5の章

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5の章

 と、そのとき、ふたりの足元から、しわがれた声が煙のように立ち上ってくるのが聞こえました。 「お姫様、あんまりな仕打ちですね」  ふたりが驚いて見ると、頭に大きな瘤を作ったあのネズミが、じっと恨めしそうに娘を見つめているではありませんか。娘の背筋はぞっと凍り付きました。 「嘘よ、あれはわたしの見た悪い夢のはずよ」  真っ青になって震えだした娘を見て、王子は腰の短剣を抜いて、ネズミに向き直りました。 「きさま、いったいどういう訳があって、この方を斯様(かよう)に震えさせている?」 「王子さま、ぼくは何も悪だくみをしに来たんじゃありませんよ。しかし、ぼくもネズミの国の王子には違いありませんから、話によっては決闘を受けても構いませんがね」 「生意気なネズミめ。今すぐ息の根を止めてやる」 「人間の王子さま、鷹狩りだけでは飽きたらずに、今度は短剣を持ち出すんですか」 「なんだとっ」 「まぁまぁ、王子さま。ちょっとぼくに話をさせてください。だいたい、ぼくが用事のあるのは、そちらのお姫様なんだから」  ネズミはそう言うと、一歩娘の方に進み、鈍く光る目を上げました。 「お姫様、ぼくという婚約者がありながら、早速浮気ですか?」 「誰が婚約者ですって? 馬鹿も休み休み言いなさい。なんて汚らわしい嘘つきなネズミなの」 「そんなことを言いますけど、ぼくのお城を見ておいて、結婚しないなんてことは通りませんよ。だいたい、この王子さまにしても、あなたの役に立てるなんて大層なことを言っても、所詮口だけですよ。いいでしょう、王子の口約束を信じて、都に行ってご覧なさい。どうせ愛人どまりでしょうよ。それだって、飽きたらすぐにポイですよ」 「なんと無礼なネズミ、わたしを愚弄する気かっ」 「だって、王子さま、そんな立腹しますけどね。今だって隣の国の王様の娘を婚約者にしておきながら、町に何人も愛人を囲っているじゃありませんか。どうせこの人のことだって、そんな女の何人かのうちのひとりにするつもりなんでしょう?」 「だ、黙れネズミっ」  王子は顔色を変えて、剣を構え直しました。  娘は、そんなことは高貴な身分の人にはよくあることだと思いながらも、ネズミの言葉に一瞬強く唇を噛んだ後、 「なによ、さっきから勝手なことばかり言って。だいたい、あんたの城を見たって言うけど、あれはあんたが勝手にわたしを連れて行ったんじゃない。わたしの意思じゃないわ。言ってみれば、誘拐よ」 「誘拐だって?」  王子が口を挟んだので、娘はここぞとばかりに王子に取りすがり、訴えました。 「えぇ、そうですわ。わたくしはこの汚らわしいネズミに誘拐されていたのを、必死に逃げ出して参りましたの。このネズミは恐ろしい犯罪者ですわ」 「わたしの国で罪を犯すとは、もう堪忍ならん。ネズミ、成敗してくれる」 「あんたの国だって? ここがあんたの物だったことなんて一度だってないよ。これからもそうさ。ぼく達ネズミの一族がちょっと本気を出せば、こんな国はあっという間に足元から崩壊だよ。ぐらぐらとね」  ネズミはせせら笑いをして言いました。王子はカッとなって、やにわにネズミに斬りかかりました。しかしネズミはさっと身をかわすと、甲高い声で鳴きました。ネズミの号令を聞いて、恐ろしい数のネズミが、花壇の土の中や館の床下、或いは屋根から、ぞろぞろと這い出して来て、王子と娘を取り囲みました。 「さぁ、お姫様。今ならまだ間に合いますよ。ぼくと結婚しますか? それとも、身の程を弁えず、傲慢な思い違いをしている王子共々、ネズミの国の飾り物として剥製になりますか?」  娘は恐ろしさのあまり、声も出せずに震えていましたが、ネズミはチュウと舌打ちをすると、 「でも、また燭台を投げつけられたんじゃかなわないから、やっぱりおとなしい人形でいてくれる方が都合いいや」  と言ったかと思うと、いきなり歯をむいて飛びかかろうとしました。娘は悲鳴を上げ、思わず顔を覆ってしゃがみこみました。
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