4.愛という名のちょっとした狂気

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「あはッ! そりゃ面白そうだ!」  ヤマネがすぐにそう言ってはしゃいだが、ルイス・キャロルはちょっと考えると、クスクスと笑いだし、帽子屋に言った。 「フフッ。ゴールの設定ですか。なるほどなるほど、いかにもです。まあ、それは構いません。制限時間もね。ですが……、分かりませんか? それだと先程の例で行くと……、つまりHATがゴールでこれを言った方の勝ちだとした場合、互いに一文字ずつ変えるのですから、HATの一手前のBATやHITは、お互い絶対に避ける事になります。あなたか私のどちらかがよっぽどうっかりしていない限り、ほとんど切りがないというのは変わらないのでは?」  彼の指摘が終わるのを待たず、帽子屋はいかにも苦い顔になった。 「あっ、ホントだッ! じゃダメだ」  ヤマネが言った。しかしルイス・キャロルは彼らの顔を見てから、続けて次のように言った。 「いえいえ、お陰でいいアイデアが浮かびましたよ! こうすれば面白くなります。交互に一文字ずつ変える、としたのを、『手番に一手から三手まで任意で行える』事にしましょう! これならなかなか、頭を使うゲームになりますよ!」  これを聞いてヤマネは戸惑い、帽子屋は目の色を変えた。一方で、野ウサギはうろたえ気味にルイスに言った。 「という事はっ、つまり先の例で言うとっ……、MADがスタートなら先攻プレイヤーは、BADで手番を終えてもいいし、BAD、BAT、で終えてもいいし、BAD、BAT、HATと変えてもいいという事かっ? それだとすぐに終わって……、終わっちまうぞっ? 終わっちまうッ!」  ルイス・キャロルは彼に笑顔を向けて答える。 「フフッ! 仰る通りです。実際にはMADからMAT(マット)あるいはHAD(Have過去形)を経由して、HATまで二手で上がれますね。ですから流石に、スタートとゴールの単語は吟味しなければなりませんが」  野ウサギは藁を冠として(いただ)いたその頭の中で、こんな風に考えていた。  ……この青年は……、いったいどういうつもりなんだ……? 吟味すると言ったって、一度に三回も文字を変えられるのでは、大抵の二つの三文字の単語はすぐにそっくり入れ替わってしまう。四文字以上の単語にするつもりか? だが帽子屋はそれを許さないだろう。おまけに、彼は先攻後攻の決定権を譲らないはずだ。だとすると、スタートとゴールの語が決まった瞬間に、ほとんど帽子屋の勝利は決定するのではッ……?  ……この青年は、先程から僕にちらちらと視線を送っている……。既に気付いているはずだ……。僕がこの真冬の十二月にあって、本当は至って正気であり、狂気を演じているに過ぎない事に……! 彼は僕が帽子屋を裏切り、自分を助けて逃がしてくれる事を望んでいる。そのために、先程から可能な限り、『時間稼ぎ』をしようとしている……。いや、していた、と言うべきか……。それは伝わっていたし、今だって、できれば僕もそうしてやりたい。僕だって……、そうさ、僕だって、この狂った場所から、今すぐ逃げ出したい……! けど、無理なんだ……! 今更何ができると言うんだッ……? そうだろう? 周りの全て……、何から何まで、とことん狂ったこの世界で……!  一方、帽子屋は歪んだ笑みを浮かべて少し考えると、ルイスに向かってこう言った。 「なるほど! 膨大な知識と深遠なる読みが試される! いいゲームだよ、ドッドソン! 基本のルールはそれで行こうではないか。扱うのは三文字の単語がいいだろうな?」  ルイス・キャロルは涼しい顔で答える。 「そうですね。クイズとしてなら四文字の方がおススメですが、今の場合、つまりゲームにするなら、三文字がいいでしょう」  野ウサギは密かに唇を噛んだ。帽子屋は更にルイスに尋ねる。 「スタートワードとゴールワードはどうのようにして決めようか? もっとも、私はどんな言葉でも構わぬがね!」  ルイス・キャロルは考えながら言った。 「そうですねえ……。ではでは、ヤマネさん?」 「ふぇっ?」  置いていかれ気味だったヤマネが、素っ頓狂な声を上げた。ルイスは彼に言う。 「何か適当な三文字の英単語を二つ言っていただけませんか? その二語の間の変化が、四手以上掛かるものを採用しましょう」 「……フンッ。いいだろう」帽子屋が言う。「もっとも、適当な組み合わせが見つかればだがな。フハッ! ほらヤマネ、思い付く単語を言ってみろ」  帽子屋が促すと、ヤマネは頭をひねりながら呟くように言った。 「……えーっと……、じゃあ、POT(ポット)とTEA(お茶)とか……」  ルイス・キャロルはちょっと考えたかと思うと、すぐに首を横に振った。 「POTからPET(ペット)、PEA(エンドウ豆)、TEA、で、三手で終わってしまいますね」 「おお……! 早い……!」  野ウサギが思わず感嘆の声を漏らした。帽子屋は唇を真一文字に結びながら、ヤマネに次を促す。 「……えーと、じゃあ、BOY(少年)からMAN(男)……」 「フフッ。なかなか詩的ですね」ルイスが言った。「ですがそれだと先程より簡単。BAY(湾)、MAY(五月/助動詞)、MAN、と三手で……」  と、ここで彼は何か思い付いたようだった。 「そうだッ、これはどうでしょう? 『APE(類人猿)からMAN(人間)へ』! この組み合わせなら、三手で終わる事はないでしょう」  帽子屋も野ウサギも、少しの間考えてみたが、三手の解は見つからないようだった。野ウサギは思う。  ……なるほど……。流石、カジノオーナーたちを負かしてきただけの事はある……! これなら帽子屋が先攻になっても三手でゴールはできないし、この青年が先攻を押しつけられても、余程下手な手を打たない限り、後攻の帽子屋が三手でゴールする事もありそうにない。時間も稼げるかも……。この人はまだ、諦めていない……!  その間、ヤマネはルイスに尋ねていた。 「おいらは別になんでもいいけどさ。けど、猿と人間の間に、なんの関係があるわけ? ただの思い付き?」  ルイス・キャロルは笑って言う。 「あー……。フフッ。これは何年か前に、私と同じファーストネームの生物学者が唱えた説でしてね。人間の祖先の祖先の、そのまた祖先は、なんと猿だそうですよ」 「フハハハッ!」帽子屋が噴き出した。「お前の祖先はそうかもしれぬな、ドッドソン。だが我々は違う。我々は祖先もその祖先も、神によってこの世に創り出された時から、今と同様の姿なのだから」  ルイス・キャロルは笑って肩をすくめた。 「それはもちろん、そうでしょうね」 「フンッ。戯言はそこまでにするんだな……!」  帽子屋は鼻で笑うと、ルイスを見下ろしてまくし立てるように言った。 「APEがスタートでMANがゴール、それでいいだろう。一文字ずつ、手番に三手まで変えられる。当然、一度使用した単語は二度と使えないという事で良いな? 使用できるのは英語のみで、外国語はなし。略語や接頭辞、接尾辞もなし。人名もなしだ」  野ウサギは思った。……くっ……、帽子屋はなるべく早く勝負を終わらせようとしている……。やはりチャールズ・ドッドソンが助かる見込みは……。そもそも帽子屋は、スペードの女王に気に入られたい一心で勝負をしようとしている。結果がどうあれ、ゲームが終わればすぐに……、いや、気紛れ次第で、いつでもゲームを打ち切り、拷問に移るかもしれないんだ……!  一方、ルイスは口を尖らせて帽子屋に言った。 「英語のみで外国語はなし……。けれども、どこからどこまでが英語かというのは、厳密にはかなり厄介な問題でして……。ノルマン・コンクェストってご存じですか?」  帽子屋は苛立ちながら言う。 「存じているとも……! フンッ……。動植物、鉱物の名前で英語名がない物のみ、外国語は可としてやろう! 他はフランス語ドイツ語などは元より、ギリシャ語、ラテン語、またスコットランド語などの方言、古英語も禁止だ。異存ないな?」 「……分かりました。略語というのは、VIP(=Very Important Person)などの『三文字頭字語』も、BRO(=Brother)なども全てダメという事でしょうか?」 「無論だ」 「R.I.Pや、人名のBOBを、『引き裂く』とか『おかっぱ』の意味で使用する事は、もちろん可能ですよね?」 「……可能とする。ドッドソン、これくらいでいいのではないか? これ以上やりとりが続けば、私は他の事をしたくなってくるかもしれぬ……!」  ルイス・キャロルは申し訳なさそうに帽子屋に言う。 「これはこれは、お付き合いありがとうございました。このくらい決めておけば、ゲーム中にあれこれ言い合う事はないでしょう。ところで制限時間の方ですが、一ターンに五分くらいですか?」 「フハッ! 馬鹿を言うな。一手五分も掛けられるものか」 「ではでは、十秒とか?」  ルイス・キャロルがそう言うと、帽子屋は沈黙し、暗闇だけの窓の外を見つめて考えた。やがて、彼は再びルイスの方に向き直って言った。 「……四十五秒だ。一手番に四十五秒。私がこの時計で測る」  彼はチョッキのポケットから金時計を出して見せた。野ウサギは息を呑む。ルイスは屈託のない笑顔で、帽子屋に更に尋ねた。 「一手変えるつもりでも三手変えるつもりでも、制限時間が来たら、そこで手番交代。あるいは、四十五秒間で一つも単語が出てこなかった場合、つまり既出の単語を除いてそれ以上一文字も変えられなくなった場合、その時点で詰まったプレイヤーの負け。そういう事でよろしいでしょうか」  帽子屋は不敵な笑みを浮かべて答える。 「フン、そういう事だ。……ならば、そろそろ始めようではないか! 先攻はお前に譲ってやろう。異論あるまいな?」  しかしルイス・キャロルは椅子に座ったまま視線を落として、何か考えているようだった。帽子屋は声を上げる。 「どうした。異論があるのか? それとも、まだ他に何かあると言うのか?」  するとルイスは神妙な顔を上げたかと思うと、次の瞬間には明るくこう言い放った。 「いえいえ、先攻で大丈夫ですよ。ただ一つだけ、非常に重要な事が決まってませんでしたのでね。ですがご安心を。今決まりましたよ! ワードリンクスかワードラダーかで迷いましたが、最終的には……」 「おい、君っ! 何を言ってるっ?」  野ウサギがうろたえながらルイスに言った。ヤマネも首を傾げている。しかし帽子屋は、今にもルイスに向かって振り下ろそうとしていたその腕を止めると、高らかに笑ってこう言った。 「フハハハハッ! なるほど、確かに重要だ! お前たち、分からないか? この紳士は考えてくださったのだよ! 我々が今から全霊を掛けて戦う、このゲームに相応しい名前をな! さあドッドソン、言ってみるがいい!」  ルイス・キャロルは声高に言った。 「フフッ! それでは発表いたしましょう! 生い茂る言の葉によって造られし回廊! 無数の分岐で戦士を惑わす恐るべき迷宮! 即ち、『ワード・ラビリンス』! それがこのゲームの名前です!」
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