同じ四人であって、まるで違う四人でもあった。 俺は自分と依佐子に起きた事のショックからまだ抜け出せずにいたし、健司は依佐子の様子をうかがっているようだった。 「健司、残念じゃが今日の蛙捕りは延期じゃわ」 エビ天をかじりながら、お義父さんが口を開いた。 「ええー!なんで!」 健司が不服そうに、かん高い声をあげる。 「仕方ないだろ、父ちゃんこんなになっちゃったんだから、村の集会に行くんだよ」 そう言った俺の声も、健司に負けずかん高くて、俺は少し驚いた。 「明日連れてってもらえばええよ。休みはあと五日もあるんじゃから」 「いえ」 俺は口を挟んだ。 「明日は、依佐子を連れて一度東京へ戻ります」 「東京へ?なんでまた」 「え?依佐と彰くんでおでかけするの?トーキョーってどこ?」 依佐子が嬉しそうにこっちを見た。俺は箸を置いて続ける。 「東京に、家に帰れば、もしかしたら何か元に戻るヒントがあるかもしれないし、とにかく一度、戻ってみようと思うんです」 お義父さんは少し黙って、何か考えているようだった。エビ天の尻尾が、口から出ている。 俺は、とにかく帰りたかった。東京に帰れば、この非現実的な現実から抜け出られる気がした。この小さな村自体が、現実のものでないように思えた。 とにかく、出たい、ここから。 「わかった。健司は預かっておくから、遅くならんように帰るんじゃよ」 お義父さんはそんな俺の気持ちを見透かしているように、それ以上何も言わなかった。 「ええー!俺だけ置いてけぼりかよぉ!」 健司がまた不服そうに、口を尖らせる。 「健司は明日、おじいちゃんと釣りにでも行かんか?いっぱい連れるぞぉ。いい池があるんじゃよ」 なだめるお義父さんに、依佐子が横から口を挟む。 「健司くんは、お留守番ね!明日は依佐と彰くんがお出かけなんだから」 ねーっ、と言って、嬉しそうに俺に目配せをする。どこかに遊びにでも行くつもりなんだろう。のん気なもんだ。 「ちぇ、のん気だよな、母ちゃんは」 健司がそう言うと、依佐子がきょとんとして、健司の方を見た。 「母ちゃん?」 依佐子が、不思議そうに自分の後ろをキョロキョロと見回す。 俺はハッとした。 そうだ、今は“母ちゃん”じゃ駄目なんだ。しまった、そこまで考えていなかった。 「あ、いや─、依佐子…」 俺は慌ててごまかす言い訳を探した。 「あだ名だよ」 あたふたしている俺を尻目に、健司がしれっと言った。 「依佐子は体がおっきくなったから、“母ちゃん”」 それから健司はお義父さんの方を見て、 「“母ちゃん”の父ちゃんは、しわくちゃになったから“おじいちゃん”」 「ええーっ!あんまり可愛くなぁい!依佐、それなら“ママ”の方がいいなぁ」 ぷぅっと口を膨らませている依佐子に、健司がきっぱりと言う。 「ダメ。もう俺が決めたんだから決定なの。“おじいちゃん”!“母ちゃん”!」 健司はお義父さんと依佐子を順に指差した。 お義父さんはハハハ、と笑った。依佐子はまだ少し不満そうに、口を尖らした。 こういうリアクションは、やはり健司とそっくりだ。 俺は感心して、健司を見た。 うまいこと言うもんだ。依佐子はこんなだし、お義父さんはのん気だし、この中で一番子供なはずの健司が、なんだか唯一、まともに話しのできる頼りがいのある存在に思えてきた。 健司はこんなに大人びていただろうか。やっぱりどことなく、依佐子に似ている。 その日の夕方、村長の源さんの家に集まった村人は、総勢三十人だった。これでこの村のほぼ全住民なのかもしれない。 それでも不思議じゃないくらい、この村は世間離れしている。皆老人ばっかりで、お義父さんに連れられた俺と依佐子と健司に、物珍しそうに次々と声をかけてきた。 こんな異常事態だというのに、やはり村人たちは異常にのん気だ。 