第一章 ①

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第一章 ①

季は初夏。 みずみずしい若草が辺り一帯を美しい緑に染め、斐川の水面はそれらと陽の光を反射してキラキラと光っている。弾ける様な若さがいたるところに溢れかえるこの季節が、ナホは一番好きだった。 「あなたの恋人は鉄ですか?」 数か月ぶりにハヤヒコに会ったナホは、思わずそう口にした。 畑仕事をさっさと終えて、息せき切って彼の元に走ってきたというのに、ちっとも相手にされないのだ。文句の一つを言っても罰は当たるまい。 ハヤヒコの手の内では、たった今打ち終えたばかりの鉄剣が宝玉のように輝いている。それを振りかざしながら、ああでもない、こうでもないと、ぶつぶつ試している姿は、まるで玩具を手に入れた子どもだ。 「かもしれないな」 ああ、そうですか。いつものことにナホは呆れて溜息をついた。 あれから数年。 頻繁に出雲に出入りしていたハヤヒコとは、いつしか兄と妹のような仲になっていた。 他国の者同士、さらには互いの身分も格段に異なっているというのに気心知れる間柄になれたのは、なんとなくウマがあったからだろう。二人きりでいる時は、ハヤヒコもナホに気楽に過ごすことを求めた。 だからといって恋愛関係にあるのかというとそういうわけでもない。 ナホの方ではもちろん恋心を抱いているが、ハヤヒコからはちっともそんな対象には見られていないのだ。彼からすると、ナホは気の置けない妹のような存在でしかないらしい。それはそれで寂しくはあるけれど、想いが叶うはずもないことは重々承知しているからか、妙に割り切れている部分もあった。こうして二人で過ごせる時間があるだけで幸せなのだ。 ナホがそんなぽかぽかした想いに浸っていたにもかかわらず、ハヤヒコは大して興味も無さそうにこう聞いてきた。 「お前は?そろそろ嫁に行く年だろう?」  …こいつは。 思わず、睨み付けてしまった。人の気持ちは十分に知っているはずだろうに、よくもぬけぬけとそう言えるものだ。 「今のところ、何も」 「ほう。当てがないというやつか」 刀身をまじまじと見つめながら、ハヤヒコは戯れを口にする。 「どうしてもと言うなら、引き取ってやろうか?」 「ええ。そうしてもらえたらありがたい、って悪い冗談は止めてください」 「そうだな」 思わず赤面した顔が、今度は白くなったに違いない。 今は、まぁいつもだが、彼の興味はまったくナホになかった。こっちは飛び上がるほど嬉しい話だったのに、彼にとっては鉄剣の微調整の方が格段に上の大事らしい。 「ハヤヒコ様は、どうして妻をもたないのですか?」 ナホは多少どぎまぎしながらそう問いかけた。 彼にこんなことを尋ねたのは、実はこれが初めてだった。何となく今まで口に出すことをためらっていたのである。 女と男の違いはあれど、ナホが適齢期であるなら、ハヤヒコはとっくにそれを過ぎている。ましてや彼は高志の国長の直系だ。幼いうちから相手が決まっていたとしてもおかしくない。それなのに、いつまでもふらふらしているのには何か理由があるとしか思えなかった。もっともその理由如何では、ナホはかなりの痛手を被ることになるのであるが。 この状況でまともな返事がくることはあるまいと、そう高を括っていたが、彼の答えは予想外にきちんとしたものだった。 「父上から特に言われていないからな。何か言われたら従うよ」 平然とそう言ってのけたハヤヒコに、ナホは後頭部を思い切り殴られたような衝撃を受けた。こめかみに手を当てながら、恐るおそる次の問いを口にする。 「…じゃあ、国長様がお話を出せば?」 「従うまでだ。おっと、ここに刃毀れがある」 やはりハヤヒコにとってこの話は大した問題ではないようだ。彼は問題となっているらしい一点をそっと手でなぞりながら、陽の光でその部分を照らし出した。 「ここが弱いと連打は無理だ。もう少し強度を増さないと」 泣きたい気分だったのは、ほんの一瞬。 ハヤヒコのあっけらかんとした態度に、すぐに涙はどこかに行ってしまった。無邪気にも見える様子で剣をいじっている彼に、恋の駆け引きを持ち出すのはばかばかしく思えた。それに相手はナホの気持ちを十二分に知っているのだ。今更、何かが劇的に変わるわけがない。 「元の鉄が弱いのか。それとも叩きが甘いのか。これだけじゃ判別がつかないな」 「あなた様は本当に鉄がお好きなのですね。そうしているときはとっても幸せそう」 完全に注意が鉄剣に向いたハヤヒコに、ナホもそちらの話に乗ることにした。せっかくこうして会えているのだ。無駄な話をして機嫌を損ねてしまうよりも、楽しい時を共有したかった。 「この輝きを見てみろ。美しいだろう。それにこの切れ味だ」 ハヤヒコはそう言いながら、鉄剣で手近な草を薙いだ。 ざくっという鋭い音を立てて、緑の葉っぱが宙に舞い上がる。はらはらと落ちるそれを見ながら、彼はこう続けた。 「木刀や青銅などとは強度が違う。これなら十分実戦でも役に立つだろうな」 「すぐにでも戦があるかもしれませんしね」 ナホは少しばかり皮肉を込めてそう言ったが、すぐさま後悔した。 もし戦になるとすれば、この国が反乱を起こす時である。高志の人間である彼にそんなことを言うのは、どう考えても間抜けだった。 怖々ハヤヒコを覗き見ると、案の定、鋭い視線の彼と目が合ってしまった。 まずい。 そう思ってびくびくしていたが、彼はナホの発言には深く突っ込まずにこう返してきた。 「今すぐにどうのという話ではない。いつ、いかなる時にでもすぐに戦えるように準備は整えておくものだ。いざとなって武器も兵糧も将も足りないとなったら、勝てるものも落とすことになるからな」 「そういうものですか」 これ以上藪蛇にならないように曖昧に言葉を濁したのだったが、ハヤヒコは探るような眼でこちらを見てきた。 そこにはもう、仲の良い兄貴分としての彼は見えない。 ナホと向かい合っているのは、支配者としてのハヤヒコだった。 そうなれば、どんなに小さな火種でも消しておきたいと考えるのは当然のこと。今のようなたわいもない会話の中の発言であっても敏感に反応してくる。 心中に抱えている高志への嫌悪感が見透かされそうな気がして、ナホは思わず彼から顔を背けて、視線を落とした。 地面には、さっき斬られた草の葉先がばらばらになって散らばっている。 どれもこれも切り口は見事なまでに平らだ。 彼の手にする剣の鋭い切れ味が、高志の冷酷さを表しているように思えてきて、背筋がうすら寒くなった。 支配する者とされる者、それが自分達の現実の関係である。 どんなに親しくなろうと、ハヤヒコとの間にある巨大な溝が埋まることはない。 ナホは、自分がいかに危険な行動をしているのかを改めて実感した。 国の仇を相手に恋をすることは、周囲の批判を受けるだけのことはある、とてつもなく馬鹿げたことなのかもしれない。下手をすれば自分の迂闊な一言で、この国が窮地に立たされることにもなりかねないのだ。
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