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「これが……?」  低く、しかし人の鼓膜に吸い込まれるように通る男の声は失望を含んでいた。 「いいえ。これは紛い物ですね」  その問いへの返事に感情が込められることもない。すでに何度も繰り返されてきたやり取りに、そして何度も失望させられることに彼らは馴れ始めていた。 「片付けておけ。金でも握らせてこの国の外へ放逐しろ。……これを連れてきた者どもを罰せよ」  断罪するように告げられた言葉に、この場にいる者たちが頭を垂れる。気を失い、仰向けになって床に転がっている男には、冷たい眼差しが向けられることも最早なかった。 「陛下の御世であるうちに見つかるのでしょうかねぇ」 「シッ、誰かに聞かれたらお前まで処分されるぞ」  ぐったりとしたまま意識を取り戻さない男を引きずりながら兵士達は顔を見合わせる。 「黎族なんてきっともうどこにも……だって神族の一つでしょう? 先王の時に現れた黎族だってすぐに死んじゃったし、その黎族も一族がどこにいるのかも分からないって言ってたという話じゃないですか」 「それでも探さなきゃならないのさ。なんたってうちの王族たちは神族に認められて初めて正当な国の王として認められる。……まー今の王サマが認めてもらえるかも分からんけどな。諸国からは『残虐王』だとか散々な渾名で呼ばれているらしいし、結局神族なんか見つからないでとっとと今の王サマに死んでもらった方が俺たちにとって幸せだったりしてな……っと」  いけねぇ、と慌てた風に周囲を見てから兵士達はまた自分たちの荷物を引きずりながら歩き出した。  彼らが引きずる荷物はふつうの人間である。  ただ、ここに連れてきた者たちがその人間のことを『黎族だ』と言って連れてきたのだ。 「どうせ見つかりませんよ。彼らは血の穢れを何よりも嫌うと言うし――頭が良くて剣だって強くてもなぁ、俺たちの声なんて届かないような王様じゃ黎族が本当にまだいたとしたって近づきもしませんでしょう」 「そりゃそうだ」  城の地下に設けられた薄暗い空間。  彼らはもう後ろを振り返ることもなく、荷物を引きずりながら暁に白み始めた空が望める扉へと向かうのだった。 *** 「あれ、怪我してる?」  真っ直ぐに前を向いて歩いていた男は唐突に声をかけられ、薄っすらと目を細めて周囲を見やった。  常に周囲に気を張っているはずの己が他者が近づいていたのに気づかなかったのだ。だが相手はすぐに正体を現した。 「こっちだよこっち。あんた意外と鈍いなぁ」  明るい調子で笑ってくる相手を、男は薄灰の瞳で睨み上げる。細い枝に跨って腰かけているのは馬丁の格好をした少年だった。臣下たちがすぐに顔を青くするような眼差しを受けても見知らぬ少年はカラカラと笑っている。そもそも、ここは厩舎近くといっても城内なのだ。それで男の顔を知らずに笑っているのなら新参者なのだろうかとすぐに考え付いたが笑われて不快であることには変わらなかった。 「――降りて来い」  相手が己の身分に気づいていない以上わざわざ自分から正体を示すのも馬鹿らしく、そのまま通り過ぎようとも考えたが後からのことも考えて少年の名は抑えておこうとも考えた。それで呼びかけたが、少年は木の上で不思議そうに首を傾げた。 「随分偉そうだなぁ。それよりあんたのその腕、痛いんじゃないの? ちゃんと手当てした?」 「……何?」  思わず男の声に険が含まれる。それもそのはずだ。あの"儀式"で仕方がないとは言え傷をつけた腕は、外からは見えないように止血をして適当に包帯を巻いただけだ。色の濃い着物の下のそれはただ人の目に見えるはずもない。自分をきつく睨み続ける男に少年はまた笑った。 「そんな睨むなよ。だってそんなに血生臭かったら俺みたいに鼻のイイ奴はすぐに気づくし、あんたも腕を庇うようにしてたから。化膿して傷痕が残ったら余計に厄介になるけど……っと、アレ?」  パキリと乾いた音を立てて木がざわめく。均衡を崩した細い身体が一気に落下を始めた。 「――ッ、の馬鹿が!」  他者のことなどどうでも良いと常に考えているような男だったが、さすがに目の前で子供が死ぬのを見るのは寝覚めが悪そうで、無意識に身体は動いて足から落下してきたのを抱きとめた。そこでようやく相手の顔と対面するに至る。少年の体重に腕の傷が悲鳴を上げて、眉根を寄せるが、思ったよりも大分軽い身体に違和感も覚えた。 