ひとつの孤独

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 眞一は放課後、体育館裏の林の中で読書をする。屋敷に帰りたくない、という気持ちも少なからずあった。  眞一は木々の間にその細い腰を下ろし、図書館で借りた文庫本を開いた。  すると頭上でニャア、とか弱い声がした。  振り返ってその声の方を見上げると、小さな猫がこちらを見て震えていた。 「降りれなくなったの、おまえ」  眞一の柔らかい声に返事をするように、猫はもう一度ニャアと鳴いた。  本を足元において、猫の方に精一杯手を伸ばす。しかし十六歳にしては背の低い眞一ではとても届かない。  眞一はきょろきょろと周りを確認する。ここは林に囲まれて、体育館からも見えない。きっと大丈夫だ。  ふうと一呼吸して、眞一はたん、と地面を蹴った。  ふわりと浮き上がった眞一のからだは、猫のいる枝を軽々と越して、飛んだ。  風を切って林のてっぺんまで一気に登る。久しぶりに飛んだ空は青く澄んで、遠くに見える山並みはどこまでも美しかった。  誰かに見られる前に、眞一は素早く林の中へ舞い戻った。  猫は枝の上で眞一を見上げ、驚くでもなく、じっとしている。  眞一はやさしく微笑んで、そっと猫の鼻に触れた。猫はおとなしく眞一の手にすり寄って、その細い腕の中におさまった。  猫の体温と、艶々の毛並みが心地よい。地面に降りることも忘れ、眞一は宙に浮いたまま猫を撫でていた。  その時、ガサ、と何かが音を立てた。  眞一はハッと地面に降りようとしたが、時すでに遅く、そこに現れた人物と目があってしまった。 「……天使……じゃないよな」  その人は呆然と呟いた。  ——そこにいたのは、『彼』だった。  見られてしまった。飛んでいるところを。  眞一は言葉を失い、力なく地面の上に戻った。からだが重力で引っ張られ、自分の体重を支える足がずしりと重い。  見られたことが鷹羽家に知れたら、もう、学校には行かせてもらえないかもしれない。 「お願いします、誰にも言わないでください」  眞一が頭を下げると、腕の中にいた猫は心配そうにニャアと声をあげた。  彼はゆっくりと眞一に歩み寄り、そっと腕のなかの猫に触れた。 「その猫、部活棟で飼ってるんだ。見つけてくれてありがとな」  彼は平然と言った。どうやら猫を探しにここに現れたらしい。  眞一は彼を見上げた。自分よりずっと背が高くて、間近で見つめていると首が痛くなりそうだ。  猫は彼の手にすりよって、するりと彼の腕のなかへと移った。  眞一は(から)になった腕を力なくおろして、もう一度彼を見た。 「……あの、誰にも——」 「言わないよ。言っても信じてもらえないだろ、人が飛べるなんて」  無表情だった彼が初めて、ふっと微笑んだ。 「あ、ありがとうございます」 「きみ、鷹羽(たかば)の屋敷の子だろう」  初対面の彼にその事実を言い当てられたが、眞一は驚かなかった。  鷹羽というのはこの辺りでは有名な家名で、学校で噂をされるのは慣れっこだった。 「そう、ですけど」 「毎朝、坂の上から俺のことを見てるよな」  眞一は息を飲んだ。  バレていたのか。  黒々とした瞳に見据えられ、眞一は呼吸ができなくなりそうだった。体温があがって、顔が熱くなる。  眞一の様子をみて、彼は静かに口を開いた。 「見られているばかりじゃ、不公平だと思っていたんだ」 「……へ……」 「このことを言わない代わりに、きみのこと、教えてくれないか」  彼の腕の中の猫がまたニャァと小さく鳴いた。  眞一はゆっくりと頷いた。  彼が、まさか自分に気づいていて、こうして興味を持ってくれていることは、少しだけ嬉しかった。
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