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上地家当主が尚満に定まり、事件の真相がわからぬままひと月が経過した頃、その知らせは唐突に訪れた。
「尚満様、今宜しいでしょうか」
不意に廊下から声がかかり、尚満は「構わぬ」と許可した。声の主は加野であった。辺りを警戒しながら丁寧に襖を閉めると、限りなく耳元へ近寄り小声で話し始める。
「尚親様の居場所がわかりました」
「何と! まことか!?」
しかし加野は浮かない顔で口元に人差し指を立てている。その様子に不穏な空気を察し、同じく小声で「何処におるのだ?」と尋ねる。恐らく尚親の居場所は、家臣に知れると不味いところなのだろう。
「奥寺です」
「何じゃと? 武田領ではないか! それはまことか?」
「はい。倅の通孝が尚親様と共に奥寺まで逃げ延び、涼淵寺の北渓和尚宛てに文をよこしました。筆跡を確かめに出向きましたところ、確かに通孝のものでございました故」
(ならば確かであろうな。しかし奥寺か……)
眉間に皺を寄せ、腕組みをする。敵の領地に匿われているということは、言わば人質でもある。尚親を取り戻すにしても、どんな条件を提示してくるのかわからない。それに例え上地谷へ無事戻って来れたとしても、また命を狙われないという保証はどこにも無いのだ。隣で次の言葉をじっと待つ加野を見る。
(尚親が人質となったのは、本当に奥寺なのか? それとも……)
「とりあえずは二人共、息災なのじゃな?」
「はい」
「して、尚親を取り戻すにはどうしたら良い?」
「それですが……暫くは上地谷に戻らぬ方が良いかと」
「何じゃと?」
「件の首謀者がまだわかっておりませぬ。尚親様の元服直後という時期から見ても、上地家内の者が首謀者であることは明らか。奥寺におった方がまだ尚親様にとって安全やもしれませぬ」
(それは確かに一理ある。一理あるが……)
扇子を手のひらに何度も打ち付けた。熟慮する時の癖である。
(この先、首謀者が必ず見つかるという保証はあるのか? 見つからねば、尚親はずっと奥寺ではないか)
それは実質、尚親が殺されたも同じ状況だった。
「今はまだ尚親様も幼い故、己の身を守るのも危ういでしょうが、時を経て成長しますれば、呼び戻す機会もございましょう」
(適当なことを申すな)
表情には出さないが、冷めた目で加野を見る。事実が知られてしまっている以上、加野の言をおざなりにして無理やり尚親を呼び戻すことも出来ない。加野はいつでも、尚親が武田領へ逃げたと今川に報告出来るのだ。それを証拠に上地家が武田と内通しているなどと密告されては、たまったものではない。
(首謀者はわからぬが、思惑に乗ってみるのも一興か)
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