ザンゾウカノジョ

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 思うに、感情が揺れた瞬間に、気持ちを写した像が本体から剥がれ落ちるのじゃないか。  彼女の感情表現は薄いが、全くないわけじゃない。慌てずに表情を観察すれば、彼女がその瞬間なにを思ったのか、僕ならある程度は判る。  荷物を詰めていたときは、多分まだ混乱してたと思う。思い詰めたような顔をしてるときは、静かにパニクってることが多い。残像のバッグの横に、歯ブラシとかタオルとか忘れてたもんな。閉めかけのバッグからは何故かカメラが覗いていたし。  ベンチで座ってたときは静かな表情だったけれど、眉がほんの少し寄っていたから、何かを決断したんだと思う。意図せず遠くまで来てしまって(過去に何度かやっちゃったように、考え事してたかボタンを押すタイミングを失ったかで降り損ねたんだろう)どうするか迷って、仕事中だから僕に電話もできないしと考えて、最終的に開き直ったと見える。その辺を探索しようとか思ったのかな。  だからか、歩道にいた彼女は俯きがちで一見無表情だけど、楽しんでいるように見えた。少し目付きが優しいから、何か可愛いもの──散歩中の犬とか、ベビーカーの赤ちゃんとかにすれ違ったんだ、きっと。お店のガラスの向こうには綺麗なリングやネックレスが飾られていたし、塀の上には猫が寝ていたかもしれない。そして、橋からは綺麗な空が見えた。  だから大丈夫、彼女は多分……。  不意に、上着のポケットでスマホが振動した。きっと彼女だ。腕時計が五時を差してる。本当なら定時だからね。道にある自分の像が恥ずかしくて、どこか近くで隠れているんだろう。遠慮せず、もっと早く電話すればよかったのに。 「いいから、絶対謝らないで」  電話に出るなり僕は言った。 「もう逃げたら駄目だよ? 観念して──」  電話の向こうで穂香が息を飲むのが判った。怒られるって思ってんな。こみ上げる笑いを堪えながら、なるべく真面目な声を出す。 「観念して僕と結婚しなさい。その病気も、赤ちゃんも、僕のものにさせてくれよ」 『…っ!』  看護婦さんは、彼女のもう一つの秘密を教えてくれていた。きっとこのややこしい病気が発症したのは、妊娠がきっかけであろうと。僕に迷惑かけるかも、とか、一人で勝手に悩んでたんだな。ああもう、ほんっとに、ばかかわいいな! そんなん言われたら、手放しで大喜びするっちゅうの! 「…返事は?」  とっておきに優しい声で訊くと、すん、とひとつ鼻を啜る音のあと、 『……はい』  小さな声で言った。  僕らが小さな残像を追っかけ回しながら笑い合うのは、それから約一年後の話になる。
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