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序章
ざっぱああん。
物凄い水音が辺りに響く。
ナホは一瞬、何が起きたのかがわからなくなった。
鼻から口から水が入って来て、苦しいなんてものじゃない。水面に打ち付けた背中にも激しい痛みが走ったのだったが、そんな数秒前の記憶すら定かじゃない。
とにかく今は息がつけなかった。せめて息だけはと口を開けば、さらにどぼどぼ水が流れ込んでくる。吐き出そうともがけばもがくほど、体はどんどん流されて沈んでいこうとしていた。
このままじゃ溺れる。 そんな弱気になる余裕すらなかった。
生きようとする人間の本能のみで行動していて、思考は停止中。ただ夢中で手足をばたつかせて、必死で助かろうと足掻く。
「おい。掴まれ」
不協和音のような水音だけが耳に響いていたが、天の助けは聞き逃さなかった。
声の方向をみれば、一本の縄がある。
ナホは手を伸ばしたが、ゆらゆら揺れるそれを掴むのはかなり難易度が高い。何度か失敗しているうちに、本格的に意識が遠のいてきた。
「まったく手間のかかる」
耳元でぶつぶつ聞こえてくるのは、知らない男の声だ。
ナホは意識朦朧としたまま、されるがままにしていたが、背中を叩かれた痛みと、その衝撃で水を吐いた気持ち悪さで、ようやく気を取り直した。
「げほっ」
「ほら、もう一度」
男は面倒そうにそう言うと、また同じ場所をばしりと叩く。
「痛いっ」
ナホが涙目になりながらそう文句を言うと、男はふうっと溜息を吐いた。
「声が出れば大丈夫だな。おい、娘。ここは子供の水遊びには向いてない川だぞ」
「水、遊び、なんて、して、ません」
焼付く様に喉が痛むせいで、まだ思うように言葉が出ない。切れ切れにそう答えると、自分を救ってくれたのであろう男に向き直った。
ナホははっとして息をのんだ。 郷里の人間ではない。
「あなたは?」
「まず、助けてもらった礼を言ったらどうだ?」
もっともな言い分だったが、不遜そのものの相手の態度のせいで、素直に礼を言う気分ではなくなった。とは言え、その恰好から察するに相手は、かの国の人間であろう。逆らえばバカをみるだけだ。
「すみませんでした。助けてくれて、ありがとうございます」
ナホは出来うる限り丁寧にそう述べると、座ったままの姿勢でちょこんと頭を下げた。
「まぁいいだろう。良く出来た」
男は親が躾をするようにそう言うと、わしわしと頭を撫でる。
ナホはその扱いに内心でムッとした。いくらかは年上だろうが、彼だってまだまだ立派な大人には見えないのだ。
「で、何でまたあんなところで遊んでいたんだ?」
「遊んでたわけじゃありません。岸に髪飾りを落としちゃったから拾いに行ったら、そのまま足が滑って…」
次第に声が小さくなっていく。
要するに単なるドジである。偉そうに披露することでもないのだ。
居心地が悪くなってもぞもぞしていると、男はふっと少年のような笑みを見せた。
「家は近いのか?ついでだ。送っていってやる」
「でも…」
「心配するな。私は怪しい者ではない。高志の国長の三男、ハヤヒコだ」
「ハヤヒコ、様」
その名は聞いたことがあった。だとしたら、送ってもらうなどとんでもない話だ。
「いいえ。結構です!家はもうこの先すぐなので、一人で帰れます」
「ずぶ濡れの子供を見捨てるのは、性分じゃない。ほら、いくぞ」
彼はそう言うと、強引にナホの腕を引っ張った。ぐいっと引き寄せられ、整った顔が急に近くなる。
その横顔にドクンっと、ナホの胸が高鳴った。初恋の始まりである。
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