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愛用するアナログ時計の贈り主であり、未来の最愛の男。秋山ひびきは、未来の実の息子だ。 若いうちに生まれた子で、彼が幼いうちに、今も住まうあのマンションから母親と去っていった。時生の使用している部屋はかつての妻のものであり、使用していないもう一室は、たまに遊びにくるひびきの部屋である。 あの夜、彼の存在を時生に打ち明けたとき、それを受けてもなお、未来と変わらずそばにいたいと言ってくれたことが嬉しかった。 もともと実家がそれなりに裕福であり、今の部屋もひびきが出来てすぐに父親に買ってもらったものだ。だがそれからは自分の身ひとつでどうにか家族を養い、離れてからも彼らの生活に不足がないように一生懸命働き続けた。 ひびきの母親に恋人ができたときにも、彼はしばらく未来の家に泊まっていた。そして彼が高校を卒業してから、母親は予定より少し早く新たな夫との同居を始め、これを機にひびきも家を出る決心を固めたのだ。 隠し事はしないと言いつつも、息子には時生との関係を告げられていない。言う必要がないから…というスタンスではいるが、それがいつまで保ち続けられるのかは、本人にもわからない。しかしこれをあっけらかんと息子に話すことはできないのだ。 早くいい人を見つければいいと言われたが、自分にとってのいい人と彼にとってのいい人は、性別も含めて大いに隔たりがあるだろう。それに、彼が思春期のうちにできた母親の恋人のことで傷心していたのを見てきたので、もしも明かすにしても、年若いうちではなく、彼自身が大人として酸いも甘いも知ってからの方がいいと考えている。…そのときまで時生との関係が続いていればの話だが、それは互いに努力していくしかない。 まだ半月ほどだが、3人暮らしは良好だ。家政夫を雇うなんて贅沢だと言われたが、息子は時生を父の知り合いというよりも自分の友人として扱っている。生活にルールは設けているが、気ままな男たちのルームシェアといった様相で、息子には実家ほど肩身の狭い思いはさせずに済んでいるはずだ。 だがそれも時生の順応のおかげで成り立っていると言えよう。急な同居の話にも嫌な顔ひとつ見せず、いつもひびきの好きな料理を多く作ってくれる。彼は家族とたくさんの時間を共有することをなによりも重んじており、それは自分の家庭以外にも当てはまる彼の信念なのだ。だから、ひいらぎ理容室の改装後に太一と優が実家で同居をする、という話が本格的に出始めた今、あれだけ渋い顔をしていた彼もようやく腹を括ったと見え、弟が太一と共にふたりで幸せになることを望むようになったと、先日ぽつりと漏らしていた。 ー「あんなに大きなお子さんがいたなんて…下手したら兄弟というか、あなたの方が弟に見えますよ」 「それは言い過ぎでしょう」 「いや本当にけっこう見えるぞ。身体もでかいし、何よりアイツの方がお前よりしっかりしてるしな。母親似なんだろうな」 「はは、それは…確かに…」 「そういや母親はゴリラみたいな人間なのか?」 「い、いえ…ふつうの人間らしい人間です」 「灰枝さん、女性もいけたんですね」 「ええ…でも別れて以降は女性と付き合ってないですけどね。ひびきを作ってからはもう男として機能してません」 「…なんか生々しいな」 「ですね」 「…そうですか?すみません」 するとビニールを下げたひびきが戻ってきて、「うんこも持ってて」と袋を差し出してきた。未来が黙ってそれを受け取ると、彼は再び犬たちの元へ舞い戻っていった。 「親に向かってうんこを持っていろとはどういうことだ?」 「さあ…」 「でも素直でかわいらしい子じゃないですか。俺の周りにはひとりもいないタイプだ」 「だろうな」 「ところであなた方って、結局これからどうなるんです?」 「……」 「……」 「ふたりして黙らないでくださいよ」 「急にやめろよ。俺たちはフツーだフツー。普通に生きてくんだ」 「そんなの俺だって普通に生きていきますよ。そうじゃなくてあなた方の関係を聞いてるんです」 「そ、そうですね…俺たちは…その…」 「これからどうなるっていうか、もう俺たちは半分家族だ」 「……」 「家族…?」 「今のところ肉体関係はないが、いずれ起こりうるかもしれない家族だな」 「へ……」 「…!!」 未来の顔が一気に真っ赤になり、火照りとともに身体の至るところから汗が噴き出した。 「そ…そんな…じゃあ…ふたりはもう…」 「はっきり言っとくが、俺と未来はもう恋人だ。ひびきにはまだひた隠しているがお前は大人だから言う。これを機にお前はきれーさっぱり未来をあきらめろ。それかコイツのクローンを作れ」 「……そんな……」 あらゆる感情が入り混じり困惑する未来と、愛に飢えた野良犬のような目でわなわなと震える沢尻。しかし何かを計算するように瞳をせわしなく左右に往復させると、未来の目をまっすぐに見て言った。 