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「よくも、まあ、敷居を跨げたもんだ」
「本当に、自分でもそう思います……」
お好きにどうぞと言われはしたが、どの面下げて会いに来たんだと突き返されてもおかしくはなかった。だが、葵は特に咎めることはしてこない。
「葵ちゃんは、ほんまに優しいからなあ。ほんでも、女将さんにも言わんと、よお許しはったと思うわ」
「……べつに、女将に言わんでもええことやと思うただけどす」
「そやけど。葵ちゃん、そういうん許さへんていつも言うとるさかいに……なんやら不思議やわあ」
菊乃は、葵を見つめて首を傾げている。
「うんうん。本当は、葵くんも土門のことが好きなんじゃないのか? なんて、な! ははは! 痛っ、菊乃、痛い!」
冗談を言った剣持の手の甲を、菊乃が抓った。葵は何も言わず、黙って静かに座っているだけだ。
「ひどいじゃないか、菊乃!」
「かんにんえ。――ほな……」
悲しい表情をする剣持に、菊乃は抓った手の甲を優しく撫で、綺麗な手で包んだ。途端に、剣持は表情を明るくして鼻の下を伸ばした。
その様子を隣で見ていたおれは、二人も相変わらずだと思うと同時に羨ましいと思った。葵も、菊乃くらい媚を売ってくれたら良いのにな。
静かに佇んでいる葵をちらりと窺った。今夜はまだ笑顔を見ていない。もう、この先も、おれに笑顔を向けてくれることはないのだろうか。
そう思ってお猪口の中身を一気に呷ると、サッと葵が酌をしてくれた。虚しい気持ちになりながらも、葵に酌をしてもらえるだけ幸せなことだなと思い直したのだった。
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