宗次郎

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宗次郎

「おかえり~! 寒かったやろ? ほらほら、コート脱いで早く座って温まり~!」  店の中へ入ると50代後半位の小柄で小太りなママさんが、ちょうど入口の前にいて…笑顔でコートを脱がせてくれてからカウンターの空いた席まで案内してくれた。 「今日も一日、お疲れ様~! ゆっくりしていってや~!」 そう言ってママさんは、カウンター越しに温かいおしぼりを広げて僕に手渡してくれていた。  会社帰りに…いつもやったら通らへん裏道にたまたま今日は考え事をしていたから1本筋を間違えて入ってしまって、この店の名前が目について気になった僕はついつい店の前で立ち止まってしまった。 『オカンの店』  僕は、かれこれ何年も実家の母親には会っていなかったのと、今日は会社でちょっとしたミスをして上司から烈火のごとく叱られて凹んでいたせいもあって店の看板を見た瞬間に足が止まってしまった。  そやけど…。 ぼったくりの店やったらどうしようか?  僕は少し心配やったけど、店の中から聞こえてくる楽しそうな笑い声に誘われるようにふらふら~っと店の中へ入ってしまっていた。 「何呑む? 温かいもんがええ? それとも冷たい生がええか? うちはセット料金じゃないから好きなもん注文してや!」 ママさんは、とても気さくな感じの人でかしこまらずに気楽な口調で僕に注文を聞いてくれていた。 「そうですね…。今日は冷えるので焼酎のお湯割りに梅を入れて貰えると有難いんですが」 少し悩んでから僕が答えると…ママさんは、ニコニコしながら麦焼酎の瓶を僕に見せて笑った。 「焼酎は麦でええ? 梅はしそ梅でええか? 甘い梅が良かったらはちみつ漬けもあるからね!」 「じゃあ……しそ梅でお願いします」 僕は少し迷ったけど、しそ梅でお湯割りを作ってもらうことにした。店の中は、町家を改装した和風の造りでカウンター席が6つと靴を脱いで上がって4~5人位座れる席が2つある。そして、平日の夜やのに…店内は、ほぼ満席やった。 「オカン! こっちこっち! 生2つちょうだい!」 この店の常連客は、ママさんを『オカン』と呼んでいた。 「はいはい! ちょっと待っとき! 待たれへんのやったら自分で勝手に入れてくれてもええんやで!」  オカンが、自分の子供に話すみたいにその客に向かって叫ぶと…別の客が、オカンに向かって叫んでいた。 「俺の方が近いから、俺が生2つ入れたるわ~!」  カウンターに座っていた客が、手を挙げて叫ぶと…席を立ってジョッキを2つ取って、生ビールをサーバーで注いで注文した客の所に運んでしまった。 (これで誰が何を頼んだとか…オカンはわかってるんやろか?)  僕が心配しながら見ていると…別の客が、さっき注文した客の伝票に生ビール2つを追加して書き込んでいた。  凄い店やな…。初めての経験に、少し僕が圧倒されてると…左隣に座っている40代位の男性客が、キョロキョロしてる僕を見ながらクスクスと笑っていた。 「凄いやろ? 俺も初めて来た時は言葉が出んかったわ! でもな、すぐに慣れるし…なんかまた来たくなるんやで!」 その客は、そう言って残っていたビールを呑み干すと僕の背中を軽く叩いてまた声を出して笑った。 「ごめんごめん! お腹すいてるんちゃう? 何か食べる? 今日は肉じゃがとおでんに粕汁もあるで! 白いご飯もあるからね」  オカンは、お湯割りを僕の前に置くと…一息ついてお冷やをコップに注いで一気に飲み干していた。 粕汁は母親が作る料理の中で僕が特に好きやったものの1つやったから、凄く懐かしくて急にお腹の虫が騒ぎ出していた。 「あっ! そしたら、粕汁とおでんの大根と肉じゃがも下さい」 少し悩んでから僕がかしこまって注文したら、オカンは僕の肩を軽く叩いて口をわざとらしく尖らせて言った。 「もっと気安く喋ってくれてええんよ! そんな固いしゃべり方やとここでは浮いてしまうで!」 「ほんまですか? 初めてやからつい緊張してしもて…」  僕が頭を掻きながら苦笑していると、オカンはケラケラと笑いながらすぐに粕汁とおでんと肉じゃがを出してくれた。そして、小さい小鉢に入れたほうれん草のおひたしも出してくれていた。 「これは、サービスやから気にせんと食べて! 栄養が偏らんようにこういうのも食べなあかんからな!」  オカンは、そう言ってニィっと笑うと…その後少し僕の顔をじっと眺めてから、顔を近付けてまた僕の肩を叩きながら小声で言った。 