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街灯
少女は天井を眺めていた。と言ってもそれは客観的に少女を描写した結果のことで、実際には部屋は暗く、少女の目には闇が映るばかりだ。何も見えない。ただ、少女の両目はしっかりと開かれている。かきくらすような闇。その中心に、少女は仰向けに浮かんでいた。世の中の事柄から解き放たれ、重力をさえ無視し、浮遊する。少女はそんな気分であった。
少女は三日前、父を亡くした。少女は十七歳で、父は四十五歳だった。大好きな父であった。父は幼い頃から少女を様々な所へ連れ出した。休日は父の運転する車で夏には野営や海へ、冬にはスキーなどへ出かけた。父の運転する車はどれよりも早く、同行する家族などがあった時には、いつも二十分以上は早く目的地に到着した。よく笑う父で、何時もおどけたことを言っては皆を笑わせた。しかし、心配性で責任感も強かった。少女は山中でオオスズメバチに襲われた時に、父が慌てた様子で「動くんじゃないぞ!」と何度も言っていたことなどを何となく思い出していた。
少女は父から自然のこと、人のこと、真っ直ぐ生きてゆくことなどを学んだ。父の男気を受け継ぎ、少女は勝気で男勝りに育ち、天真爛漫といった趣であった。しかし、その父をなくした今、彼女は傍から見ても明らかな程に落ち込み、憔悴してしまっていた。実際少女は吹奏楽部の部長であり、女社会の中で頼られつつも疎まれ、最近の定期演奏会の準備に於いては、「あなた達が、私が振り分けた仕事をやらないからこんなに大変な事になっているのでしょう!」等ときつい物言い等もすることもあり、「そんな言い方する必要無いじゃない!」と泣きながら言われ、何と言うべきか、損な役回りも買いつつ一目置かれていたのだが、そんな爛々と輝く少女の光は、もうそこには無かった。部活動の仲間は少女がしおらしく、定期演奏会の諸々の仕事を彼女らに一任させて欲しいと来た時にただ頷くしか無かったし、弔問に来る人々は、その表情や仕草から彼女の心中を察知し、かける言葉も見つからず、皆が皆いたたまれぬ気持ちとなった。
父は癌だった。発見された時には既にかなり進行が進んでおり、全身に転移していた。余命六ヶ月という宣告だった。父は最後まで父らしかった。弱音のひとつも吐かなかった。「ちくしょう見てろよ、病気なんてぶっ飛ばしてやる!」と、故意に乱暴な言葉遣いをし、自分を、そして何より家族を励まそうとしていたようであった。俺の生き様を見ろ、と言わんばかりに最後まで闘った。その結果、宣告から一年余り生きたが、死んでしまった。
少女は父の死を覚悟していたつもりだった。母の気苦労も察していた。父と母はずっと仲が良かった。父が入院することになってから、父と母は上手く形容出来ないが、すごい家族を作っていたんだな、と改めて感じた。少女には三つ下の弟もいた。父にもしもの事があれば、自分がしっかりしなければと思っていた。しかし、いざ父が死ぬとそんな覚悟は全く無意味なものだった。覚悟をしているからある程度は大丈夫、とたかを括っていた自分の心は、あまりにも脆く崩れ、そのことに対して驚きを自ら覚えてしまう程だった。麻痺した心に現実は重すぎるのか、少女は父の死を受け入れられているのか自分でも分からず、悲しみと困惑とを繰り返した。
少女は朝が嫌いになった。夜、混沌とした気持ちを抱えながらも眠りにつく。すると、朝が来る。この朝が、夜の時間よりもむしろ辛かった。太陽が登り、光線が部屋を照らし、一時的に家に帰ってきている父の棺を照らす。それが父の死を、あからさまな現実として少女に意識させるのだ。また、朝になると少女は学校へ行かなければならなかった。学校では先生や友人が慰めの言葉をかけてくれた。それは有難いことであったが、彼等の笑顔は、寂しい、対岸の灯火であった。幸せそうな家に灯る暖かい灯。しかし、少女とその間には、大きく冷たい流れがあった。
朝も辛ければ、当然日中も辛いという道理であろう。明るい光が世の中を照らすと、影ができる。そして少女には、自分がその影の部分に居る、そんなことが強く意識された。自分だけが置いていかれている、と。彼女は闇に囚われていった。夜は誰しもに平等に訪れ、平等に闇をもたらす。他のものが目や耳に入ってこないぶん、楽だった。元来は好きであったアイドル・ユニットの曲もめっきり聞かなくなった。ポップソングの爽快なリズムや、生来の能天気者のような詞は、少女の心を癒すことはなかった。少女は、素朴で、切ないものにむしろ安らぎを覚えるようになった。秋の虫の音、枯葉の木枯らしに遊ぶ音。帰路はわざと遠回りをして、あえて人通りの少ない、ボンヤリとした電灯が頼りなく光るだけの、近隣公園の脇を通った。冷たく光る水飲み場や、人の居なくなったひっそりとした公民館等を横目に通り過ぎた。そして家に帰ると、父の眠るその部屋で闇に身を浮かべ、自然に零れる涙を使い切り、眠りに落ちた。夜の馬は早く駈けた。
