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紘の部屋に入ると、独特な香の匂いが充満していた。
これから食事をするというのに、その強い香りで一気に食欲がなくなる。ただでさえ、外出の話をするために緊張しているのに。
眞一は用意された椅子に腰掛けた。
「おかえり、眞一。学校はどうだった?」
淡麗な、しかしやつれた顔の紘が、奥から姿を現した。伸びきった前髪から覗く大きな瞳は虚ろだ。
「初めて、学友が出来ました。陸上部の方です」
眞一は正直にそう言った。紘がどんな反応をするか、分かりきっているのに。
それでも、食事が出される前に済ませてしまいたかった。
紘の眉がぴくりと釣り上がり、全身が苛立った気配に包まれる。
「ふうん。“学友”、ね。その人は一体どれだけ眞一のことを分かっているつもりなのかな。空を飛べもせずに、走ることしか脳がないんだろ」
淡々とした口調に含まれたすさまじい悪意に、背筋が凍った。
紘は、眞一が屋敷の外で行う一切のことを嫌悪している。“学友”など、紘が一番嫌う言葉かもしれなかった。
眞一は紘の悪意に飲まれないように、膝のうえで固く拳を握った。
「来週、大会があるので、見に行きたいと思っています」
眞一は、虚ろな紘の目を見据えてきっぱりと言った。
次の瞬間、紘の目が見開かれて、激しく眞一を睨みつける。
「見に行きたいって、ここから出るということ?」
「……はい」
眞一が答えると、紘は激昂した。
「許すわけないじゃないか!
週末はずっと僕の傍にいる約束で、学校に行くことだって許可してやっているんだよ。眞一は僕よりも、その“学友”とやらを優先するの?
誰よりも君を分かっているのは僕だよ。もう僕以外、空を飛んだことのある人間は鷹羽にはいない。僕たちが一番分かり合えるんだ、なのに、君は、僕を裏切るんだね」
苦しげな叫び声が眞一の耳を貫いた。
——僕たちが一番分かり合えるんだ——。
紘に幾度となく言われてきた言葉だ。でも、それは間違っている。
空を飛べたという理由で、眞一は突然に次期当主とされ、この屋敷に放り込まれた。それからずっと、気難しい紘の相手役を押し付けられているだけだ。
一体自分は、なんのために空を飛べるようになったのだろう。少なくとも、家のため、紘のためではない。
過去の当主たちも、この屋敷に縛られるために、空を飛んできたわけじゃないはずだ。
眞一はたまらなくなって立ち上がった。
「僕はあんたのことなんて少しも分からない。ちゃんと会話をしたこともない。あんたが僕に側にいてほしいと望むなら、僕の望みも、尊重してくれ……っ」
次の瞬間、紘の言葉にならない喚きと共に、テーブルの上にあった花瓶が眞一目掛けて飛んできた。
「っ!」
咄嗟に避けるも、花瓶は眞一の肩にゴッと鈍い音を立ててぶつかった。
その痛みを感じる間もなく、眞一は無我夢中でその部屋から走り去った。入れ替わりに、松井が慌てて紘の部屋に入って行くのが視界の隅に映った。
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