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「蓮理という馬丁ですか……? 何か粗相をしたのでしょうか」  今日もまた山のように詰まれた執務を、しかしいつもよりは気分が軽やかなまま終えてから己の右腕とも言うべき男にたずねてみると、男――宰相の惑夜(わくや)は驚きを隠せないまま己の主へとそう返した。王が探している神族――黎族以外のことで男が誰かのことについて聞いてくるということが、今まであまりなかったことなのだ。  宰相としてよりも以前から男の傍近くに仕えてきたが、男――王がこうしてたまに聞いてくるのは誰かを罰する時である。馬丁であれば彼の愛馬あたりに粗相でもしてしまったのが見つかったのだろうかと身構えていると、これまためずらしく王は憮然としたような表情になった。 「そういうわけではない。ただ、珍しい黒髪黒眼で気になった」 「おや……黒い髪と黒い眼ですか。他の大陸には稀にそういうめずらしい色を持つ者がいると聞きますので、そういったところから流れてきたのでしょうか。人買いがこちらまで売りに出すこともあるようですしね……嘆かわしいことにめずらしい色を好んで買う者が多いといいますから」 「奴隷商人どもか」  そこまで話すと、男は眼差しを厳しくした。 「まあ、馬丁としてこの城にいるのであれば、そうだったとしても人買いのところから逃げ果せたのでしょう」 「……そうだな」  慌てて惑夜が付け足すと、傍付きである彼ですら恐ろしいと感じるその眼差しは幾分か和らぎ、ほっとしたように見えた。  男には滅多にない反応。どうやら当人も気づかないところで、今日会ったという馬丁の少年が気に入ったのだろう。宰相はそう推測すると、彼も安堵の笑みを浮かべる。王としての仕事と黎族を探すことを抜かして、男にはどれほどの物に関心があるのかは分からない。食べることも激務で忘れることがあるし、王へと連れてこられた、とびきりの美女ばかりを入れた後宮へもふらりとしか赴くことはない。まして正妃を娶ることすら遠い未来のように思えた。  ――黎族を見つけたその先のことが、とても遠かった。  今日男が会ったのは少年だったが、男が少しでも何かに興味を持つのならばそれは良い兆しに思うのだ。 「その馬丁を傍付きに召し上げましょうか」  男が誰かを気に入ったことはおろか、そもそも誰かに興味を持つことが珍しいのだ。  もしそれで男の気が晴れるのならばと考えたが、それに返ってきたのは否だった。 「こちらの正体すら告げていない。それにあれは外にいる方が似合うのだろう……城の中は静かで嫌なのだそうだ」  クツクツと笑いながらそう続けてくる。正体を知らなかったからとはいえ、王に向かってそのような口を開く者がいたのかということに、惑夜はまたも驚かされた。たとえ正体を知ることなくとも、常に固く引き結ばれた口もとや、相手を射る強い眼差しと相対すれば、無意識に畏怖してしまうのが常だ。何より、それを楽しげに話す王の姿というのは執務の間は昼夜問わず、付き添っている己であっても初めて見るものだった。 「――御意に」  下がっていいと言いたげに手を振られて、深く頭を垂れてから部屋を離れる。  一人の人間に興味を持つことができれば、いずれ約束の日までに黎族が見つからず男が王でなくなったとしても、孤独ではなくなるかもしれない。男の数少ない血縁――異母弟として、それは嬉しい一歩でもあった。  一番良いのは勿論、彼の黎族が見つかることだが、神より与えられた力と美しい容姿――大抵は金の髪を持つという――を持つ彼らを望むのは、それを王の(しるべ)としているこの国以外にもごまんといる。人と同じ命を持つというのに、彼らはほとんど人買いを始めとして売り物にしようとする者たちによって狩り尽くされてしまい、今はこうして探し歩いても見つかることすらなくなってしまっていたけれど。 *** 「――……」  一度会ったことがあるというだけなのに、遠くに集まっている馬丁たちの中からすぐにその姿を見つけ出してしまった。そんな己に嘆息をついて、陽翼は愛馬から降りる。  王宮を出てひたすら北に馬を進めると広がる森、その奥にある神祖を祀る廟から帰ってきたばかりだ。廟参りは名立たる貴族や将を供とするので、さすがの"残虐王"の異名を持つ男でも少々鬱屈する。