菜々美の涙

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菜々美の涙

 なんにもする気になれなくて、家に引きこもって数ヶ月…。 私は、どんどん家から一人で出られなくなっていた。 付き添ってくれる家族がいたら、そんなに抵抗なく出かけられるのに…一人だと凄く息が苦しくなる。こんなことではいけないと思っているけど、自分でもどうしようも無くなっていた。  旦那が、出張で今夜は帰らないこともあって…娘の美花が、引きこもってる私を心配してくれたのか、自分が良く行くええお店があるからと…半ば強引に『オカンの店』という飲み屋に私は連れて来られていた。 *****************    「おかえり~」  店の戸を開けて美花が中へ入ると、私よりひとまわりくらい歳が上やろうと思える店主が、にこにこ笑って迎えてくれていた。 「オカンただいま~。今日は、私のオカンを連れて来てん」  美花は、店主を『オカン』と呼んでいるようやった。そして、慣れた様子で私を紹介してから勝手に空いている座敷に座った。 美花は、私が十八の時に産んだ子なので…最近では、私を『菜々美ちゃん』と呼んでいる。 もちろん、分別のある子やから…キチンとした場所では『お母さん』と呼んで使い分けてくれてるので、特に私も抵抗は無かった。 「もうすぐ宗ちゃんも帰って来るから、会ってやってな♪」  美花には、最近…付き合い始めた彼と私を対面させる事も目的だったらしくて、少しそわそわしている。二十六歳になるまで、特に付き合ってる人を紹介された事も無かったから、色恋には興味が無いのかと諦めていたんやけど…最近、お付き合いしてる人が居ると美花から聞かされて少し私も旦那もホッとしていた。 「菜々美ちゃんも夜定食♪ 食べるやんな! 今日の夜定食は、ブリの照り焼きと豚汁や! オカンの夜定食は美味しいねんで♪」 美花は、そう言ってオカンに夜定食を二人分頼んでいた。 ふと、隣の座敷のテーブルの下を見ると…座布団の上でクルンっと丸まって子猫が気持ち良さそうに眠っている。 「可愛いな~、あの子猫が……がんもちゃん?」 「そうやで。あれががんもや! 可愛いやろ?」  最近、良く話に出てくるがんもという子猫やった。美花は、寝ている子猫を起こさんように私の質問に小声で答えてくれていた。 「ええお店やね。美花が、仕事終わってもなかなか帰ってこん訳やわ」 私が、店を見渡して少し笑うと…夜定食を運んで来たオカンも、ニコニコと私を見て笑っていた。 「ほんま美花ちゃんには、いつもお世話になってます~」 オカンはそう言うと、私の手を握って頭を下げた。私も慌ててこちらこそと言って頭を下げていた。  夜定食を食べながら、美花は私の顔を少し覗き込んでニィっと笑うと少し小声で話し出した。 「菜々美ちゃん。最近、元気無かったから少し心配でな。私もついつい帰りが遅くなってばっかりで、話もろくに出来んかったから悪いなぁ~とは思ってたんやで…大丈夫?」 美花は、少し苦笑いしながら私の顔を覗き込んでいた。 「ごめんな~。心配させてしもて。今の私は、自分でもどうしようもないから、美花は美花でしっかりやってくれたらええんよ」 「だから心配なんよ~。菜々美ちゃん、なんか抜け殻みたいやねんもん!」  私が投げやりな返事をしたので、余計に美花は心配して少し強い口調で答えていた。それでも、どうして私がこうなったかとか…今は、上手く考えられへんし考えたくもなかった。  別に家族に不満があるわけでもないんやけど…兎に角、外に一人で出るのが怖いというか息苦しい。酷い時は吐き気がしてめまいもする。まだまだ働き盛りやというのに、こんな状態では仕事にも出れなくて…余計に塞ぎ込んでしまうのに同仕様もなかった。  しばらくすると、店の戸が勢い良く開いて男性客が二人で入って来た。 「ただいま~! がんもに猫缶買って来たで~!」  私が美花の顔を見ると、美花は私を見てうんうんと頷いて手を降って彼を座敷へ呼んでいた。 「こうちゃんもこっちに来て座って! 宗ちゃんが一人やと緊張するから!」 「え? ほんまに一緒に座ってええんか?」 「菜々美ちゃんもええやんな♪ こうちゃん面白いし、話しやすいねんで!」  美花は、彼氏の連れも座敷に呼んで嬉しそうにニコニコ笑って二人を並んで座らせていた。 なんか昔を思い出すわ……。やんちゃしてた頃のこと。  高校を中退して、勝手に働き出して家に帰りたくなかったから、寮生活を始めて、私も美花みたいに仕事が終わったらこんな飲み屋でご飯を食べながら、友人たちとわいわい楽しく過ごしてた。懐かしいなぁ~…あの頃は、寝る間も惜しんで仕事が終わったら遊んでた。それが今では、引きこもりなんやから人間ってほんまわからんよね。  私が物思いにふけっていると、彼氏が畏まって私に深々と頭を下げて挨拶を始めた。 「初めまして。一ノ瀬宗次郎(いちのせそうじろう)と言います。美花さんとは結婚を前提にお付き合いさせてもろてます。ご挨拶が遅れてしまって、すみませんでした」 美花の彼氏は、私を真っ直ぐに見てしっかりとした挨拶をしてくれた。美花が好きになっただけのことはあるわと感心してると、美花が照れ臭そうに彼氏の背中を叩いていた。 「もう~! 宗ちゃん硬すぎるわ。菜々美ちゃんが固まってしもてるやん!」 