ひとつの孤独

5/9
前へ
/9ページ
次へ
 紘の部屋に入ると、独特な香の匂いが充満していた。  これから食事をするというのに、その強い香りで一気に食欲がなくなる。ただでさえ、外出の話をするために緊張しているのに。  眞一は用意された椅子に腰掛けた。 「おかえり、眞一。学校はどうだった?」  淡麗な、しかしやつれた顔の紘が、奥から姿を現した。伸びきった前髪から覗く大きな瞳は虚ろだ。 「初めて、学友が出来ました。陸上部の方です」  眞一は正直にそう言った。紘がどんな反応をするか、分かりきっているのに。  それでも、食事が出される前に済ませてしまいたかった。  紘の眉がぴくりと釣り上がり、全身が苛立った気配に包まれる。 「ふうん。“学友”、ね。その人は一体どれだけ眞一のことを分かっているつもりなのかな。空を飛べもせずに、走ることしか脳がないんだろ」  淡々とした口調に含まれたすさまじい悪意に、背筋が凍った。  紘は、眞一が屋敷の外で行う一切のことを嫌悪している。“学友”など、紘が一番嫌う言葉かもしれなかった。  眞一は紘の悪意に飲まれないように、膝のうえで固く拳を握った。 「来週、大会があるので、見に行きたいと思っています」  眞一は、虚ろな紘の目を見据えてきっぱりと言った。  次の瞬間、紘の目が見開かれて、激しく眞一を睨みつける。 「見に行きたいって、ここから出るということ?」 「……はい」  眞一が答えると、紘は激昂した。  「許すわけないじゃないか! 週末はずっと僕の傍にいる約束で、学校に行くことだって許可してやっているんだよ。眞一は僕よりも、その“学友”とやらを優先するの? 誰よりも君を分かっているのは僕だよ。もう僕以外、空を飛んだことのある人間は鷹羽(たかば)にはいない。僕たちが一番分かり合えるんだ、なのに、君は、僕を裏切るんだね」  苦しげな叫び声が眞一の耳を貫いた。  ——僕たちが一番分かり合えるんだ——。  紘に幾度となく言われてきた言葉だ。でも、それは間違っている。  空を飛べたという理由で、眞一は突然に次期当主とされ、この屋敷に放り込まれた。それからずっと、気難しい紘の相手役を押し付けられているだけだ。  一体自分は、なんのために空を飛べるようになったのだろう。少なくとも、家のため、紘のためではない。  過去の当主たちも、この屋敷に縛られるために、空を飛んできたわけじゃないはずだ。  眞一はたまらなくなって立ち上がった。 「僕はあんたのことなんて少しも分からない。ちゃんと会話をしたこともない。あんたが僕に側にいてほしいと望むなら、僕の望みも、尊重してくれ……っ」  次の瞬間、紘の言葉にならない喚きと共に、テーブルの上にあった花瓶が眞一目掛けて飛んできた。 「っ!」  咄嗟に避けるも、花瓶は眞一の肩にゴッと鈍い音を立ててぶつかった。  その痛みを感じる間もなく、眞一は無我夢中でその部屋から走り去った。入れ替わりに、松井が慌てて紘の部屋に入って行くのが視界の隅に映った。
/9ページ

最初のコメントを投稿しよう!

7人が本棚に入れています
本棚に追加