疲労が蓄積した中で見つけ出した小柄な後ろ姿は、無意識に男の肩の力を抜いてくれた。  すぐに王軍の専兵が陽翼の愛馬の手綱を預かり、厩舎へと連れて行く。王や貴族たちは厩舎に近づくことはなく、大抵こうして専兵を経由して馬丁へと手綱を渡すのが常だ。王の馬を繋ぐ厩舎は貴族たち来客用のものとは別の場所にあるため、立ち止まった男の様子に気づいたのは供をした者たちだけだった。 「――陛下?」  宰相の惑夜に小さく声をかけられたのを、小さく手を振ることで制する。陽翼は己の愛馬の手綱を握った専兵の後を追い厩舎へと近づいていった。普段王が姿を現すことはない場所であるせいか、陽翼が王であることを知る者は馬丁の中には少ない。自分の後ろをついてきたのが王であることに気づいた専兵も一瞥だけで黙らせると、あの少年の姿を探す。 「蓮理は」 「え? ああ、レンの知り合いでしたか。レンならちょうど休憩になりましたんで。ここから少し歩いたところにある、休憩小屋に戻りましたよ」  馬丁たちの中でも一番年上だろう男に話かける。男は驚いた顔になったが、陽翼の正体を知らないからか、すぐに朗らかに笑って後方を指差した。厩舎よりもう少し歩くと馬丁たちに与えられた当番小屋があるのは陽翼も知っているが、今まではそこに足を伸ばすことなどなかった。礼のつもりで軽く頷き返し、男が指差した方角へと足を進める。常に誰かから面会を求められる立場であるせいか、こうして自分の足で誰かを探すことは初めてといって良かった。  生い茂った木々に隠れ、ひっそりと建つ休憩小屋が目の前に現れた。庶民が住まう平屋のものと比べれば、小屋と呼ばれていても十分に立派な二階建てである。建てられてから年経た木製の扉に手をかけると、陽翼は遠慮もなくその扉を開いた。  ――と。悲鳴のような声と共に部屋の奥で何かが倒れる音がした。突然のことに陽翼も僅かに眼を瞠ると、薄暗い部屋の奥に人がいるのが見える。 「うわぁ、ビックリしたー。あれ。あんた、もしかして陽翼? よくこっちまで入って来れたね」  声だけで彼――蓮理が驚いたのだろうことは分かる。しかし陽翼が驚いたのは、少年がほとんど裸といっていい格好で腰を抜かしていたことだった。たとえば後宮に赴き、そこに住んでいる女性たちに命じれば簡単に彼女たちは王の命令に従ってその肌を露にするだろうが、男は自分がまだ会ったばかりの――それも少年のそんな姿に心のどこかが動かされたことに表には出さないものの動揺した。決して欲求不満があるわけではないと己は思っているし、同性に対して心を動かされるものがあったこと一つだけでも、今まで完璧といっていいほど己を律して来た男にとっては驚きに値することだったのだ。  少年はといえばどこかほっとした顔を見せると立ち上がり、ゆるく纏っていた布でまだ水滴がついているらしい己の身体を拭き始める。湯に浸かっていたらしく石鹸の香りが仄かに漂っていた。無表情のまま一歩を踏み出そうとした陽翼の前で手早く着替え終えると、拭布を首にかけたまま蓮理は笑顔で扉へと近づいた。 「この間俺のことさぼりだって言ったけど、あんたもさぼり魔だよね」 「……さぼれるならさぼりたいんだがな。生憎、外から戻ってきた帰りだ」  へえ、と少年の目が丸くなった。 「陽翼ってもしかして王軍の偉い人とか? ここって確か王様とか偉い貴族とか、王軍くらいしか入れないんだって俺の友達から聞いたよ」  生まれた時から王族だった陽翼にとって『王』以外の別な者なのかと誰何(すいか)されたのも初めてのことだ。  旅装を解いていないから余計に兵士のように見えるのかもしれないとまで考えてから、陽翼はゆっくりと少年に近寄る。自分よりひと頭半は下にある、まだ濡れたままの黒い髪を見やった。  最初に出会ったときにも感じたことだが、少年――蓮理といると自分が『王』ではなく『陽翼』として在れる気がした。陽翼としての己など、誰もが必要としない世界で生きてきた彼にとってそれはとても不思議なことで。初めての感覚といって良い。 「そう見えるのなら、そうなのだろう。……友というのは?」 「あー、うん。この間話したよね、俺が行くあてがなくて困ってた時に声かけてくれて、ここでの仕事紹介してくれたんだ。そいつも王軍にいるから、陽翼のことも知ってるかなって思ったんだけど。王師だけでもたくさん人がいるから、知らないって。