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1.ゲームをしましょう
吹き荒ぶ木枯らしが、ヒースの茂みを搔き分けて町に侵入してくる。それは傷みきった家々の扉や壁を乱暴にノックしては、割れた窓ガラスの隙間から勝手に中へと上がり込んでいた。家の中から住人の悪態をつく声がしたかと思うと、外の通りではそれに答えるかのように溜め息が聞こえてくる。
犬や猫、カラスに小人――様々な者たちが通りをうろついていたが、誰も彼もが信じられないほどみすぼらしい身なりをしていて、二本の脚で歩くのがやっとというほど疲れきっていた。これが、かつてあのアリスという名の少女が訪れた、不思議の国の現在の姿なのだ。
日が沈みかけていた。薄暗い通りを男が一名、とぼとぼと歩いている。うつむき気味の男の顔に、突然、何かが覆いかぶさった。
「ンップ! モガガ……!」
大きな木の葉が、風で飛ばされてきたのだった。男は慌てて顔に張り付いた葉を引き剥がす。男はトカゲで、かなり年を取っていた。名前はビル。彼は木の葉を細切れに破いて放り捨てると、忌々しそうに声を漏らした。
「畜生……! これが土地の権利書とかなら良かったのによ! そんな幸運が舞い込んで来りゃいいのによう! ……へ……、へへ……。畜生……、金がありゃあなあ……!」
と、その時だった。通りの向こうから、何やら見慣れぬ男が歩いてくるのに気が付いたのだ。
それは膝下まで裾の伸びた黒いフロックコートを羽織った、ひょろりとした紳士だった。黒く滑らかなシルクのトップハットを被り、髪は栗色。やや眠たげな顔付きの、大人しそうな青年だ。右手に柄の曲がったステッキをたずさえ、左手には大きな革の旅行鞄を持っている。
「しめた……!」
トカゲのビルが手をこすりながら呟いた。
「旅の紳士ってやつだ……! 今どき物好きな人間もいたもんだぜ……。けど、ツイてるぞ。へへ……。紳士の義務とやらに、ちょっくらあやかろうじゃねえか……!」
紳士は時折風が強く吹く度に帽子を押さえて、一人で道を歩いていた。心なしか、その足取りは重い。トカゲのビルはわざとらしくよろめきながら紳士の前に立ち塞がると、両手を差し出し、上目遣いで哀れっぽく言った。
「旅の旦那ぁ……、お恵みを……!」
紳士はその青い瞳でみすぼらしいトカゲの姿を目の当たりにすると、一瞬表情を強張らせた。が、すぐに彼は穏やかな微笑を浮かべて、右手でポケットの中を探りながら言った。
「少々お待ちくださいっ。ええっと……」
紳士は間もなくポケットから銅貨を一枚取り出すと、おどけた口調で言った。
「はいッ。ではでは、よろしいですか?」
彼はトカゲに向かって、手を前後に振ってみせる。察したトカゲのビルは戸惑いを覚えながらも、両手を広げて身構えた。
「行きますよ~。はいッ!」
ピーンと音を立てて、紳士が銅貨を指で弾き飛ばした。回転しながら高く上がったそれを、ビルが目と手で追う。普通はコインを地面に投げ捨てる。それを乞食は這いつくばって拾うのだ。少しでもみじめな思いをさせないように、この紳士は遊びに仕立てているのだろうか、とビルは思った。
……余計なお世話だぜ、ガキじゃあるまいし。……畜生、イラつく……。へっ、なんだか、もうどうでもよくなってきたぜ……。どうせオイラは……。
パシンッ!
