第1話 魔法使い見習い

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第1話 魔法使い見習い

「Fly! paper」  団地の5階の一室で、ヘレナ(ヘレナ・リンド)はテーブルに置いた一枚のティッシュペーパーに向かって叫んだ。その瞬間、ティッシュはふわっとめくれ上がりテーブルの上を滑った。 「飛んだぁ! Mom、飛んだでぇ!」 「OK~ OK~」 キッチンに向かっていたソフィア・リンドは一瞬ヘレナの方を振り向いて返事すると鍋の中のパスタをかき混ぜた。 「ねえねえMom、あたし凄いやろ。Fly魔法成功してんで」 「良かったねえ」   ヘレナの叫び声とともに吐き出された息と、振り回した手でティッシュが滑ったことは解っていたが、幼い娘の夢をへし折る事もない。ソフィアは片手で傍らに来たヘレナの頭を撫でると、 「もうすぐお昼だから、テーブル拭いてくれる?」 と言ってヘレナにテーブルタオルを渡した。 「えー、まだあんねん。次はタオルや。あ、これでやってみよかな」 「拭いたらやっていいよ」 「ほんまぁ?やったぁ」  ヘレナはせっせとテーブルを拭き始めた。ヘレナは4歳。金髪にグリーンの瞳を持つ少女だ。夫とも話し合った結果、ベビーの頃から英語で育てたのだが、幼稚園で関西弁をしっかりマスターして来て、今やチャンポン状態である。ソフィアが英語で話しかけると英語で答えるが、ヘレナから話かけるときは、日本語、それもバリバリの関西弁だ。ソフィアより日本語の語彙力はあるかも知れない。 ソフィアの夫は学生時代に日本のアニメに嵌り、今やヨーロッパからのアニメ聖地巡りとサイクリングツアーの企画、ツアコンを生業(なりわい)としている。最初は東京で仕事を始めたが、近代的な首都圏より歴史文化色の濃い、そして人気アニメ聖地の多い近畿圏の方が人気があるという事で、ヘレナが歩き始めた頃、大阪に引っ越してきた。その結果、ヘレナはすっかり関西弁に染まり、夫婦間では母国・北欧の言語、親から娘へは英語もしくは標準語っぽい日本語、娘から親へは英語もしくは関西弁というマルチリンガルな家庭になってしまったのだ。このカオスぶりは幼稚園でも知られるところとなり、ママ友たちはリンド母子のやり取りをお笑いのように楽しんでいる。  ヘレナは魔法少女アニメの影響か、最近急に『これから魔法使いになる』と宣言し、一人遊びを始めた。幼稚園で聞き齧って来たようで、魔法使いたるもの、まずは飛ばねばならないという。しかし自分が飛ぶのは『たくさん修行が要るねん』だそうで、差し当たってはそこら辺のモノを飛ばすことにチャレンジし始めた。真っ先にお気に入りの絵本『Good Night, Spot』を取り出して、『Fly! Spot』とやりだしたのだが、Spotはビクともしない。そこでヘレナは飛びそうなものを自分なりに物色し、先程のティッシュに辿り着いたようだった。 「せやけどなMom、マット飛ばせへんかったらアラジン乗られへんやろ。タオルの次にお風呂のマット、やってみていい?」 「いいけど、外へ飛ばさないでねー、取りに行くの大変だから」 「ん、判ってる。近くに飛ばすようにするわ」  パスタをフォークでつつきながら、キリッとした表情でヘレナは頷いた。  午後、ヘレナは団地の階段を一人で降りていた。タオル、お風呂マットと魔法チャレンジを続けたヘレナだったが、なかなか上手くゆかない。あかん、これは。パワーが無くなってる。一回、外へ行ってお陽様にパワーもらお。 ヘレナなりの解釈で外へ出ることにしたのだ。しかし、リンド家は最上階にあるため、下に降りるにはたくさんの階段を降りなくてはいけない。ヘレナはえっちらえっちら壁に手を突きながらゆっくり降りていた。最後の踊場を過ぎ、地面が見えてきた。あと、ちょっとや。最後の1段は飛んで降りて、ヘレナが駈け出そうとしたその時、 「ニャーオ」 「ん?」  今降りた階段の方から声が聞こえる。ヘレナはそーっと階段に戻る。あれはネコや…。 すると階段の影から、トボトボと金色のネコが出てきた。ヘレナは思わず後ずさる。一人でネコと向かい合うのは初めてだ。ネコは立ち止まってヘレナを値踏みするように眺める。ヘレナは少々腰が引けていたが、しかし4歳児にしては毅然とした声で話しかけた。 「あたし、ヘレナやで。あんた、ネコやろ。あたし知ってんねん」 「ナーォ」 ここは頑張らなあかん。ヘレナはグリーンの目でネコを睨みつける。 「あたし、魔法使いになるんやから、ネコはあたしの言うことを聞かんとあかん」 「ニャー」  金髪の4歳児とネコの対峙は暫く続いたが、やがてネコは飽きたかのようにプイっと横を向くと、トボトボと歩いて行った。 「はぁーっ…」  勝った…、今はパワーあらへんからしんどかった。せやから大きなネコにはなかなか通用せぇへん。あれが金色のちっちゃいネコやったら、すぐあたしに懐く筈や。せや、あたしは黒ネコはやめとこ。金色がええ、Golden kitten。 これやったら大丈夫や。どこから来るのかヘレナは妙な自信を持った。 「よし、Momに言うとこ」  今降りてきたばかりの階段を、ヘレナはやっこらやっこら登り始めた。
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