「わたしゃ、散歩してたら急に雨に合うてな、長年愛用しとったボロボロのかっぽう着が、なんと新品に戻ったんじゃ!いや~、得したなぁ」 「俺なんて、どこまで伸びるか楽しみにしとった小指の爪が、綺麗に短く戻っちまったわ。もう三センチまでいっとったのに…時雨村初のギネス記録になったかもしれんのに……」 「わたしゃちょっと、背が縮んだ気がするねぇ」 「あんたそりゃ、ただの老化だわ!」 報告会は実にのん気に、なごやかに進行された。ただの井戸端会議と言っても過言ではない。 美枝子さんが持ってきた「もちより」を、皆次々と口にする。一箱に色々な種類のお菓子が詰まった「もちより」は、元々近所のおばさん連中が井戸端会議をする際に、それぞれ家から持ち寄ったお菓子を分けて食べたのが始まりで、今では美枝子さんが作る村の名物お菓子となったらしい。 訊いてもいないのに、見知らぬばあさんが、口からぼろぼろお菓子をこぼしながら説明してくれた。 結局、村人三十人のうち、雨を浴びたのはお義父さんを入れて六人、それに俺と依佐子の二人で計八人だった。毛が生えたとか爪が減った、そういうくだらない被害はどうでもいいとして、体や心が若返ったのは俺と依佐子、そして大橋商店のおばあさんだけのようだ。 朝、田んぼで会ったよくしゃべるおばさんは、収穫間近の稲が若返ってしまったと嘆いていた。 「まぁ、次の雨が降れば元に戻るらしいしねぇ」 「そうそう…」 「そりゃそうだ」 誰かが発したその一言で、あっという間に集会はお開きになり、老人たちは次々に俺や健司の頭をなでて、またなぁ、と帰っていった。 期待はしていなかったものの、やはり何の収穫もなかった。ここの村人は、きっと皆頭のネジをどっかに落として来たに違いない。 「気を落とすなよ、なんとかなるって」 健司が俺の肩に手を置いた。やはり、生意気なところは依佐子似だ。 俺は気力なく、苦笑いを返した。 「おやすみなさぁい」 「はい、おやすみ、依佐。彰君も健司も、おやすみ」 お義父さんが蚊帳を降ろして、部屋を出て行った。 「こどもだけで寝るなんて、なんか楽しいねっ」 依佐子がウキウキした声で言った。 「子供だけじゃないよ、父ちゃんは心は大人なんだから」 健司が言う。 「でも今はこどもの体じゃない」 依佐子が負けじと言い返す。 「それを言うなら、母ちゃんは今は大人の体だろ」 「あ、そっかぁ、なんかややこしいねぇ」 昨日と同じ、隣同士に寝転んだ依佐子と健司が、すっとんきょうな会話を繰り広げる。子供というのは、よくこんなくだらない話しで盛り上がれるもんだ。 「早く寝ろよ、依佐子は明日東京行くんだし、健司も釣り行くんだろ。朝早いぞ」 俺は二人に背を向けて、ぶっきらぼうに言った。 「はぁい!依佐、寝坊したら大変!」 依佐子は勢い良く布団をかぶって、健司も黙って眠りについた。 俺は一人、月明かりのまぶしい庭を眺めていた。 これから一体どうなるんだろう。 明日とにかく東京に戻れば、もしかしたら依佐子だって何か思い出すかもしれない。 いや、そもそもこの村を出れば、すべて元通りになるんじゃないだろうか。あるいはすべて夢で、明日の朝起きればすべて── キシッ ふいに、畳のきしむ音がした。俺はなぜか、とっさに目を閉じた。健司は俺の後ろですでに寝息をたてているし、だとしたら依佐子なのか。 足音は俺の頭上を通り過ぎて、静かに蚊帳をめくった。 俺がそっと目をあけると、昨日と同じ、縁側に座った依佐子の姿が、蚊帳越しに目に入った。 俺はとび起きて、蚊帳をめくって縁側へ出た。 「依佐子!」 「きゃっ」 依佐子は俺の声に驚いて、振り返った。 もしかして、戻った──、のか…!? 「びっくりしたぁ、彰くん、起きてたの?」 俺の期待は一瞬にして打ち砕かれた。 「…何やってんだよ、早く寝ろっつっただろ」 俺が力なく言うと、依佐子は庭のほうへ向き直って、月を見上げた。 