「そんなこと無いよ♪ しっかりした挨拶してもらって、安心して美花を任せられるなぁ~♪って感心してたんよ」 私は、美花の頭を少し軽く小突きながら…私も宗ちゃんに向かって、深々と頭を下げてよろしくお願いしますと挨拶をしておいた。 きっとこの人が、美花の旦那さんになるって思ったからね。 ******************  隣のテーブルの下で寝ていたがんもが、いつの間にか起き上がって私のすぐ側まで来ていた。 「ミャーンミャーン……」 ついつい手を差し出してしもたんやけど、がんもが逃げなかったから私はそのまま膝へ抱っこしてやった。 「おとなしい子やなぁ~♪ ほんま賢い子やわ~」  私が、がんもを撫でながら感心してると…オカンが嬉しそうにこっちを見て笑って手招きをしていた。 「良かったら若いもんは若いもんで放っておいて、こっちで一緒に飲まへんかな? 今日はお客さん少なめやから私も手持ち無沙汰やねん♪」  カウンターの方へ来るようにオカンが誘ってくれたから、私はそうさせてもらうことにした。若い子らは、楽しそうにがんもを肴にして賑やかに騒ぎ出した。ほんまみんな仲がええねんなぁ~って私が笑ったら、カウンターに居たお客さんもニッコリと頷いていた。 そして、隣に座っていた初老の男性が笑いながら「いつでもまたここへ帰って来たくなるんやで」と言って笑った。 確かに、ここなら一人でも来たくなりそうな気がする。こんな気持ちは久し振りやった。もしかしたら、少し私も頑張れそうな気がしてきた。 「菜々美ちゃんは、引きこもりやからっいうて美花ちゃんがえらい心配してたから私も心配しててんけどな。ここやったら大丈夫なんちゃう?」 そう言いながらオカンは、私がお酒を飲めないのをわかっていたのか? ローズヒップティーを出してくれた。ローズヒップティーは、私の好きなリラックス効果のあるハーブティーやと美花から話を聞いていて、オカンは用意しておいてくれたらしい。 「今日は、美花が一緒やったからここまで来れただけで。一人やと玄関先で気分が悪くなってしまって外へ出れないんです。…ほんま情けないですよね」 ほんまに自分が情けなくて、ため息混じりに私が答えると…オカンは、にっこり笑って熱いおしぼりを私に渡した。 「無理する必要ない。そういう事もあるんちゃう? 人間は機械じゃないんよ、焦らんと少しずつ自分の心と身体に付き合ってやればええんちゃうかな? 無理したらアカンで!」 こんな風に言ってくれた人は、初めてだったので…私は、我慢してたものが全部込み上げてくる感じで目から自然と涙がこぼれ落ちていた。 「菜々美は十八で子供産んで、がむしゃらに頑張ってきたもんやから…ぴーんと貼った糸が緩んでしまったんやろなぁ~」  急に後ろから知った声がして、振り向くと幼馴染の健ちゃんが立っていた。健ちゃんは、この店の古くからの常連やったらしくて…美花から私の話を聞いて心配になって、ここへ連れてくるように言うてくれて会社の帰りにわざわざ寄ってくれたらしい。 「お父ちゃんでは、どうにもならんこともあると思ったしな♪」 美花は、笑いながら私と健ちゃんに手を振っていた。 そうやね……。確かに旦那では、これはどうしようもないんよね。連れ添った相手に弱音はなかなか吐かれへんからね。 美花も大人になって、好きな人が出来て…なんとなく私の気持ちを少しわかってくれたんかもと思うとまた泣けて来た。  自分で言うのも何やけど…ええ子に育ってくれてほんまありがとうって言いたい。女の子産んでおいてほんま良かった。 「健ちゃんありがとう。また、少し頑張れそうな気がして来たわ」 「無理したらアカンで。ゆっくりでええんやで? 頑張りすぎたらアカンで」  健ちゃんは、そう言って昔みたいに私の頭を優しく撫でてくれていた。久し振りに涙を流したら、もやもやしていた頭がスッキリしていた。なかなか家では泣けないしね。 スマホのメールの着信音が鳴って、確認すると旦那さんからだった。 [美花のお陰で少しは気分転換出来たか? 無理せんでええからな♪ あんまり考え込むなよ] メールの内容は、珍しく甘い内容だった。美花がきっと旦那に断りを入れてから、ここへ連れて来てくれたんやね。 「ほんま親の性格を良く理解してる娘やわ」 「ほんま羨ましいわ。私も、美花ちゃんみたいな娘がもう一人欲しかったわ~」 私が涙を拭きながら呟くと、オカンも少ししんみりしていた。 「何言うてんねん! オカンにはこんなにようさん娘も息子もおるやん!」 しんみりしてるオカンに向かって、こうちゃんが両手を振って叫んでいた。 「そしたら…私は、オカンの妹にしてもらおうかな?」 「ほんまに? 私も、歳の離れた妹が欲しかったから嬉しいわ~」 ***********************  いつの間にか、私も暗い気持ちはどこかに消えて少し心の中が明るくなっていた。今すぐには、無理かもしれへんけど…多分、近いうちに私は一人でも『オカンの店』まで帰れるようになりそうな気がしていた。 閉店時間になって、私がお礼を言って店を出ると… 「おやすみ~♪ 良い夢見るんやで♪ いつでも帰っておいで~」 そう言って、オカンは手を振って私のことを見えなくなるまで見送ってくれていた。 そしてその夜…私は、久し振りに本当に良い夢を見てグッスリと眠れた。
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