相田 修一

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幼い頃、母が私を抱きしめて流す涙の本当の意味をわかってはいなかった。 病院の一室、消毒の匂いが鼻について、目が痛くなるような気がして、苦手だった。 元々白い肌の母は、より一層白く、そして細くなっていった。 父の大きな手を握り、ほぼ毎日母の元を訪れ、そこで絵を描いたり話したり、私の母との思い出は白い箱の中でしかない。 誰かが家族で遊園地に行った。 誰かが家族で動物園へ行った。 羨ましくて、そんな話を聞くたびに私は母に嘆いた。 どうしてうちは何処にも行けないのか!お母さんはなんでこんなとこにいるのか!早く家に帰って来てよ! 母は黙って聞いた後、いつも困ったように笑って私の頭を撫でた。 いつかここを出られたら、お父さんと愛菜(まな)の好きな所に一緒に行こうね。 同じ台詞を何度聞いただろうか。 いつからか、半分諦めていた状況の中、父方の祖母と家にいた私の元へいつもより早く父が帰って来た。 酷く慌てていて、外は雪が降りそうな程寒い日だったのに、父は見た目にわかるくらい汗をかいていた。 「愛菜、お母さんが。お母さんが。」 絞り出す様に出した声。 私の肩を掴む父は顔がぐしゃぐしゃになって泣いていた。 祖母は釣られるように泣き出し、私は茫然とするしかなかった。 タクシーに乗り込んだ私はどーやって病院に着いたのかあまり記憶にない。 ただ、いつも母がいる病室には、沢山の人がいた。 「残念ながら・・・。」 医師も、看護師も俯いていて、父は顔に布を被せられた母の体にしがみついていつまでも泣いていた。 私は・・・現実と受け止められなかったのかもしれない。 父が何故泣いているのか。 母に何故布が掛けられているのか。 だって、母は約束した。 いつかここを出られたら、好きなところに行こうと。 「嘘つき。」 ポツリポツリ言葉が口から零れ落ちてゆく。 「お母さんの嘘つき!」 父が私を抱き締める。 今までいつも笑顔だった父がこんなに悲しみ、大きな体を震わせ泣いている。 「なんで。なんで。帰って来てくれる・・・」 私は泣いた。 父の温かい胸の中、これは生きている人間の体温。 でも、もう母からはその温もりが消えて、冷たくなってゆくのが怖くて。 もう名前を呼んでもらえない。 頭を撫でてもらえない。 「お父さんも愛菜も愛してるわ。それを忘れないで。」 何度も言い聞かせるように言っていた言葉が今は辛くて仕方ない。 愛しているならなんで、なんで、置いていってしまうの。 お母さん。
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