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「人殺し。」
彼女の言葉に、急に現実に引き戻され、酷く冷たい視線が胸に刺さる。
「あれは・・・」
「事故なんかじゃない。貴方は、私の命を奪ったのよ。だから、私の話を聞くべきよ。」
座り込む私へ一歩一歩近づく彼女に、私は顔が上げられず項垂れた。
今更、何の話をするというのか・・・。
そっと伸ばされた彼女の人差し指は、私の額に触れ、その瞬間彼女の想いが伝わってきた。
塚田杏子は、私生児だった。
うちと劣らぬ名家の出である母親は、どこの馬の骨ともわからぬ男と駆け落ちし、数年後には子供である杏子を連れてまた家に戻ってきた。
男に捨てられた母親は事ある毎に杏子に手を上げ、見かねた祖父が二人を引き離した。
家にある離れに母親を閉じ込めたのだ。
そのせいか、母親は大人しくなったものの、いつからか精神が不安定になり、突然暴れたかと思えば杏子の名を呼びながら泣き叫ぶ事もあった。
母はいないと思いなさい。
祖父や祖母にそう言われて杏子は育った。だけど、時に恋しくなり離れにそっと出向いたりもした。
そこには、華やかな服を纏い、艶やかな化粧をしたありし日の美しい母の姿ではなく、まだ若いのに白髪となり、げっそり痩せ細った骸骨の様な女がいた。
あんなのは母ではない。
杏子は酷くショックを受け、離れには近づかなくなった。
それでも、いつかまた母が元に戻るのではないかという期待も捨ててはいなかった。
そうだ・・・。
杏子はいつの日か、母と訪れた映画館を思い出した。
あの日は二人で映画を見て笑って、泣いて・・・楽しかった。
あんな物語を聞かせれば、また母は元気になるのではないか。
子供の浅知恵ではあるが、杏子はそう思い立つと早速物語を考えようとノートを広げた。
きっと、うまくいく。
藁にもすがる気持ちで、頭を巡らせた。
どうすれば母が笑ってくれるだろうか。
ここで、こうすれば感動するかもしれない。
物語を考えている間は至極幸せだった。
嫌なことも忘れられた。
だから、飯田由加理達からの虐めなど相手にしている暇などなかった。
どんなに叩かれようと、なじられようと、私には夢があったから。
母に笑ってほしかった。ただそれだけの想いが私を強くさせた。金持ちの道楽で虐めをするような女とは違う。
それなのに、あの日はたまたまノートを持つのを忘れて机の中に入れっぱなしで移動した。
呼び出されて屋上にいけば、あの女がノートを持ってニヤニヤしていた。
「これ、大事なものなんでしょ?」
「返して!」
「見ちゃった~。なによ、これ、全然面白くないし。こんな幼稚なお話書くのがそんなに大事?」
「いいから、返してよ。貴方には関係ないでしょ。」
「・・・その上から目線がムカつくんだよ!ほら、返して上げるよ。」
ヒラリと下へ投げる様な仕草に私は慌てて走り出した。
飯田由加理を突飛ばし、ノートを取ろうと手を伸ばし手摺に片足をかけた。
前日、雨が降って乾ききってなかった手摺にズルッと滑った時には、体は宙に舞っていた。
その時、スロー再生の様に見えた飯田由加理の顔は、怯えるような恐怖でひきつっていた。
それを見た私は、死ぬんだな、と確信した。
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