「何があったかは聞かんけど、また、明日頑張ったらええねん! 凹んでても何も解決せんからね。明日からどう自分が頑張るかを考えたほうがワクワクするやろ?」 少し驚いてる僕に、オカンはもう1つ温かいおしぼりを手渡してギュッと僕の手を優しく握って笑っていた。何も話した訳ではないのに、オカンにはどうしてわかるんかな? やっぱり年の功って奴なのかな? 狐につままれたみたいやったけど、不思議と僕は店に入る前よりも凹んだ気持ちが少し楽になっていた。それに…久し振りに食べた粕汁は、涙が出そうなくらい美味しかった。  僕は、社会人になって1人暮らしを始めてからは仕事が忙しくて実家へはほとんど帰っていなかった。いつでも帰れるという甘い考えでいたから、ほとんど実家へは寄り付かなくなってしまっていたからやけど、同じ大阪に住んでいるのに最後に母に会ったのは何年前やったかな? 兄夫婦が同居してるから僕は母にとってもう必要では無いんちゃうか? なんて勝手に僕は思い込んでいて電話すらしていなかった。 「オカンの粕汁は心に染みるやろ?」  僕が粕汁をすすりながら物思いにふけってると…右隣の同年代位の客が、ニヤッと笑いながら声をかけてきた。 「実は…実家を離れてから何年も粕汁は食べてなかったから、なんか懐かしい気持ちと何年も会ってない母親を思い出してしまって…涙が出そうや」  僕はお酒に酔っていたみたいで…初めて会う隣の客に、もう何年も前から友達やったみたいな口調で正直な気持ちを自然に話していた。 「俺は浩二(こうじ)。もうすぐアラサーや! お前は?」 「僕は宗次郎(そうじろう)。今年で27歳です。僕のほうが下やった! タメ口ですんません!」 浩二と名乗った右隣の客に尋ねられて、僕も慌てて自己紹介をして頭を軽く下げると…「そんなもん大したことやない」と言って浩二さんは笑っていた。 「あらら~♪ もう仲良うなったん? こうちゃんは、ほんま人懐っこいなぁ~!」 オカンは、嬉しそうに僕と浩二さんを見て焼酎のお湯割りを作りながらニコニコ笑っている。 「こうちゃんはええ子やから心配せんで大丈夫や! このオカンが保証したる!」  オカンは胸を張って満面の笑みを浮かべて、「これはこうちゃんの奢りやで~」と言って僕にお湯割りのおかわりをくれた。 「おいおい! オカンは、ほんまチャッカリしてるで! まぁええけどな! 奢ったるから遠慮せんと飲んで! 飲んで!」 浩二さんは慣れた様子で自分もまた飲み始めた。 僕は、「それではお言葉に甘えて」と言って遠慮せずにお湯割りを浩二さんに奢ってもらった。正直…こんなに美味しいお酒を飲んだのは、ほんまに久し振りやった。いつも家に帰って1人でボヤきながらヤケ酒を飲んだり、上司に連れられて聞きたくもない愚痴や、小言を聞かされながら飲む酒は正直言って不味い酒ばっかりやったから、こんな美味しい酒の飲み方をスッカリ僕は忘れてしまっていた。 「この店に集まるんは、みんな俺らみたいなんばっかりなんや! 初めての客はいつも何かしら心が寂しい言うか…なんか凹んでる奴が多いねん!」 浩二さんが僕に肩を組んで来て小声で言った。 「宗次郎も『オカンの店』って店の名前に惹かれて入ってしもたやろ?」  僕にそう訊ねると、浩二さんは自分も色々悩んで自暴自棄になっていた時にこの『オカンの店』と出会って、スッカリ今では皆勤賞ものの常連客で、しかも店に野菜を卸していると照れ臭そうに笑っていた。ここへ来る客は、それぞれが色々な事で凹んでいた時に、たまたまこの店を見つけてここで凹んだ心をオカンに癒やされて、前へ進む事が出来たから自然と『オカンの店』へ帰って来て、そうしてる内に常連客が家族みたいになって気さくなオカンは「いらっしゃいませ」とは言わずに「お帰り~」って客を迎えることが当たり前になってしまったんやと浩二さんは話してくれた。それと、客を見送る時は必ず「おやすみ~! ええ夢見るんやで~!」と言って、見送ってくれるから本当にその夜は良い夢を見てグッスリ眠れるらしい。  調子付いた僕は、浩二さんと閉店まで美味しいお酒を呑み交わしてお勘定をして店を出る頃には、次の休みは久し振りに早起きをして実家の母親に電話してみようかな? という思いが僕の頭を過っていた。 そして、その半年後にはスッカリ僕は『オカンの店』の常連客になってしまっていた。
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