父が死んで四日後。彼女は少しずつ、日常に戻る努力を始めた。SNSに来ていたメッセージを、少しずつ返し、また、人と会って話すこともした。皆は少女に優しく接してくれた。悲しみを共有することもあったが、しかしそれも束の間のことであった。彼女たちのSNSは放課後、少女と別れたとたんに煌びやかな投稿で溢れた。それは少女にとって温もりのない灯。自分の立つ岸の、荒涼というより他ないその風景をぼんやりと浮かび上がらせるだけだった。少女の身に降りかかった不幸はまた、彼女たちにとっても対岸の火事に過ぎなかったのであった。少女はそれらを見ることをやめた。
彼女にはボーイフレンドがいた。彼はとても優しい男だった。あるいは天然といわれるような性質の持ち主だったのかも知れない。どちらにせよ彼は、父の死後も、気まずさを露わにしたり、少女に対する距離を敢えて取ったりするような素振りを見せる事無く、少女に向き合おうとした。彼は返信が無くとも少女に頻繁にメッセージを送り、電話も掛けた。少女はそのことについて、ある程度有難く感じていた。彼の偽りのない優しさを彼女もまた偽るところなく享受した。しかし、父が死んで五日後、父の死後初めて彼と会った際に、「会いたかった。」と言われた時には少女は妙に冷めた気分に陥ってしまった。少女ももちろん彼に会いたかったはずであった。彼が少女に会いたかったという気持ちも当然だと少女は認知した。しかし、会いたい、というのは彼本位の感情ではないか。結局のところ彼も私の苦しみを想像できていない。私だけが取り残されている、という悲壮な心持は癒えることが無かった。帰宅すると彼女はただ、闇の中、父の棺の前に項垂れた。
父が死んで六日目。この日も少女は父の遺体の隣に簡易布団を敷き、佇んでいた。今日が父と過ごす最後の夜であった。一時的に帰宅していた父の遺体は、明日早くに湯灌のために葬儀屋が引き取る手筈となっていた。少女は恐ろしかった。昏い昏い闇の中、ただそこにあった父の遺体。父の体は実際には冷え切って冷たいはずであった。しかし、少女にとって、父と過ごす夜は、日中よりも心休まるものであった。それ故、父が居なくなってしまったら、自分はどうなってしまうのだろう、と恐ろしくて堪らなかった。秒針を刻む時計の音が気に障る。時刻は四時を回っていた。父が居なくなる。そしてこの家に帰ってくることは、二度とない...。少女の神経過敏が頂点に達し、いよいよ時計を取り外そうと椅子を時計の真下に据えたその時だった。唐突に少女は背後に、微かな温もりを感じた。ゆっくりと振り返るが何もない。しかし、その温もりはどうやら父の棺あたりから感じられるようだ。「お父さん?」そう言って少女は棺を開いた。棺の中の遺体をのぞき込むと、父の遺体が、発光していた。少女は驚いたが、その異常の光景を少しも不審と思う事は無く、自然と受け入れていた。父の体は、淡い黄色の光に包まれていた。太陽を目いっぱい浴びて育った檸檬のような明るさで、しかし蛍の放つ微光のような切なさも含んだ、そんな色で、光っていた。暖かい、光だった。「お父さん。」少女はもう一度呼びかけた。父を包む光はゆっくりと次第に小さくなり、ついには消えた。少女はしばらく呆然としていた。何時になく穏やかな気持ちであった。そのうちにまどろみが少女を襲い、引き込まれるように床へ就いた。
父はあくる朝、運び出されていった。少女は思ったよりも落ち着いた心持ちで父を見送った。それから葬儀まで少女はまた日常を過ごした。それまでは忙しく、せわしなかった。弔問客の前でも幾らか気丈に振る舞った。しかし、父の葬儀では人目を憚らず号泣した。荼毘の段になると、今までの父との思い出が沸騰した水から湧き出す気泡の様に溢れ出し、それは嗚咽となり彼女の口から漏れた。参列者の多くが、その様子を見、つられて涙した。火葬後は幾らか気分が落ち着いていた。父は灰になってみると、驚くほど質的に少なく、涙も出ない程に呆気なかった。
