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「えーっと……、そう。あの人はおいらたちに、こんな風に言った。『……あなたたちはこの世界がこれで当たり前だと思っているかもしれないけど……、本当は、違うのよ。本当は、世界はもっともっと自由なはずで、あなたたちを縛り、繋ぎ、押さえ付けて苦しめるような不合理な存在は、あってはならないはずなのよ……。この世界はいわば、不出来な未完成品。道の途上にあるだけなの。その先に、本当の景色がある……! 完成された、あるべき本物の世界が……! あなたたちの……、いいえ、私たちの……! 自由で幸福な、真の世界が!』」
ヤマネは語りながら目を輝かせていた。帽子屋は胸に手を当て、憧れの溜め息をついたようだった。ルイス・キャロルは目を閉じて僅かに首を横に振ると、後ろを振り返って帽子屋に言った。
「失礼、帽子屋さん? 時間の方はどうなりました?」
我に返った帽子屋は、時計と窓の外を交互に見つつ、余裕の笑みで言った。
「フハッ……! まだ後……、七秒ある。JUGから……、LUG(引きずる)、LEG(脚)、LEA(草地)。次はお前の番だが……」
「ウグッ……!」
帽子屋はルイスの正面に戻ってくると、彼の腹を殴ってから言った。
「病んだ少女がどうしたと? 思い出がなんだと言うのだ……! 異国のカジノと子供の病気に、いったいなんの関係がある! 合理的に説明しろッ!」
野ウサギは青い顔をし、ヤマネは醜い笑みを浮かべた。苦しみ喘いでいたルイス・キャロルは、なんとか顔を上げると、帽子屋、ヤマネ、野ウサギの顔を順に見つめて、次のように言った。
「……ご説明は、致します……。これから話す事は、この身に誓って真実です。どうか皆さんは、それを不合理だとか、あるいは途中で、私が無意味な脱線をしているとか思わないでいただきたい。と言いますのも、私の話を皆さんが信じてくださるかどうか、私には……」
「つべこべ言わずに、話すんだ!」
帽子屋がルイスの髪を引っ掴んだ。顔をしかめたルイス・キャロルは、大きく深呼吸を一つすると、こんな風に語り始めた。
「……それは、三年前の七月の事でした……。私は大学の同僚と共に、上司の娘である三人の少女たちを連れて、川へと遊びに出掛けたのです。私と姉妹たちは以前から親しくしていて、件の少女というのは、その姉妹の次女に当たる子供でした。ところでLEAから、TEA(お茶)、TEE(ゴルフのティー)、THE(定冠詞)!」
帽子屋は舌打ちをした。そしてその直後、彼の表情がふと固まった。一瞬遅れて、野ウサギも気付く。
……THEだってっ……? THE……! THEからこれ以上、どう単語を変化させられる? THAとかTHUなんて単語はないッ……! TIE(ネクタイ)とかTOE(爪先)じゃあ、TINまたはTONの後、TAN(なめす)を経由して次にドッドソンが上がれる……。つまり帽子屋は、「沼」に落ちる事になる……! さっきからちょこちょこ誤魔化しているが、これは帽子屋、時間が掛かるぞ……!
