夢見男に寄せる波

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 どうやら水辺に寝転んでいるらしい。頭の下に敷いた手の感触からすると、砂浜か。裸足の踵をひたひたと、ぬるいさざ波が(もてあそ)んでいる。少し勢いのいいやつは、たまに足の裏を駆け上がる。天に向けた爪先までひんやりするのは、そのせいだ。かといって寒くはないが、暖かくもない。瞼の裏は血潮も透かさず、暗い。白昼の曇天なのか闇夜なのか、目を()けないので分からない。   何も見ずに言うのもどうかとは思う。しかし穏やかすぎて困るから、この場所にはどうしても、物申さないと。     ――おまえには、もっと怖い顔をしていてもらわなきゃ。    ****   とぷん、と静かな水音。それに一拍遅れて、声がした。    「起きなさい」     ――求めた「怖い顔」と、違うなあ。母さんか。いつもの癖で、俺を起こしに来たな。でも今日は起きなくていい日、だろ。剥ぎ取る布団がなくて残念だったね。……そんなことを言ったら逆に、布団に入れって怒られるか。やめとこう。   俺は一度眠ったら、目覚まし時計の金切り声にもなかなか反応できない。あの手この手で起こそうとする母さんが面白くて、わざと寝ているふりをしたこともあった。でも部屋が静かになったと思ったら、ランドセルの留め金を触る音がして、慌てて飛び起きたっけ。過去最低点のテストを隠していたからな。結局、狸寝入りも、三十点もバレて、叱られるはめになった。   あのとき母さんは、ちゃんと一人で起きなさいとか、もっと勉強しなさいとか、言ったかな? 俺が子どもを叱るなら、きっとそう言う。だけど母さんからは……嘘だけはつかないように、そんな意味の言葉しか、聞かなかった気がする。俺はその言いつけを守って、余分に勉強はしなくても、宿題を済ませたことにして遊びに出かけるのはやめた。水泳教室の先生が嫌いだからって、仮病を使うことも。それだけでも、テストの点数は上がった。体力もつき、思い通りに動けるという自信が、ほかの競技にも気後れなしに取り組ませてくれた。並以上の成績が取れるようになったのは、俺の扱いを心得た、母さんのお陰だったか。   今頃それに気が付くなんて。俺は良い親にはなれそうにないな。そういえば俺が初恋の女の子に手紙を書いていたとき、いつの間にか後ろに立っていた母さんが「孫の顔が楽しみね」なんて破顔して、気が早すぎると――言いつつまんざらでもなさそうな――父さんに苦笑いされてた。あれも、俺への愛情の一部だったんだろう。今はそう推測できる……理解までは、まだ。   俺は「良い親」以前に、大人にもなりきれていない。実の子の俺を通り越して、孫が楽しみなんてと拗ねた、あの日の俺をまだ、胸に住まわせている。      ****     足首に纏いついた波が、くるぶしを控えめに叩いて、ぺちん、と音を立てた。    「おい、起きろ」     今度は父さんか。だから起きないって。今日は起きなくていい日なんだから。   朝、父さんに起こされるようになったのは、中学に上がってからだっけ? 通勤ラッシュの道路に車を走らせる父さんは、俺より早く家を出る。それに合わせて起こされるんで、俺の寝起きは小学生時代より悪かった。父さんは父さんで、自分の支度に忙しく、母さんほど何回も俺を起こしには来てくれない。慣れない頃は、二度寝して遅刻した。あ、これ、父さんには言わなかったことだ。嘘はつかない代わりに、本当のことを言い出せもしなかった。やましいこと抜きにしても、父さんと多くを語ることはしなかったな。   べつに、仲が悪かったわけじゃない。俺は父さんが目を合わせてくれないから、話しづらかっただけ。俺の目は誰に言わせても、母さんに瓜二つ。それを(うと)ましがられたなら、険悪な関係にもなっただろうが、父さんの気持ちはきっと正反対だった。   その証拠に、中学校の卒業式にも、高校の入学式にも、父さんは来てくれた。断ったのに、わざわざ仕事を休んでまで。校門の横で向けられたカメラは、抑揚を欠いた合図の声に反して、持ち主の口角が上がっているのを隠せていなかった。それがおかしくて、つい笑ってしまったんだ。父さんは写真を見て「年相応、良い笑顔だな」とからかい口調で、にやけた自覚がなかったようだけど。   まあ、年季の入ったカメラの仕事にしては、綺麗に撮れていた。さすが写真が趣味と言うだけあって、普段の倍くらい口の()の吊り上がった俺が、ばっちりと。高校を卒業するときも、同じ事態になりそうだと思ったよ。アルバイトでもして、新しいカメラくらいプレゼントしなきゃいけないなって、そんなことも考えた。孝行な息子だろ? 入った高校がバイト禁止だったせいで、企画倒れに終わったけどさ。でも、あれから三年待ってくれれば。俺が大学に進むか就職するのを待ってくれれば、間違いなく実行できたのに。
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