ビルはコインを両手で挟むようにキャッチすると、その手を重ねたままゆっくりと平らに倒し、紳士の顔に向けて突き出しながら、引きつった笑みを浮かべた。
「へ……、へへ……」
紳士が怪訝な表情をする。ビルは死んだ魚のような目で紳士を見つめると、笑いながら、こう言った。
「表か、裏か……!」
「……えっ……?」
紳士が思わず聞き返した。するとビルは握りしめた両手を少しゆすって、声を大きくして更に言った。
「ギャンブルだよ、旦那! 分かるだろ? 表か裏か! オイラが勝ったらもう一枚おくれ! さあ、ほら! へへへ……!」
紳士は言葉を失っている。それがまともな反応だろう。いったいどこの世界に、受けた施しをそのまま賭ける物乞いがいるだろうか。ワンダーランドはイカレた所だ。けれどもかつては、ここまでイカレた国ではなかったのだから。
トカゲのビルは紳士ににじり寄る。紳士は顔を強張らせ、黙ったまま後ずさりする。
が、やがて不意に、紳士は足を止めた。彼はビルの握りしめた手をゆっくりと指差すと、真剣な表情と口調になって、次のように言った。
「……『裏しか出ないコイン』……、例えばそれは……、『心のこもった歓迎』に似ています」
今度はビルが言葉を失う番だった。……この男は急に何を言い出した? 『裏しか出ないコイン』? この手の中にあるのが、そうだって言うのか? だとしたら負ける……! こいつ、何者だ……?
「なぜなら……」
紳士が言葉を続ける。ビルは息を呑む。『裏しか出ないコイン』は『心のこもった歓迎』に似ている……? なぜなら――?
「『オモテナシ』ってね!」
「へっ?」
呆気に取られるビルに向かって、紳士はぺらぺらと早口で喋りだした。
「ですからね、お客を歓待する事を『お持て成し』というでしょう? それとコインの表裏を掛けてまして、裏しか出ないから『表ナシ』。実際にはそれ普通の六ペンスコインで」
「下らねえ」
トカゲのビルが、紳士のお喋りを遮るように言い放った。
「へっ……、下らねえ……。ふっ……、ふふふっ……」
ビルは下を向いて肩を小刻みに揺らしていたが、やがて声を上げて笑いだした。
「アッハッハッハ! 下らねえっ! マジメな顔して、おかしな人だな、旦那! 気に入ったぜ!」
トカゲのビルは紳士の脇に回り、彼の背中をバシバシ叩いた。
「いっ……、どうやら歓迎、してくださるようで……」
紳士は苦笑いだったが、ビルは悪びれもせず、彼に尋ねた。
「旦那は旅行かい? この町は初めて? この国は?」
紳士はたどたどしく答える。
「ええっと……、そうですね。来るのは初めてです。この国も、この町も」
「なら、ちょっくら案内してやるよ。付いてきな」
ビルは紳士からもらったコインをちょっと振って見せると、通りに沿って歩きだした。紳士は両眉を少し上げた後、ステッキを突きながらビルの後を追っていった。
町の中はどこも荒んでいて、住民は動物の種類に関係なく皆虚ろな目をしており、地べたに寝ている老いた小人もいれば、重労働を課せられている幼い雛鳥もいた。しかしその中で最も目に付くのは、両手を固く握りしめ、祈るようにブツブツ言いながら歩いている者たちで、その姿は道が大通りになるにつれて増えていった。
やがて、不思議に思う旅の紳士にも、彼らがどこへ向かっているのかが分かってきたようだった。彼らは大通りの向こうの角にある、ガス灯の不気味な光に照らされた建物に集まっていくのだ。周りの今にも崩れそうな木造の建物の中で、その建物だけが鉄柵に囲まれた堅牢なレンガ造りであり、まるで縦横に引き伸ばしたかのように大きな、四階建ての屋敷だった。トカゲのビルの足も真っ直ぐにそこへ向かって紳士を連れていくようだ。
近付くにつれて、その敷地の内外に備え付けられた無数のガス灯と窓の中の蝋燭の明かりは、目も眩むほどの明るさになった。そしてまた建物の中からは怒号や歓声、慟哭に大音量の音楽といった様々な喧騒が聞こえてきて、更には酒や煙草や、その他わけの分からない悪臭が溢れ出ていた。
開け放たれた大きな門と、屋敷の、これまた開け放たれた大きな扉をくぐって、老若男女が引っ切りなしに出入りしている。彼らの表情には、悲しみや喜び、怒りに不安、希望に絶望といった、およそ考えられる限りありとあらゆる種類の感情が現れていた。彼らのくぐる門の上には大きな看板が掲げられている。トカゲのビルは紳士を連れて門の下までやってくると、その大きな看板を示してこう言った。
「ほら、ここがこの町の夢と希望の集まる所、カジノ『ラビットホール』だ」
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