葬儀が全て終わると、少女は本当の日常に真の意味で戻っていかなければならなかった。具体的には、長く休んでいたアルバイトにも出勤し、ボーイフレンドとも、会うようになった。学校も休まずに毎日行ったが、相変わらず、日中の世界には、溶け込めた気はしないでいた。
葬儀から二週間ほど経ったある日の放課後、それまでは遠慮気味に遠くから少女を見守っていた友人たちが、意を決した様子で、少女を誘った。「放課後、人気のカフェに行くけど、来ない?」少女はその気遣いを有り難く受け止めた。そして、笑顔で、丁重に辞退した。「ありがとう、本当に嬉しい。でも、今日は家族で用事があるの。ごめん。今度私から、絶対誘うから。」「そっか、うんん、お誘い、待ってるね。」「うん、じゃあまたね。」少女の予定は、嘘であった。少女には人気のカフェを楽しむ自信がなかったのだ。きらきらと店内を照らす、人口の光。「耐えられそうもないな。」と少女は切なげな微笑のうちに一人呟いた。
少女はその日、誘いを断った友人たちと下校時刻をずらそう、また、今日は何となく街を練り歩き放課後を謳歌する学生の数々を目に入れたくない、と思い、普段とは違って日が傾くまで学校に居ることに決めた。しかし、教室に居てもする事もないので、彼女は当てもなく校内をゆっくりと巡回することにした。少女は、人が居なくなった校内は、今の彼女にとって課中のそれよりもずいぶん心休まるところであるということに気づいた。どの教室の机や椅子も、今日の役目を終え、物音一つ立てずに瞑想するかのように佇んでいる。その上には、誰が忘れたのか、中身の分からない巾着袋が放置されていたりもする。少女はそれ等の残留物に親近感を感じた。少女はクラス教室のある中央棟をひとしきり回った後、普段は余り行くことのない西棟にも足を伸ばしてみた。一階から順々に見て回り、理科実験室や音楽室、用途不明の会議室などを通り過ぎた。西棟には移動教室の授業の為の教室が並んでおり、そのほとんどが施錠され、無機質な印象を放っていた。
少女は遂に西棟の最上階である三階に至った。滅多に来ることの無い場所であった。歩みを進めて行くと、校舎の一番奥、突き当りの教室に、他の教室とは異なり、人の気配を感じた。ゆっくりと近づくと、美術室、と札がかかっている。少女は芸術選択を音楽としていたため、美術室がここにあることを知らなかった。彼女は新鮮に思い、教室に近づいた。他の教室とは違って、油絵の具の鼻をつく臭いがした事も、彼女の新鮮な気持ちを引き立てたのかもしれない。彼女はドアの手前まで来ると、そっと中を覗き見てみた。中には、少年が立っていた。西日で染まる教室の真ん中に、一人、キャンバスと向き合っている。キャンバスは少女の視点と平行の位置関係にあり、その内容を伺い知ることはできない。少女はしばらく少年の様子を見ていた。すると、少女の気配に少年が気づき、目があった。少年の目は、少し驚いた様子だったが、彼女を歓迎している風でもあった。すくなくとも、拒否や敵意の意思は感じられないようであった。こういう場合、彼がどんな絵を描いているかを誰しもが知りたいと思うだろう。少女は勇気を出して、教室の中に入っていった。
少年は、少女が入って来たことに対して別段の関心を払っていないようであった。次の一筆を考えているのだろう、筆を持っている方の手の甲を顎にあてがう独特のポーズでとる小休止を除いて、黙々とキャンバスに色を塗る手を止めない。少女は彼の邪魔をしないよう静かに後ろに回り込み、彼の描いている絵を覗き込んだ。それは、室内の椅子に座る女の絵だった。薄暗い部屋に憂いた表情で腰かける女の絵だ。それだけでも十分魅力的な絵であったが、少女が惹かれたのは別の点であった。憂うような女の横顔が、見る者の視線を誘導するように窓の外を向いている。その視線の先には、大きな川と、遠方の山脈が描かれていた。非常に写実的と言えるが、どこか実際の山や川などよりも柔らかな印象を与える絵だった。少女は絵画に全く疎かったのだが、なんとなくこれは人物画ではなく、風景画だ、と思った。そして、「綺麗な風景。」と呟いた。少年はキャンバスを向いたまま、「光が、重要なんだ。」と言った。