それよりさ、ここの上が俺の部屋だから、お茶くらいごちそうするよ」  口調からしてずいぶんと親しいらしい『友』という言葉が耳に残りつつも、相手のことを気にしていたのは己だけではなかったことに、陽翼はまた奇妙な感情を覚えた。すぐに戻るつもりで足をのばしたのだが、蓮理の住まいというのも気になり無言のまま頷くと少年が了解したと言わんばかりに笑い返してくる。  その笑い顔は、常に媚びたものを感じる後宮のどの側妃たちよりも美しく見えた。 *** 「レン。誰か、今日ここに来たのですか」  蓮理の使っている部屋は、馬丁たちが使っている休憩小屋の上にある。中に階段は備えていないので、面倒でも一旦外に出、屋外にある階段を使ってでなければ二階の部屋に行くことはできない。二階の部屋は元々宿直の者が使えるようにと三室ほど設けられたのだが、他の馬丁たちに勧められたのもあって行く宛のなかった蓮理は住み込むことができるようになったのだった。  この部屋はしかし、蓮理が一人で使っているわけではない。己に与えられた専用の部屋が王宮内にあるというのに、勝手にこの部屋に住み着いている住人がもう一人いた。その一人である体躯のいい青年は扉を開いた途端に蓮理のものだけではない気配と、仄かに残っていた血臭を嗅ぎ取って途端に眉根を寄せる。  もうすっかりと陽は暮れていて、至るところで闇夜を照らすための篝火が炊かれているのが、部屋の小さな窓からでも見える。小さく扉を叩いて長身の青年が部屋に入ると、少年はいつも通り笑顔で出迎えた。 「うん、この間話した陽翼だよ。仕事終わったばっかりだって言うからお茶を出してみただけ。やっぱり王軍の所属みたいだぞ。今日も外から帰ってきたって」 「当人が、そう言っていたのですか」 「王軍なのかって聞いたら、そんなもんだって言ってた」  長身の青年は少年の返しに小さく嘆息し、それから身に着けていた肩当てなどを外し始めた。一通り外して扉近くに片付けてしまうと、いつもの軽装になる。必要なものを外してしまえば、そこから現れたのは貴族と思われてもおかしくないほどに、端正な顔をした歳若い青年だ。蓮理とは違い、すでに成人した男らしさを備え、容貌にも幼いところはもう抜け落ちている。  食事にしようと、食器を出し始めた少年を青年は背後から腕を回して抱きしめる。と、驚いて青年を見上げてきた少年の目を、じろりと睨んだ。 「蓮理。人を信じるのが貴方の(さが)だと分かってはいるが、容易く他人と言葉を交わしたりしてはならないと言っているでしょう? たとえ私と同じ王軍の兵士だろうと、その心のうちで何を考えているか分からないものです。王の馬がいる厩舎に、階服を着ることなしに来たのなら一定の身分以上の地位にあるはずですよ、その陽翼とやらは。誰がどう、国王や貴族どもと結びついているのかは分からない。それがどういうことかは分かっていますよね?」 「……分かってるよ、黎真(れいしん)」  分かりやすくしょんぼりとした蓮理が俯くと、その動きに合わせて柔らかな黒髪がさらさらと動く。その髪が、以前はもっと綺麗に伸ばされていたことを、青年――黎真は知っている。もう一度嘆息して少年の身体を開放すると、苦笑しながら小さな頭を軽く叩いた。 「そんな顔をしないで。小言はこのくらいにして、夕食にしましょうか。私もさすがに限界だし――それに今日、同じ番に当たった人間から面白いことを聞きましたよ。レンの好きな、龍の話です」 「え、本当か?!」  パッと目を輝かせてこちらを見てくる雛鳥みたいな子ども。黎真は心から慈しむような穏やかな顔で笑い返す。黎真にとって、蓮理という少年は何にも替え難い大切な存在なのだ。自分がどうして追われるのかも知らずに傷つけられて、それでも一生懸命に相手を知ろうとする様は痛々しくて。でも、とても愛おしくて。  すべてを呪わんとする勢いでこの国に降り立ったのに、ひどい傷を負ったまま逃げ延びてきた蓮理を拾ってからというもの、黎真は人として生きることに徹してきた。少年と共に人の多いところで堂々と暮らしていれば、案外人という生き物のは何の疑問も持たずに彼らを仲間のように迎え入れるのだ。  少年が、誰にも傷つけられないように。  ただそれが、青年にとって今一番大事なことだった。
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