4.愛という名のちょっとした狂気

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 ♠ ♥ ♣ ♦ 『ワード・ラビリンス』  三文字から成る二つの英単語を、スタートワードとゴールワードとして設定する。  プレイヤーはスタートワードから始めて、単語の文字をいずれか一文字変え、存在する別の英単語を作る。これを一手とし、プレイヤーは一ターンに一手から三手まで任意に単語を変化させる。この操作を、プレイヤー間で続けて交互に繰り返していく。  その際、既に使用した単語は二度と使用する事はできない。また、他言語や略語など、使用できる単語には制限を設ける。  手番内でゴールワードを作る事のできたプレイヤーの勝利。あるいは、制限時間内に単語を一手も変化させることができなかった場合、そのプレイヤーの敗北となる。  小屋の外を吹く風の音と木々のざわめきが、いつの間にか随分と大きくなったようだった。  帽子屋はヤマネと野ウサギに辞書を探させて、自分はその間、ルイスの背後の窓に顔を近付け、外の様子を見ていた。外は暗く、部屋の中が明るいため、そうしなければ窓ガラスが光を反射してしまうのだ。現に縛られたままのルイスの正面にある、反対側の窓には、鏡のようにルイス自身の頭や帽子屋の背中、そして辞書を探しながら、浮かない表情をしている野ウサギが映っていた。  ルイス・キャロルは帽子屋やヤマネの隙を突いて、その野ウサギにウインクを投げ掛けた。けれどもそれに気付いた野ウサギは、鏡となった窓ガラス越しに、険しい表情でほんの僅かに首を横に振っただけであった。 「あっ、あった! 辞書あったよ!」  ヤマネが、書き物机の引き出しの中から、辞書を一冊見つけて言った。帽子屋はルイスの傍らまで戻ってきて言う。 「良し……。ドッドソン、これでお前が、辞書にない出鱈目な言葉を捏造していないかどうか、きちんと確認できるわけだ」  ルイス・キャロルは笑って答える。 「フフッ! ご心配なく。正直言ってそういうのは得意ですけど、ゲームのルールはちゃんと守りますから」 「フハッ!」帽子屋も笑った。「それは結構! ならば最早、このゲームでイカサマが行われる心配はないという事だな! 運も関係なければ伏せ札も道具すらもない、純粋に頭脳のみの勝負だ!」  彼はヤマネと野ウサギ、そしてルイス・キャロルの顔を順番に見つめると、最後に自分の金時計に目をやり、声高に言った。 「では良いなッ? 制限時間は一ターン四十五秒! 最初の語はAPE、先攻はお前だ! さあッ! 始めるがいいッ!」  ルイス・キャロルは不敵な笑みを浮かべた。一方で、野ウサギはテーブルに着いて、息を呑んでいる。彼は思った。  ……始まった……。チャールズ・ドッドソンは負ければ即座に拷問。かと言って、すぐに勝ってしまっても結局同様だ。勝負が長引いて、帽子屋が痺れを切らせば、これまた拷問になるだろう……。つまり、ゲームをできるだけ長引かせつつ、帽子屋を食いつかせておかなければならない……。その間に、なんとかして僕が助けない限り、彼の命……、いや、精神は……。だけど、ヤマネもいるし、全てが丸見えのこの部屋で、いったいどうやって……!  一方で、ヤマネはテーブルの上で辞書をめくりながら喋っていた。 「APEからMAN……。APEからMAN……。これってホントに繋げられるの? おいら見当も付かないんだけど。単語の、形っていうの? APEとMANじゃ、それが全然違うし。ボインとか、コインっていうの?」 「母音と子音だ。シイン」帽子屋が苦い顔をして言った。「フンッ。何、きっと彼がすぐに教えてくれるさ。同じような形の単語の中でうろうろして、お茶を濁したりする事なく、な……! ほらドッドソン、どうした? 時間がどんどん過ぎてゆくぞ?」  するとルイス・キャロルはほくそ笑んで言った。 「フフッ。ではではそろそろ、迷宮への初めの一歩を踏み出しましょうか。APEという語の真ん中の一文字を変えて……、ARE(be動詞)!」 「あ~! なるほど~! おいら、まず一手目が分かんなかったんだよね!」  ヤマネが感嘆の声を上げた。ルイスは笑いながら、続けて言う。 「更に、AREという語の最後の一文字を変えて、ARM(腕)! 更に更に、真ん中の一字を変えて、AIM(狙い)! これで三手! いかがでしょう?」 「おお……!」野ウサギが感心して言った。「なるほど……! これなら、MANみたいな、子音・母音・子音の形に、変化させられる……!」  ヤマネは顔をしかめながら言う。 「んんっ? どうやって?」  野ウサギはヤマネの前に置いてある辞書を帽子屋たちに見えないようにめくって、ヤマネに諭した。ヤマネは声を上げる。 「ほほー! なら次、三手以内でMANまで行けるんじゃない?」  これを聞いて、野ウサギは青くなった。反対に、帽子屋は醜い笑みを浮かべた。 「フハッ! かもしれぬな! では、私の番と行こうか……!」  彼はそう言うと、ゆっくりとルイスの掛けている椅子の周りを回り始めた。 「AIMからMAN、AIMからMAN……」  ヤマネが辞書をめくりながら呟く。野ウサギは祈るようにそれを傍らで見ている。やがてヤマネは野ウサギに言った。 「あはッ! これはッ? AIMから、MIM、MAM、MAN! これで終了ッ!」 「なっ……!」野ウサギは慌てて辞書を引ったくる。「……い、いやっ、駄目だっ! MIMは方言、MAMはmammaの略だって書いてあるッ! 