「あのね、依佐のママ、今病気で入院してるの」 そういえば依佐子のお母さんは、依佐子が小学一年生の時に入院して、二年生になる頃には確か亡くなっていたはずだ。 「だからね、依佐、ママが帰ってくるまで、パパのお手伝いもするしね、いい子で待ってるの。でも──」 依佐子が少しうつむいた。 「よるになると、たまにとっても寂しくなって、不安になることがあるんだ。そういう時ね、依佐、いっつもここに座って目を閉じるの。そしたらお月様の光があったかくて、虫さんの声がお歌になって、ママが横にいるようなきもちになるの」 依佐子は目を閉じて、にっこり笑った。 その笑顔があまりにも寂しげで、俺は、なんだか依佐子が本当に小さな子供のように思えた。 ひとり寂しさに耐えている、けなげな子供──。 実際、そうだったのだろう、依佐子が子供の頃は。 俺は、依佐子の頭にそっと手を置いた。 ゆるくカールした栗色の髪は、ふんわりと柔らかかった。こんな風に触れたのは、久しぶりな気がする。 依佐子が少し驚いたような顔で、俺のほうを振り返った。 「今日は俺が…、俺と健司がいるから寂しくないだろ」 俺がそう言うと、依佐子は心底嬉しそうに笑った。 「…うん!!」 屈託のない笑顔を向けられ、俺は妙に照れくさくなって依佐子の頭から手を離した。 依佐子がこんな風に笑ったのを見たのは、どれくらいぶりだろう。そういえば、昔はよく笑っていた気がする。 「依佐、おトイレ行ってから寝るね!」 そう言って依佐子は、廊下を走っていった。 俺は縁側から、空を見上げてみた。 少し欠けた月が、明々と輝いている。星も、気持ち悪いくらい大量に煌いていた。 昨日、依佐子はこの縁側に座って、何を思っていたのだろうか。 子供の頃と同じように、月明かりに抱かれて、何か不安を、寂しさをなぐさめていたのだろうか。 “あきら” 昨日、布団の中で俺を呼んだ依佐子の声を、俺は思い出していた。静かな声。 何を言おうとしたんだろう。 やっぱり、離婚、だろうか。 違ったかもしれない。何か、まったく別のことだったのかもしれない。 こんな事になるのなら、あの時ちゃんと話をしておけばよかった。 俺は静かに蚊帳をめくって、布団に戻った。 「父ちゃん」 「わっ」 とっくに寝たと思っていた健司にふいに声をかけられて、今度は俺がドキッとした。 さっきからずっと見ていたのだろうか。俺のほうに向けられた小さな瞳が、月明かりでキラリと光った。 「なんだ健司、まだ起きてたのか」 健司は眠そうに目をこすった。 「母ちゃん、東京の家でもたまにベランダに出て、空みてるんだ。知ってた?」 寝ぼけているのか、健司はとろんとした目つきで、半分寝言のようにそう呟くと、そのまま目を閉じて寝息をたてはじめた。 “知ってた?” 健司の言葉が、なぜか胸を締め付ける。 なんだろう、この気持ちは。何か悪い事をしたような、罪悪感のような、ショックなような…、複雑な痛みが胸を走る。 俺は、年齢に見合った、いやそれ以上と言っても過言ではない程度の稼ぎもあるし、たいして文句も言わないし、子供の教育方針にも口を出さないし、いい夫でありいい父親だと自負している。 むしろいつも文句ばかり言って、嫌味ばかり仕掛けてくるのは依佐子の方だ。 俺が罪悪感など感じる必要なんてないはずなのに。 俺は東京のあのマンションで、ベランダから外を眺めている依佐子の後姿を思い浮かべた。 きっとここみたいに星も多くないし、もしかしたら他のマンションで遮られて、月も見えないかもしれない。 暖かい月明かりに照らされることもない、薄暗く冷たいベランダ。 寂しい空。 “知ってた?” 「…知らなかったよ」 俺は小さく呟いて、ゆっくり目を閉じた。
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