「分かりました、じゃあ…あ、あなたの遺伝子をください」 「おい、なにが分かりましたなんだ?!てゆーかお前本気だな?!さっきは倫理とかなんとかほざいてたくせにどーなってる?!」 「精子でもいいですから」 「子供から行く気か!トチ狂うのもたいがいにしろこのサイコ野郎!おい未来、言うべきことはすべて言ったからもう帰るぞ!」 「え…あ、はい…あの、沢尻さん、精子とか遺伝子は無理ですけど、俺たちはこれからもときどきはご飯を食べる間柄でいましょうね」 「せめて友達って言ってくださいよ!!」 「もちろん友達ですよ、ずっと友達。永遠に友達です」 「うぅ…それもそれでものすごい傷つく…」 「おーいひびき、犬を連れて戻ってこい!じゃーまたな沢尻。いろいろありがとうな。お前は大事なトモダチだ。あと二度と未来に変な気を起こすなよ」 「感謝するか牽制するかどっちかにしてください!」 とつぜん涙ぐんでいる沢尻にギョッとしつつ、ひびきは気まずそうに彼の元にジェイクたちを連れて行き、「また遊ぼうな」と彼らの頭を撫でると、ルイと共に未来たちの方へ駆けて行った。 夕暮れの帰り道に伸びる、3人と1匹の影。何が起きようとも、沢尻とは明日も明後日もミドリホームで出会すのだろう。わけを知らないひびきは沢尻のことを案じているが、やはりこの一件も彼に伝えるつもりはない。大人3人とルイだけの秘密だ。 「メシは何にすっかなぁ」 少し先を歩く時生の大きな背中を見つめる。積極的には望まないと決めていたが、先の肉体関係についての発言によって、未来は自分の理性にピシピシと亀裂が入っていくのを感じていた。明日からふたりに何が起きるかわからない。しかし明日からもこの平凡な暮らしを営み続けるのだ。 「時生くん、沢尻さん大丈夫かなあ」 「さあな。おかしな奴だけど繊細だからな」 「なんで喧嘩してたんだよ。最初は抱き合ってたのに」 「喧嘩ではない。俺たちはトモダチが少ないからトモダチ付き合いが下手なんだ」 「なんだそりゃ」 「なあ未来、何か食いたいもんあるか?」 「そうだなあ…今日はジムに行きそびれちゃったから、俺は軽めのものがいいんですけど」 「俺は重めで」 「軽いとか重いとか抽象的すぎるぞ」 「あはは、すいません」 ハッピーエンドがほしいけれど、未来という言葉にはげんなりとする。しかし見えない不幸を案じて生きるより、何かが間違っていても、死ぬ間際に幸せだったと少しでも思っていられるのならそれでいい。 (でも人間なんて結局、今が幸せなことがいちばんなんだよな。人生いつ終わるかわからないんだから) 見たことのない時生の両親に想いを馳せつつ、例えば明日自分が死んだらと考える。だがやはりそんなことは無意味な心配であり、誰が死んでも同じことだと思った。 (ああ、そんなことより、時生さん…やっぱり好き。かっこいいし、可愛いし…) 出会ってからずっとのぼせているが、一目惚れの熱がおさまっても尚、彼が好きで仕方ない。こんな気持ちが残っていてよかった。そして彼が現れてくれて、本当によかった。 「よし、いいこと考えた」 そう言うと矢庭に新しく買ったスマホを取り出し、いちばん最初に入れた優の番号に電話をかけた。そしてしばらくのやり取りがあったのち、どうやら半ば強引に約束を取り付け通話を終えると、「犬を置いたらうちに行くぞ。みんなでメシにしよう」と言った。 「時生くんの実家?」 「おう」 「急に迷惑ですよ」 「平気だ、メシは俺が作るんだし。それに優くんもひびきの顔見たがってたしな。俺の襲来は嫌がってたけど」 「俺も優さん会いたい。サイトの写真めっちゃイケメンだよな」 「だろ?あれで金をたんまり儲けたんだ。ナマはもっとすごいぞ」 そう言ってめずらしく笑みを浮かべると、未来の手からルイのリードを奪い、「走るぞ犬!」と駆けていこうとした。だがルイはこれ以上運動するのを嫌がり地面に寝転がってしまったので、「クソっ」と苦々しい顔でそれを抱きかかえて走って行った。 「…俺らも走るの?」 「走ろうか」 「元気だな、あのおっさん」 「弟大好きだからね」 時生のあとに続いてふたりも駆け出すが、未来は体力に自信があったにもかかわらず、自分よりもずっと軽い足取りの息子にあっさりと置いて行かれた。彼はさらにハンデを背負った時生も抜かしていき、ちょうどランニングをしていた近所の人も抜かし、途中でスケボーに乗ればいいことに気がついたらしく、それに乗るとあっという間に彼方へと去ってしまった。 未来は時生よりもずっと後方で、ぐんぐん遠ざかっていく男たちの背中を、虚しさと嬉しさの入り混じった気持ちで見つめた。 すると途中で時生がこちらを振り返り、片腕を伸ばして、未来が追いつくのを待ってくれた。その手を取るあとわずかの距離、息を切らして走っていく道は、赤黒い夕焼けの中でも、未来の目には溶けるほど眩しく輝いて見えた。
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