始まりの章

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始まりの章

8772ee35-592d-4aa4-977a-c42ff853bdca  ある国の片田舎に、大変美しく、利発な領主の娘がいました。その美しさと利発さのために、年頃になると近隣の領地から大勢の求婚者が押し寄せましたが、娘はまたその美しさと利発さのために、求婚者を退け続けました。これほどの美貌と才気を持つ自分が、平凡な貧乏貴族などと結婚するなんて、宝の持ち腐れ以外の何物でもない、というのが娘の信じるところだったのです。  ところが、いくら待ってもなかなか娘の眼鏡にかなう求婚者は現れず、それに少々しっかりし過ぎていたので、年を重ねると共に性格がきつくなってしまって、並みいた求婚者も年々少なくなっていき、娘の方でも盛りをいくらか過ぎてしまったために、今では求婚者もたったひとり、隣の領地の領主の息子のみになってしまいました。  この隣の領地の息子は娘よりずいぶん年上でしたが、どこかうすぼんやりした印象のカエルに似た顔立ちの男で、父親が健在なために、毎日遊び暮らしていました。それで娘はその男の再三にわたる求婚も蹴り続け、男がご機嫌伺いに来ても、顔のひとつも見せないのでした。  娘盛りを過ぎたとは言っても、まだまだ未婚の娘のことですから、美しさは咲き誇る蘭のようでした。(むし)ろ、成熟さを増して娘から大人の女のそれへと変わるような容色は、娘の心に密かな誇りを生まれさせたので、娘はいずれ高貴な身分の男性の目に留まるはずだと信じて疑わないでいるのでした。  しかし人の好い娘の父親の領主は、いつまでも結婚しない娘を心配して、再々諭そうとしました。 「おまえ、もういい加減に目を覚まして、そんな高望みはやめて彼と結婚してはどうだね?」 「お父様、わたしはお父様がほんとうは聖職者になりたかったということは、よくよく存じ上げていますわ。ええ、それはもう、頭が痛くなるくらいお話を聞かされましたもの。だから、お父様が清貧であることをいちばんの美徳とお考えになっていることも、呆れるくらい理解していますわ。お父様が無欲でいらっしゃるのは結構ですわよ。でもお父様、そんなのは今のご時世には合いませんわよ。今どき無欲で清貧でなんておっしゃっていたって、そんなのは単なるお人好しの無能だと、世間に言っているようなものですわ」 「父に向かって無能とは……」 「あら、だってそうじゃございませんこと? もしお父様がもっとやり手でいらっしゃったら、我が家ももっとお金持ちになっていましたわ。そうなっていれば、お母様は都の偉いお医者様に診てもらうことだってできて、今頃まだお元気でご存命だったかもしれないじゃありませんか。わたしはね、お父様。お父様をお母様と同じ目に遭わせたくはありませんの。わたしが身分も高くてお金もたくさん持っていらっしゃる方の目に留まって結婚できれば、もしお父様がこの先ご病気になっても、どんな治療だって授けて差し上げられますし、それにわたしがそんなしかるべき方と結婚すれば、お父様の好きな神学のご研究だって、お金に糸目をつけずに続けていくことができるじゃありませんか」  そう言われると、父親はぐうの音も出ずに、黙りこくるより他ありませんでした。
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