方言も略語も禁止だっ!」 「ちぇ~ッ……! 勝ったと思ったのに……」  ヤマネは口を尖らせ、野ウサギは胸を撫で下ろした。一方、ゲームのプレイヤーである二人は、ポーカーフェイスを保ったままだ。ルイスの周りをぐるぐる歩いていた帽子屋は、やがてきっぱりとこう言った。 「良し。決めたぞ……! AIMからHIM(彼を)! 手番終了だ!」  ルイスは肩をちょっとすくめて、帽子屋に言う。 「おやおや、一手だけですか? もったいない。私なら更に……」  ヤマネや野ウサギもやや意外に思っているようだったが、帽子屋は鼻で笑ってルイスに言った。 「フハッ! お喋りしていていいのか? 既にお前の持ち時間は減り始めているのだぞ?」  野ウサギは密かに歯ぎしりをしたが、ルイス・キャロルは涼しい顔で言う。 「おっと、これはご親切にどうも! ではでは、そうですね……。ふーむ……」 「言っておくが、」帽子屋が言った。「HMM(ふーむ)は認めない。略語の一種、あるいは単語ではない、『ただの音』と見なす」 「アハッ! まさか! そんな事考えてませんよ! フフッ! 『ふーむ』で一手なんて、まさかそんな!」  ルイス・キャロルは大袈裟に笑ったが、一方で野ウサギははらはらしていた。顔を引きつらせている帽子屋が、いつ怒りを爆発させるかというのが一つと、もう一つは、このゲームの構造が、ようやく分かってきたからだ。  ……帽子屋の答え方からしても、おそらくHIMからMANに三手では辿り着けない……。それよりもむしろ、チャールズ・ドッドソンがここで下手な手を……、例えばHAMなどで終えてしまうと、その次の帽子屋は、HAMからHAT、MAT、MANなどとして上がってしまう……! HITやHIDも駄目だ……!  ……このゲームのイメージは、こう……。沼地の真ん中に、APEという語を中心とした、小島がある。沼の周りには『MAN』という、乾いた陸地が広がっている。そこまで辿り着ければいいんだ。けど、沼の中には、獰猛なワニが待ち構えているんだ……! それがHAMやHAT、MATという単語……! それらは岸辺から大股三歩以内の距離をうろついている。プレイヤーがそのワニの上で止まったら最後、食われて、次のプレイヤーがその死体を足場にし、向こう岸に上がってしまう……! そうさせないためには、プレイヤーは今いる小島の中で、安全な移動を繰り返すしかない。だから帽子屋は一手で留まったんだ……!  野ウサギがこんな風に考えている間、そしてルイス・キャロルはおどけて帽子屋を苛立たせている間にも、次の手を考えていたようだ。ルイスは言った。 「……さて、それではそろそろ……。HIMという語を一文字変えて、HUM(ハミングする)、HUE(色合い)、HUG(ハグ)!」 「おおっ?」  ヤマネが驚きと好奇の混じった声を上げた。帽子屋の表情にも若干の驚きが見られる。野ウサギは生きた心地がしなかった。  ……一度に三手も……! HUGからMANは? 大丈夫なのかっ……? どうして彼はそんな……。ひょっとして……! 彼は自ら、安全地帯を、削りにきたのかッ……? まさか、彼はっ……! あくまでこのゲームに、勝つつもりなのかッ? 「フハハ……!」帽子屋は顔を引きつらせて笑った。「ハミングだのハグだのと……、随分と微笑ましい単語を並べながら、その実、えげつない手を打ってくるものよ……! お前の狙いは読めたぞ!」  ルイス・キャロルはまたもや肩をすくめて、微笑みながら言った。 「さてさて? 帽子屋さん、あなたの持ち時間は、まだ減り始めていないのですか?」  帽子屋は鼻で笑うと、再びルイスの椅子の周りを、黙ってゆっくりと歩き始めた。するとヤマネもまた先程と同様に、辞書をめくりながら、 「HUGからMAN、HUGからMAN……」 と呟き始める。野ウサギは彼に言う。 「おい、君っ……! それやめろよ……! せめて、彼らが単語を言ってから調べろ……!」 「え~。だって、その間、暇じゃん!」  ヤマネは不満気に言った。するとその時、クスクスという笑い声が聞こえた。テーブルを挟んで、ルイス・キャロルがヤマネたちの方を見て笑ってるのだ。彼は言った。 「ではではヤマネさん、いい考えがありますよ? 帽子屋さんが次の手を考えている間、あなたが何か、お話をしてください」  ヤマネは軽く噴き出して言う。 「あはっ! あんたもイカレてるね~! ま、いいけど?」  彼らが言うのを聞いて帽子屋は顔を歪めたが、そちらに構う余裕はないらしく、黙認となった。野ウサギは訝しみながらも、ルイスに合わせてヤマネを促す。ヤマネはルイスに向かって、こう語り始めた。 「それじゃあ、井戸の底に住んでた三姉妹の話ね。昔々――」  ルイスはすぐに口を挟んだ。 「あっ、すみませんが、そのお話は私も、あなたから聞いたという人から伝え聞いて、知っているんです。ですから今回は別の話を……」 「へえ! じゃあチャーリーは、どんな話がいいわけ?」  ヤマネがそう尋ねると、ルイス・キャロルは何気ない様子で、こうリクエストした。 「そうですねえ……。私はよそ者なのであまり良く知らないのですが、あなたたちは都の周りで、間近に見聞きしてらっしゃったんでしょう? 先の革命とスペードの女王様の活躍について、私に一つ、教えてくださりませんか?」
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