一方、ヤマネは自分の番が来たと張り切って、スペードの女王の話を再開した。
「そうっ。あの人は世界のあるべき姿を語り、それからこんな風にも言った。『……だけど、分かるでしょう? 今のこの世界は、まだまだそこからは程遠い……! なぜかッ? それは彼ら彼女らがいるからよ! 私たちを苦しめる者たち! 理想の世界の実現を妨げる者たち! 不正によって得た蜜を毎日すすって、この世の苦しみも屈辱も知らない者たち! それこそが奴ら、王侯貴族たちよ! 彼らはなんの合理的な理由もなく、なんの意味も目的もなく、私たちの上に居座り続けている! 本来自由であるはずの、圧倒的多数の私たちを押さえ付けて!』」
ヤマネが熱を込めて語る間、帽子屋はルイスの椅子の周りをせわしなく歩き回っていたが、やがて唐突に笑いだすと、ルイスの正面に戻って言った。
「フハハハハッ! そうだッ! SHE(彼女)! SEE(見る)! SEX(性)! 『彼女』こそがッ! それまで闇の中で眠っていた我々の目を開きッ、光へと導いてくださった女神なのだッ!」
ルイス・キャロルはこれには答えず、目を閉じて静かに喋り始めた。
「……私たちは川に着くと、ボートを借りて五人で乗り込み、オールを漕いで、のんびりと川を上っていきました。私が先頭で、その後ろ――いえ、ボートですから実際には前ですね――に、姉妹の長女の子と三女の子が一本ずつオールを持ち、続いて私の同僚、しんがりに次女の子が座って、小さな手で私たちに方向を指示しました。が、やがて彼女たちは風景にも飽きてきて、私に何かお話をしてくれとせがみだしたのです。長女はお高く留まって『お始め』との勅命。次女は少しは優しく、『下らないの入れてくれるわよね?』とのご要望。一方三女はいざ話を始めても、遮る事一分に一回どころじゃありません。けれども私は一所懸命この頭をひねって、彼女たちのために、奇想天外な話をアドリブで語っていったのです……。と、続きはこの次。SEXからSEI(イワシクジラ)、SKI(スキー)で、交代です」
苛立ちを募らせて聞いていた帽子屋だったが、ここで再び、彼の表情は固まった。いや、凍りついたと言ってもいいだろう。
「「SKIっ……?」」
帽子屋と野ウサギが同時に声を漏らした。野ウサギは手元の辞書をめくりながら考える。
……SKI……! これはっ……! さっきのTHEより更に一層厳しいぞ……! SKIから変えられるのはSKY(空)くらいだが……、そこは既に沼地の一歩目。そこで止まれば、SAY、MAY、と来てMANで上がられてしまう……! SKYからSHY(シャイ)やSOY(大豆)などとしても、結局帽子屋は沼地から戻ってこられない! 決着してしまうぞ! いいのか、ドッドソン……!
「じゃあ続きね」
ヤマネが言った。
「そう! あの人が、おいらたちを変えてくれたんだ! あの人は言った。『私たちができる事は一つ! それは戦う事ッ! 奴らの不正を正すため、あるべき世界を創り上げるため、不合理な王たちを引きずり下ろす事よ! そうでしょう、みんなッ! 立ち上がるのよ! 世界をこの手で、創り変えましょうッ!』――こうして、革命は始まった! 彼女の熱意は次々と民の心に火を点し、瞬く間に広がって、炎となって奴らに襲いかかった! ハートの王や女王は怒れる群衆たちの手で城から引きずり出され、貴族たちも捕らえられて、一人残らず首を刎ねてやった! あはッ! ホントにいい気味だったよ! それから邪魔者を粛清し終わったおいらたちは、あの人を指導者として、まさに女王様のように戴いて、ほとんど全て言う通りにしていった。古いものは全部壊して、楽しくて儲かる事だけをする事にした! それがッ、この国のカジノってわけさッ!」
ルイス・キャロルは唇を引き結んだ。一方、窓に寄り掛かって顔を伏せていた帽子屋は、ここで大きく息をつくと、唇を震わせながら笑って言った。
「フ、フハハ……。SKIから、SKY、SPY(スパイ)、……そして、SPA(温泉)だっ!」
これを聞いて野ウサギも大きく息をついたが、ルイスはほくそ笑んで背後の帽子屋に言った。
「フフッ。SPAって、英語でしょうかね? 微妙なところですが、まあ、いいでしょう」
帽子屋が声を荒らげて言う。
「フンッ! 純然たる英語だとも! おいッ! 野ウサギッ!」
唐突に呼ばれた野ウサギは、跳ね上がって答えた。
「っはいッ! っなんだいっ? な、ななななんだいッ?」
「お前、表に行ってこい……! 様子を見てくるんだ。窓の外で何か、動くのが見えたのだ!」
帽子屋が言うのを聞いて、ルイスは首を可能な限り回して背後の窓ガラスに目をやった。が、すぐに帽子屋が彼の頭を両手で掴み、無理やり背側にひねって言った。
「そんなに後ろが見たいのなら、いつでも見られるように私が変えてやろう……!」
「痛たたたたた……! いいえっ、結構ですっ! お願いですッ、これではゲームも話も続けられませんッ……!」
帽子屋は手を離し、再びルイスの正面に戻ると、ドスの利いた声で言った。
「フンッ! ゲームはともかくとして、話を続けるつもりがお前にあるのか? つまらぬピクニックの思い出を語っているだけではないか! ……おい、野ウサギ……! 何をしている、さっさと表へ行けッ!」
……しめたっ……! そう野ウサギは思った。……千載一遇のチャンスかもしれない……! ここから外に出られれば、何かできるかもしれない……! 彼を……、チャールズ・ドッドソンを、ここから助け出してやるための何かを……!
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