「あ、ごめんなさい……ッ」  暢気に木の上で笑っていた少年は男の腕の中で身を捻らせると一人で地面に立ち、男を見上げてくる。  その面差しに、男は驚いたように軽く目を瞠った。二重の目は大きく、少し生意気そうに少しつりあがっている。そして驚くのはその瞳の色だ。黒――どこが瞳孔なのかもよく分からないような真っ黒なその瞳は人というよりは鳥の雛を思わせる。男にしては小作りの顔に部分部分が形よく嵌まっていて、見る者が見れば色小姓にとでも望まれそうな綺麗な顔をしていたが、裏の世界に身を潜めさせているような暗さは、少年のくるくると動く表情のどこにもない。黒い瞳と同じく真っ黒な髪は風が吹くと柔らかく靡き、今は短いが伸ばしていたら少女と見間違えられてもおかしくなさそうだった。 「あのー、だからごめんなさいってば。それと、助けてくれてありがとね。あんた、目つきは悪いけど優しいんだな」  少年の再度の呼びかけに男は再度ハッとしたように顔を少年の目へと向けてから、少年から向けられた言葉に複雑そうな顔をした。今まで間違っても己に『優しい』という言葉を投げてきた人間はいなかったからだ。そもそも、男にとって少年を助けたのは少年が目の前で死んだら目覚めが悪いと思っただけで、後は別にこの子どもがどうなろうとも知ったことではない。そういう己を知っているだけに、少年の言葉はひどく不思議なものに聞こえたのだろう。 「おかしな子どもだ。ガキはガキらしく仕事をしていないで親のもとに帰ればいい。金がないのか」 「ガキガキ言うけど俺、そんな歳じゃないよ。それにお金は関係ないんだよ、行く宛がなくて困っていたら偶然知り合った友達にここの仕事紹介されてさ」 「それでさぼっていたのか」  男の最後の返しに、少年は目を丸くするとそれから破顔した。己の前でそんな風に笑う人間は初めて見た――そう思ってから、男は自分が少年の次の言葉を待っていることに気づいた。 「さぼってたんじゃないよ、ちょっと休んでただけだもの。だってこの木の上からは街が見えるだろう? 遠くからでも人が生活しているのが見えて、なんだか安心するんだ。この城の中はみんな静かだから」 「――王が怖いのだろうさ」  暢気に話す彼に、男は皮肉気な笑みを浮かべてそう返してやった。 「ふーん? なんか大変なんだね。でもまぁ、王様があんまり怖くなくなったら城の中でもみんなが笑えるようになるのかなって思うよ。人の命なんて短いもんなんだからさ、できるだけ笑って過ごせた方がいいもの」  あ、行かなきゃ、と少年はそう一人ごちるともう一度男を見上げてから笑いかけてきた。 「あんたも早くその腕、手当てしてもらいなよ。それとね、あんたは顔の筋肉が固まってそうだから、たまには笑って使ってみたら」  またそんなおかしな言葉を残してひらりと手を振ると少年は駆け出そうとした。  思わずその細い手首を掴んでしまうと、驚いたように黒い瞳が男を見返してくる。それに驚いて男が手を離すと、少年は小首を傾げてみせた。何かまだ用事があるのか、とでも言いたげに。 「俺には名がある。陽ひの翼と書いて陽翼ひよくだ……次に会ったら、あんたじゃなく名で呼べ」  どうして自分が、今となっては誰も使うことのない己の字を告げているのか――そう思いながらも男は口を開いていた。それをまだ目を丸くしたまま聞いていた少年は、やがてもう一度さっきと同じように盛大に笑って見せた。 「俺は蓮理れんりだよ、陽翼。蓮はすの理ことわりって書いて蓮理。みんなはレンって呼ぶ」  自分に向けられている表情が、嬉しいと告げているように見えて男は軽く目を瞠った。  男――陽翼当人が蓮理に告げたように、自分が名を教えたのは何度も「あんた」と呼ばれるのが少し気に障ったのだろうと己でも思ったのだが、まさかそれに返されただけで自分の中に感情が沸き起こるとは思わなかったのだ。 「――蓮理」 「またな」  自分以外の者同士が挨拶をする時のようにひらひらと手を振ってきて、今度こそ少年は駆け去っていった。抱きとめた時にも思ったが、ちゃんと食べているのかと思ってしまうくらいに少年の身体が軽かったことを思い出す。  男はもと来た場所――己の執政室へと足を向けながらも、今度少年に会った時にどうしようかと柄にもなく考えて、己も気づかない間に普段なら硬く引き結ばれた口元に仄かな笑みを浮かべていたのだった。
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