そう言われてみると、彼の絵の写実性は、光の描き方に由来しているような気がした。川の水面を照らす光が、少女に川の流れの穏やかな様子や、その表面が一瞬一瞬輝きを絶えず変える様子をありありと想起させた。遠方にかすむ山。少年は光を用い、そこに確かに存在するのだが、肉眼ではとらえることのできない重厚な空気の層までもを見事に描き出していた。なんて柔らかな光。それに照らされて、自然の息遣いが聞こえてくるようだ。少女は彼の絵に魅せられた。そして殆ど思い付きで私も絵を描こう、と思ったのだった。全く脈絡のない発言のようでもあるが、少女は無意識のうちに幾分手持ち無沙汰を感じて来ていたのであろう。父の死後、以前のように吹奏楽にも熱が入らず、そのまま辞めてしまい、根無し草の如く生活を営んでいた少女は何か新鮮なものを求めていたのかもしれない。そして、放課後の学校で一人静かに描くことが出来る油絵の様なものは、実際うってつけだったのである。ともかくも、少女は「私も絵を描きたい。」と、少年の背中に向かって言ったのだった。少年はゆっくりと少女に向き直った。「美術部、僕しか居ないから、いつでも来なよ。」そして、そういう少年は驚いたことに、光を放っていた。正確にはぎりぎりまで傾いた西日を斜め後ろから受け、今までに見たどんな自然光よりも優しい、オレンジ色の光を身にまとっていた。それが少女には、あたかも少年自身が発しているかのように映った。少女はハッとして、彼の応答にまた応答を返すことが出来なかった。少年はまたゆっくりと体の向きを変え、キャンバスに向き直った。少女はその背中を暫く見ていた。
こうして少女は、放課後に美術室に通うようになった。少年は絵の基礎的な技術を彼女に教え、また、美術についての雑学なども、時に語った。「ヤン・ファン・エイクって画家が好きなんだ。十五世紀のフランドルの画家なんだけどね。彼以前の時代って、卵テンペラって言って、顔料を卵黄に溶かして作った絵具で絵を描いていたんだ。卵黄を使うから、どうしても透明度に欠けてしまう。そこでヤン・ファン・エイクは油絵具を発明し、絵画技術に確信をもたらしたんだ。彼の絵は、まさに光と空気の絵画だよ。あ、ちなみにテンペラ時代は卵黄を使うから、アトリエはひどい匂いだったらしい。そんなだったら、君がここに来ることもなかったかもしれないね。」少女は「ふふ。」とこんな話を黙って聞いた。少年は普段は静かだったが、時折こんな風に妙に饒舌に話した。少女はそんな少年に好感を抱いた。
少年が黙っている時には、少女も黙々と絵を描いた。いくつか少年のレッスンを受けた後は、少女は自分の作品を描き始めた。その頃には、初めて少女が美術室を訪れてから、一か月が過ぎていた。窓から見える木々も葉を落とし、木枯らしがそれらを巻き上げていた。少女は作品が完成するまで少年には絵を見ないで欲しいと頼んだ。少年はそれを了解し、「完成が楽しみだね。」と言った。
毎日毎日美術室に通い、絵を描いた。そして、絵は遂に完成した。二人だけのお披露目会であった。少女がキャンバスにかかる布を取ると、現れたのは全体的に暗い色調の絵だった。キャンバスの真ん中よりも少し左に寄った所には、細く寂しげな一本道が、緩やかに蛇行しながら消失点に消えて行く。その道は、土手であろうか、周りよりは少し小高い所に伸びているようだ。道のこちらに近い方では、その両脇に深い緑色で、背の低い草があしらわれているのが辛うじて分かる。右側の部分には、川が流れているのだろうか。その事実も明瞭とならない程、背景は黒に近い暗色が敷き詰められていた。その暗色は、ヴィンセント・ファン・ゴッホを思わせるようなタッチで、しかし彼の色彩感覚とは正反対とも言える重々しさで、寂しい一本道を覆ってしまおうというように塗り重ねられ、画面全体に敷き詰められている。そしてその絵には、ひとつのものを除いて道と闇以外何も無かった。
ひとつのもの。それは、一本の街灯だった。旧式のガス灯だ。蛇行する道のやや奥の方、左側にぽつんと立っている。そしてそのランプの中には、小さなオレンジ色の火が灯っている。よく見てみると、あの日少年を照らした西日によく似た色だ。光は、ランプを中心として、また例のゴッホのタッチで周囲の暗闇をじわじわと解くように円形に拡散している。光は外縁部に至るにつれ薄く黄色がかってきて、それはあの日の父の檸檬色、蛍火色とも良く似ているようだ。灯った小さな光が、暗闇を吸い取っていくかのように、境界は曖昧だ。ゴッホといったのはあくまで喩えの話であり、それは実際拙い絵だったのだが、少年は、「街灯の灯が綺麗だね。うん、いい絵だ。」と言った。「ありがとう。」と少女ははにかみ、応えた。
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